由利島沖海戦

 関ヶ原の戦いが幕府軍・朝廷軍双方にとって痛み分けに終わってしばらくしてから、お互いが相手を名指す呼称に変化があった。 

 もともと(役者は違えど)二五〇年前の再現となったことで朝廷軍が西軍、幕府軍が東軍と呼ばれる通称は広がっていたのだが、関ケ原の戦いのあとに双方がそれを自称するようになった。

 さらに幕府軍が相手を「偽軍」と呼び、朝廷軍が幕府軍を「賊軍」と呼んでいたのがピタリと止む。戦争の名もまた変わり「戊辰戦争」「戊辰の役」から「東西戦争」へと変化した。

 いずれもこの戦争が生半なことでは終わらないことを見据え、相互の妥協の可能性を見出すために歩み寄りの姿勢を示す変化であった(同時に単年を示す「戊辰」を外したのは、長期戦にも備えているという姿勢、硬軟両方を否定しないという表明でもある)。

 関ヶ原の戦いでの損害、特に武士団の壊滅はそれほどの姿勢の変化を両陣営に強要している。西軍は一時掲げていた「錦の御旗」を全て廃棄し、東軍も倒幕派の粛清の手を緩めた。

 どちらもこの戦争を諦めたわけではないが、勝ち切ることは不可能であることを悟った結果だった。




 関ヶ原の戦いの結果、大規模な野戦の実施はどちらも不可能な状態に追い込まれたものの、より打撃を受けたのは西軍であった。

 戦力的な打撃という意味でも人口における武士比率の高い薩摩・諸兵隊も含めた動員率の高い長州の被害は重かったものの、より深刻なのは戦争指導をめぐる混乱が生じたことである。 

 どちらも全軍洋式化を推進していた薩長連合は、自分たちこそが倒幕の指導者であるという自負が強い。戦争でおおむね順調に推移していた間は、互いの意見をすり合わせて尊重していく合議によって戦争を指揮することに破綻はなかったが、関ヶ原の戦いでの損害でより統一的な指揮が必要であるという認識に達する。関ケ原の戦いの推移の早さに、名目上の指揮官は置いていたもののその独断で戦闘を指揮できない合議の原則が通用しないことが判明したためである。

 こうなると名目上の指揮官が自身の判断で即座に動く実のある指揮官となるが、誰が、もといどちらに属する人物が指揮官を務めるのかで揉めた。

 特に総指揮官は誰が就任するのかで薩摩・長州ともに譲らず、調整がつかない。

 作戦指揮の混乱の結果、動員可能な総兵力数では東軍を上回っていた西軍も、野戦において攻勢を取ることは出来ず終いで、陸戦は大阪城攻防が膠着状態のまま続けられるという状況に陥った。


 一方で戦局が活発になったのは海の戦争だった。

 東軍はもともと海軍力が西軍に優越しており、この有力な海軍が大阪城包囲下においても円滑な弾薬補給を保証していた。この海運が安定していたために攻防戦が膠着していることは西軍も承知していたから、薩長連合ほかの先進諸藩が総力を上げて軍艦を建造して瀬戸内海の制圧と、江戸東京方面と大阪の通商破壊のために活動を進めていた。従来から西軍と東軍は散発的に通商破壊とその護衛とで小競り合いを起こしてはいたが、しかし関ケ原の戦いののち様相は一変する。

 関ヶ原の戦いが痛み分けに終わったことで、尾張藩兵は名古屋に戻ることなく京より西へ撤退していく。このことで名古屋の港が東軍の自由に使えるようになり、これまで江戸と大阪を直通できる規模のある蒸気船に頼っていた弾薬補給・海運路がより小型の帆船でも通航できるようになった。

 この結果、蒸気船の多くを軍艦として転用できることになり、海運路の保護に加えてさらに、瀬戸内海を東から制圧する作戦が可能となった。

 

 名古屋を喪ったことで短期に運用できる軍艦の総兵力で東軍におおきく劣勢になった西軍は、この戦争の禁じ手に手を付ける。

 アメリカ・イギリスから打診されていた軍艦の購入に踏み切り、外国勢力の介入の足がかりを与えてしまうのである。


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