第6話
僕らは川沿いの遊歩道にあるベンチに並んで座った。遊歩道を歩いている間、会話は全くなかった。とはいえ、違和感はなく、この景色を共有しているだけで十分なコミュニケーションがとれているような気がした。
「夜の隅田川って、こんなに綺麗なんですね」
彼女から口を開いた。
「贅沢な景色ですよね。僕はずっと見ていられます」
僕は小さなビニール袋からビール2缶を取り出して、1つを彼女に渡した。
「すいません、勝手に連れてきて。こんな川沿いに」
「いえ、最高の場所ですよ。こんな素敵な場所でビールを飲むのは初めてです」
彼女は視線を川に固定したままだ。これまでの明るい彼女とは違って、何か思いつめたような表情にも見える。僕は缶ビールのブルタブを開けて、ゆっくり一口飲んだ。
「あっ、美味しいですね、これ。苦いけどフルーティー。確かに。飲むとわかりますね! この味は体験したことがないです」
僕は、ビールの味の奥深さに改めて驚きながら彼女を見た。彼女はゆっくりと缶ビールのプルタブを開けて、川を眺めながら口に運んだ。
「美味しいですね。この場所に合ってますよね」
彼女は再び笑顔に戻って、僕を見ながら言った。
30分くらい川を眺めながら、彼女とビールを飲んだ。会話は控えめだったが、とても心地よい時間だった。
「そろそろ帰りますか?」
僕から声を掛けた。まだ20時30分過ぎ、しかも金曜日の夜だ。もう少しこのまま居たかったが、今日はここで別れた方がいいような気がした。時折、彼女が腕時計を見ているのが気になっていたからだ。明るい彼女だが、時折声を掛けづらい雰囲気を感じる。
「そうですね、帰りますか」
今まで見た彼女の笑顔の中で一番明るい笑顔だった。
「缶、捨てときますよ。僕家近いですし」
僕は彼女が両手で持っている缶をゆっくりと手に取り、小さなビニール袋に入れた。
「駅は浅草駅ですか」
「あっ、はい…」
彼女は少し驚いた様子だったが、このあたりで飲んでいれば浅草駅が最寄り駅である可能性が高い。以前、彼女が店から出て、歩いて行った方向からも推測できる。
「送っていきますよ。僕は家が近いんで」
「ありがとうございます…」
彼女は笑顔で答えた。僕らは、吾妻橋に向かって川沿いを歩いた。彼女は口数が少なかった。
金曜日の20:30過ぎだ。さすがに浅草駅周辺はまだ混み合っている。
「この辺で大丈夫ですか?」
僕は地下鉄の入り口前で彼女に聞いた。
「・・・」
彼女はうつむいている。
「あの、私、ちょっと用事があるので、もう少しこの辺を歩いてから帰ります」
少し間を置いて、彼女から予想外の返事が返ってきた。僕が早く切り上げ過ぎたからだろうか。
「あっ、まだ飲み足りないのであれば、どこかのお店に入って、飲み直しますか? 付き合いますよ」
「いえ、大丈夫です。そういうわけじゃなくて…すいません」
笑顔のビール伝道女子とは全くの別人に見えた。とはいえ、僕は彼女のことを何も知らない。彼女が何歳で、どこに住んでいて、何をしている人なのか、何もわからない。名前すらわからない。会話をした時間だって、結局トータル2時間にも満たない程度だろう。僕が1人で勝手に前のめりになり過ぎていただけだ。
「謝る必要なんてないですよ。こちらこそすいません、いろいろ勝手に…」
何か用事でもあるんだろう。気にはなるが、ここは早く別れた方が良さそうだ。
「今日も楽しかったです! またビール教えてください」
僕は慌ててそう言って、彼女に小さく手を振った。
「はい、ありがとうございます」
彼女に笑顔が戻った。僕は急いで彼女に背を向けて、隅田川に向かって歩みを進めた。
…が、どうしても彼女のことが気になる。
振り返って彼女の姿を探した。一瞬だけ。
足早に浅草の雑踏の中に溶け込んでいく彼女の後ろ姿が見えた。
相変わらず、隅田川沿いをジョギングする人は多い。4月ではあるがまだ少し肌寒い。休日の朝早くから起きて、ジョギングをする人達は尊敬に値する。僕には真似ができない。
この窓から見える遊歩道を少し上流に向かって歩くと、彼女と歩いた遊歩道があり、彼女と並んで座ったベンチがある。あの日以来、彼女には会っていない。
僕は、相変わらず無難な日々を過ごしている。でも、彼女と出会ったビアバーにはちょくちょく通うようになった。通勤経路上にあるので通いやすいし、何より、僕自身がビールを好きになってしまったからだ。このビアバーの難解なビールのメニューも今ならわかる。
さすがビール伝道女子だ。
隅田川とビールの泡 うえすぎ あーる @r-uesugi
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