【番外編】優しい妖狐
きつね色の髪。ぴょこんと立った一対の大きな耳。
巫女服に似た衣装を身に纏った少女は、湖へと足を垂らしながら手にした杯をゆっくり傾けた。桜色の唇からほう、と吐息がこぼれ、降り注ぐ月光の中に消えていく。
酒の美味を示すようにふさふさした尻尾が揺れる。
少女の隣に座ったレンは自分の分の杯を両手で包み込んだまま、シオンの美しさに思わず見入った。視線に気づいた少女は恥ずかしそうに頬を染めて「あまり見ないでくださいませ」と抗議してくる。
「いいじゃない、二人っきりなんだし。それに、シオンの可愛いところを見逃したらそっちのほうが良くないよ」
「もう。レンさまはそうやってすぐにからかうのですから」
「からかってないよ。シオンは本当に綺麗だし、絵になると思う。太陽の下も良いけど、こうやって月の下でも映えるよね」
今日はシオンと二人っきりの夜。
吸音のマジックアイテムを用いてベッドの上でというのもいいけれど、たまには別の趣向を、と二人で湖にやってきた。
広い湖の上には木々がないため星空がはっきりと見える。
夜、森に踏み入ってくる者は皆無に近いし、二人のいる場所はいまシオンのスキルによって聖域化されている。スキルがなくとも森の獣たちがシオンを攻撃することはない。動物には自分より強い相手が本能的にわかるらしい。
「うう」
呻いたシオンは照れを隠すように杯を再度傾ける。
酒は十分な量を持ってきている。節度さえ守れば食に困らない程度の資産はあるのでけちけちする必要はない。
レンも一口、清酒を喉に流してその味と風味を楽しみながら少女の顔を横目に見て、
「月が似合うというのならレンさまこそお似合いではないですか」
「ん……それって、もしかして悪魔的な意味?」
「ええと、そうですね……映えるという意味では、そうなるかもしれません」
黒い翼と尻尾。紫紺の髪と瞳も夜闇に紛れやすく、白い肌が良いコントラストとなって月明かりに映える。月に向かって飛んでいく蝙蝠のシルエットなんてよく描かれるモチーフだし、それだけ象徴的で印象的な題材だということだ。
「サキュバスだからね。悪魔とはちょっと違うけど、夜の住人なんだろうなあ」
「レンさまは昼間でもお変わりないように思いますが」
「む。シオン、さてはお返しのつもりで言ってるでしょ」
「わたくしにも少しくらいはお返しをさせてくださいませ」
静かな森の中では大きな声を出す必要もない。
虫の声や風の音、葉擦れの音を聞きながら囁き合うように言葉を交わす。
つまみはストレージに収納した油揚げだ。
二人とも火の魔法が使えるので食べたい分だけあぶってかじりつけば良い。和の食材である油揚げは当然ながら清酒に合う。
「静かだね」
「本当に。……都会の喧騒を忘れられるのは、この世界の良いところですね」
「日本じゃなかなかこうはいかないもんね」
異世界にはテレビも自動車もスマホもない。その分、時間はゆっくりと流れていく。合わない人にはとことん合わないだろうが、レンはけっこう気に入っている。シオンもそう思っていることはわざわざ尋ねるまでもなくわかった。
「これ絶対、帰った時大変だろうなあ」
「本当ですね。予定と時間に追われる生活は絶対に大変です」
「遅れそうだからって空飛ぶわけにもいかないしね」
学生をやっていた頃は某猫型ロボットのどこでも行けるドアが羨ましくて仕方なかった。時短を追求するなら空飛ぶ方向性じゃなくてあっちが必要か。やはり賢者のテレポートはチートだ。そのうち転移魔法が取れる職業に転職してもいいかもしれない。
「レンさまは、日本に帰ってやりたいことはありますか?」
「わたし? ……そうだなあ、やっぱりモデルとか、ウェイトレスとかかなあ。シオンは?」
「わたくしは……そうですね。田舎の神社で巫女などできたらいいかもしれません」
「こんな可愛い巫女さんがいたら大繁盛しちゃうよ、その神社」
その気になれば神社をガチのパワースポットに変えることもできる。巫女さんが有能すぎて神主さんの立場がないかもしれない。
シオンはふう、と息を吐いて、
「駄目ですね。わたくしが今のわたくしのままでいる前提で想像してしまいます。日本に溶け込むことを考えれば、人間に戻るほうが良いはずなのですが」
「無理に戻らなくてもいいんじゃないかな。シオンの場合は特に、日本にいてもぜんぜん違和感ないだろうし」
なにしろお狐様だ。拝まれて祀られるまである。黒髪の人間状態でも絶滅危惧種の大和撫子なので巫女さんにはぴったりである。
「そう言っていただけると、少し気が楽になりますね」
微笑むシオン。
「今の身体、気に入ってる?」
「ええ。最初は戸惑いましたが、今となっては元に戻るのが惜しいくらいです。みなさまがわたくしを肯定して保護してくださったおかげですね」
「わたしたち、少しは役に立てた?」
「返しきれないほどの恩をいただきました」
「わたしたちも、シオンにいっぱい助けられたよ。シオンがいなかったら死んでたかもしれない」
少女はくすりと笑って「では、おあいこですね」と言った。
「先の道のりはまだ長いです。……もうしばらくは、みなさまと一緒にこうしていられますよね?」
「もちろん。感傷的になるにはまだ早いよ。これからモンスターより手強い相手を迎えないといけないんだから」
「そうでした。……子供の相手はわたくしもほぼ経験がありませんから」
レンのお腹にいる子はフーリとの子だ。なので基本的には二人で育てるつもりだが、みんなにも協力してもらうことはどうしてもある。その代わり、シオンとの子が産まれても他のみんなが助けてくれる。
親が二人しかいない普通の家庭とは違うレンたちならではの利点だ。
「では、こうしてのんびりできるのはもう少しの間だけかもしれませんね」
そっと、少女がレンの肩にもたれかかってくる。軽いシオンの体重、柔らかさと体温を感じながらレンは微笑んで杯を空にした。
シオンが黙ってお代わりをついでくれる。
夏の初めの夜の空気はとても心地よく、湖の少し湿った空気が落ち着いた雰囲気をさらに強めてくれる。
「レンさま。今夜はずっとこうしていても良いでしょうか……?」
「もちろん。お酒もおつまみもまだまだあるしね」
二人だけの夜がゆっくりと更けていった。
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