第3話

「このビール気になりますか?」

女性が柔らかい笑顔で、グラスを凝視している僕に声をかけた。

「あっ、す、すいません」

はっと我に返った。

他人のビールを凝視していた。しかも見ず知らずの女性が飲んでいるビールを。

「赤いビールだったので。ワインみたいで。なんか、凝視してしまいました。すいません」

僕はビールから目を逸らし、女性の方に視線を移した。女性は笑っている。カウンターで1人で飲んでいる女性はクール、という勝手な印象を持っていたので、予想外に気さくなリアクションに少しほっとした。

「あっ、これは、果物のビールです」

女性はグラスを持ち上げながら言った。隙のない綺麗な指だった。

「果物? 果物が混ざっているということですか?」

果物とビールが僕の頭の中で紐づかなかったので、少し驚いた。

「クリークという種類のビールで、さくらんぼが入っているんです」

「あっ、さくらんぼの色ですか。あまり見ないですね。日本のビールですか?」

僕は改めて、このワインみたいなビールに視線を移した。

「ベルギーのビールです。ランビックという天然酵母を使ったビールで、飲めるお店は少ないかもしれないです」

「へぇ、ビールお詳しいんですね」

僕は初めて出会うビールに純粋に興味がわいた。ビールの世界は奥深いものなのかもしれない。

「はい、ビール大好きなんです。このお店は珍しいビールが飲めるので結構通ってます」

彼女が笑顔で話すのを見ながら、僕は彼女のことを羨ましいと思った。


僕がビールに関する素朴な疑問を彼女に投げかけていると、彼女は少しづつビールのウンチクを初対面の僕に語り出した。ゆっくりとした口調ではあるが、語り出したら止まらないタイプなのかもしれない。でも、決して嫌な感じはしない。ウンチクを語る人の多くは、そのウンチクの節々に自身の自慢を挟み込んでくることが多い、と僕は思う。こういう人のウンチクを聞くのは嫌いだ。だが、彼女はその類ではない。彼女の話には、ビールについてのウンチクは豊富に含まれているが、彼女の自慢はおろか、彼女自身の情報も不思議なくらい含まれていなかった。純粋にビールが好きな人なのだろう。


ビール伝道女子、まさにこの言葉が彼女にはふさわしい。


気付けば40分近く彼女と話をしていた。カウンターで初めて会った女性と自然に会話が始まったことにも驚きだが、その会話のほとんどが、これまで全く興味のなかったビールの話というのも面白い。僕は自分から他人に声をかけるタイプではないので、これまで体験したことのない展開だ。


会話の間、僕はビールを2杯追加で注文した。どれも彼女が薦めてくれたビールだ。彼女のビールのウンチクを聞きながら、未体験のビールを飲む。なかなか乙な体験だ。僕の中にあるビールの概念が大きく変わっていく。


彼女は、3杯目のビールを飲み干してから、ゆっくりと立ち上がった。

「では、私は帰ります。お話できて楽しかったです」

座っている時は気づかなかったが、立つとすらりと背が高い。170センチくらいはありそうだ。なんだかスマートで格好いい女性だ。ビールにも詳しい。

「ありがとうございました。色々勉強になりました。ビール」

僕は高めの椅子に座りながら、会釈をした。

「こちらこそ、ありがとうございました」

彼女は店を出て、僕がいつも帰る方向とは逆の方向に向かって歩いていった。


彼女との会話はとても心地良かった。平日にこの感覚は珍しい。彼女のおかげで、ビールについて少し詳しくなった気がする。彼女の名前くらい聞いておけば良かった、とも思ったが、まぁ、今度会うことができればその時聞けばいい。


僕は店を出て、彼女が歩いていった方向とは逆の方向に向かって歩いた。ここから家まで5分もかからない。いい金曜日だった。こんなに充実した金曜日を過ごしたのは何年ぶりだろうか。

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