お墓のルメル

沈黙静寂

第1話

 二〇二九年一月二十四日、大宮駅から原宿駅へと向かう。凍える手をコートに仕舞い、霞んで見える冬の夕日を正面に、ヘッドフォンから流れるフォークロックは街の独り身達から私を遠ざける。つまらない人生を歩む彼らに昔の自分を重ねて子供のように早歩きする。正月気分を忘れた駅前のエスカレーターで一呼吸置く。

 改札を過ぎたら発車五秒前の湘南新宿ラインに走り込み、浦和、赤羽を経て池袋に降りた。山手線内回りのホームへ移動し、電車が来るまで触る画面の中には目当ての人物が映る。彼女の名前は八重露やえろルメル、私と同じ部署に勤める三つ上の上司でその仕事振りから皆が頼りとする存在だ。元々は同じフロアの別チームで経営戦略を指揮していたが成績不振の私のチームに異動し改善を図ることとなった。実年齢以上に全てを悟ったような落ち着きと高い能力は自社には勿体無いと転職を噂されるが、彼女にその気は無いらしい。

 環状線で二つの駅を飛ばしたら竹下口を出て横断歩道を渡り、久し振りに若者由来の喧騒を浴びる。彼女を見逃さないよう前後左右を嘗め回しながら約束の場所へ向かう。今日は私達が付き合い始めて丁度六ヶ月となる記念日だ。同じチームに配属されて以降、食事と会話を重ねるにつれ互いを意識し始めて付き合うに至った。二人共良い年齢なので夜の淋しさを埋め合わせる相手を求める魂胆は否定出来ないけれど。

 竹下通りの吉野家の前でルメルを待つ。職場周辺以外で彼女と待ち合わせるのは初めてで、折角なら日頃通らない駅で休日を過ごしたいと思ってこの地を選んだ。原宿は高校二年生の夏に学校をサボタージュする序に観光した程度で、一人しか友達の居なかった私が頻りに訪れる対象ではない。そんな根暗に彼女が生まれて都会でデートする未来が来るとはまさか思わなかった。この日の為に購入した鞄をぶら下げて彼女の黒髪を待つ。

「こっちはもう着いたよ」再び開いた画面の中へと文字を流し込む。十三分前に「遅れるかもしれないから先に店に入っていて」と宣言されたように時刻は予定を十八分過ぎているが、背中のカウンター席に座るのは憚られて棒立ちする。私のメッセージに既読は付くが肝心の返信が来ないのは、急な訪問者への対応や身の周りでの不慮の事故以外に何が考えられるだろうか。常に複数のタスクに追われる彼女の多忙さは理解しており、だからこそ今日だけは二人の時間を取りたいと思い確認は事前に済ませていた。立ち尽くしたまま三十二分が経った。

「ごめん。仕事が立て込んでいて今日は無理」返ってきた彼女の言葉は震える手から零れ落ちる。結局この場で待つ意味は無くなった。瞬間に私の脳味噌で揺れていた赤い糸がプツと切れた。こうも呆気無い。アァそうですか、ハイハイ。

 返信を止めてカップル共が跋扈する夜の街を駆け抜ける。路上の自動販売機とホームレスを蹴飛ばす。黒い夜空が倫理を何処かへと失くす。彼女は予定を断った。私が決めた大切な予定を勝手に断りやがった。私は電車に乗って多くの時間を轢き殺した。また線路に飛び込もうとした。幾ら約束しようと彼女には私より大事なものが沢山あるようだ。私だけ特別だと思い込む例のパターンが再来した。ドウゾ、君は自分の世界だけで生きていてください。二度と私に関わらないでください。その方が助かるので。

「……オイふざけるなよあの糞女!」だけどどうしよう、人を殺したい。都会の真ん中で誰かを殺したい。嬲りたいし殺したい。死ねよ今直ぐ。誰か誰が何処に居るんだよおい!ははははははへはさははは!へへへへへへヘヘヘへへへヘヘヘ!殺したい。どうしよう?

「オイお前ら、見世物じゃねぇぞオイ!」私の秘めた暴力性が輝きを放ち始める。叫ぶこちらを窺う脇役共に人を殺すような目線を届ける。馬の血肉汁。殺したい、アァ殺したい。何事も無く人生を送れるとでも思ったのか?へへへへへへへへへへへへ、皆馬鹿が過ぎる。人を馬鹿にするのは楽しい。

「見たら埋めるぞコラ!ハハハハハハハハハハ」調子に乗るんじゃねぇぞ。彼女は私を本気で怒らせた。今までも表面的には上司と敬っていたが噛み合わない場面は多々あった。予定を尋ねても散々断られてきた。その度に私が折れてつまらない思いを重ねた。こんな奴は早めに脇に捨てた方が良かった。私は私の為に生きるべきだった。他人なんて全員糞なのだから。ハァ、レイプしたいなア。顔を凸凹に殴り倒して路地裏のゴミ箱に捨てたい。罪無き人を葬るのは申し訳無いから当事者を殺害しに行こう。衝動のまま池袋の東急ハンズで果物ナイフを購入し、「紙袋もください」後先はあまり考えないが袋に包んで誤魔化そうとは思った。

 ルメルは高円寺に住んでいる。総武線で揺れながらどうしても会いたいと素直に返信し、高円寺駅前に無理矢理呼び出す。断られたら絶叫と共に住所を尋ねるつもりだったが、ラフな格好の彼女が近付くのを電柱の陰から捉えた。焦燥感に駆られているだろう彼女の背中に狙いを定め、カレー屋の前で刺した。何せ彼女の自宅さえ知らない私は開放感を求めて道端で死体を生み出した。

「これは天からの罰だ。お前は悪いことをしたんだから」まだ意識のある彼女は涙を流して止めてと叫ぶ。犯罪心理への疑問符はどうでもいい。その醜態を拝むと私は漸く笑顔が溢れて、彼女の長い胴体で刺身を造る為にユニクロのコートを脱がす。試しに足裏で体重を加えれば苦しそうな顔に白眼を添えてくれる。我慢してばかりの私が主導権を握るのは初めてかもしれない。無毒で都合の良い女を利用して、仕事と恋愛を両立するつもりだったんだろ?

「世の中そんなに甘くねぇんだよバァカ!!!」笑いが堪え切れず腹を抱える。本当に私の周りには面白い人間が多いナァ。皆決まり切ったように私を裏切るから。だけどこんなもんだよな人生。二十九年間で学んだのはこの世界に本物の愛は存在しないということ。

「……本当は楽しみにしていたのだけど」最後に独り言を伝えてみた。ナイフを持ち上げて止めを刺そうとした瞬間、不意に目の前の景色が暗転した。シンナー混じりの馬鈴薯のスープを飲み干したような猛烈な眩暈が襲う。何が起きているか分からないまま殺人の余韻から解き放たれる。

「AnUsolOKaH2Ioc……」彼女は言葉にならない声を上げて死んだ。

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