関ヶ原の戦い


 鳥羽・伏見の戦いの後、大阪城に拠った幕府軍は朝廷軍の予想をおおきく超える抵抗を示した。

 そもそもの戦端が開かれたのが朝廷軍の目論見が外れていたため、朝廷軍の戦力が揃っていなかったために圧倒できなかったというのもあるが、先の長州征討で惨敗を喫した幕府軍がまさか抵抗するとは予想されていないことだった。

 

 機先を制した将軍慶喜が大政奉還したため、これに対して京を退去する勅命を出して対抗した朝廷であったが、慶喜は驚くことにこれを受け入れ、京からいっさいの幕府勢力の撤収に同意し直ちに行動を起こした。

 苛烈な要求を出してそのまま通るとは思っておらず、その条件交渉の展開を外部には優柔不断な幕府、勅命に抗命する幕府、と印象づける腹づもりであった朝廷側にとっては大政奉還に続いて予測が外れたことになる。


 二度にわたって幕府に裏をかかれた朝廷は、もはや政治工作による幕府の打倒を断念。実力でもってこれを排除することを目指し、本格的な内戦に突入することになった。幕府、というより徳川家の安泰を保障して権力移譲を済ませようとしていた穏健派が失脚し、幕府を武力によって排除して権力奪取を目指す強硬派が朝廷内の指導層の主流派に躍り出る。


 幕府軍最強の呼び声高い紀州藩兵が入城して防御を固めた大阪城に、京から下ってきた将軍以下の幕府主力が到着し、薩長連合が中核となっていた朝廷軍に尾張藩兵が合流した頃。

 もはや朝廷と幕府の和睦の可能性はほとんどなくなった。

 徳川家内で尾張・水戸と紀州・本家に別れて相争う形になったため、どうにもあとには引けない。大阪に落ち着いた幕府、京を掌握した朝廷双方が態度を明らかにしない曖昧な藩に盛んに工作をおこない、自軍の勢力を拡大しようと躍起になっていた。


 大阪攻防戦は双方の外交闘争の格好の宣伝材料だった。

 朝廷は京から薩長連合、名古屋方面から反旗を翻した尾張藩の挟撃で大阪をさかんに攻め立てていることを喧伝するのに対して、幕府は難攻不落の名城、大阪城に幕府最強軍の紀州藩兵を擁して絶対不敗の体勢を喧伝している。 

 どちらも真実を含んでいるが、そうした激突がどちらの有利ともいえない膠着状態であることは伏せたまま、宣伝合戦だけが過熱していく。

 

 状況が膠着するのは朝廷軍は決定打に欠けるために包囲を維持するのがやっとであり、幕府軍もまた打って出るほどの戦力の余剰がなく、海上輸送で弾薬補給の回路を維持しているが攻勢に反転できるほどの弾薬の備蓄が出来ないという弱点を抱えているためであった。



 こうした状況がおおきく動いたのは、江戸の騒乱を鎮圧した幕府側が東から尾張藩を攻め立てたことによる。

 桑名藩・亀山藩・津藩が揃って幕府側につき、東から尾張の国境を脅かしはじめたのだ。

 既に大阪城包囲に主力を投じている尾張藩は、これらの勢力を国境で阻止するだけの兵力をもたない。自身らの朝廷軍が大阪城下を派手に焼き払って戦闘を続けていることを鑑みて、名古屋をこの二の舞にしないために藩兵が撤退、無血開城する。

 尾張藩は残存している兵力をすべて西進させて大坂城包囲に参加している主力との合流を前提に関ケ原に陣を敷いた。彦根藩は先の長州征討で受けた損害から回復しておらず、尾張藩の攻勢に耐えきれず敗退。

 関ヶ原は朝廷軍の制圧の完了した京都方面からの倒幕雄藩連合の援軍も期待できる好立地だった。

 名古屋をおさえた佐幕諸藩も、関ケ原近辺で戦線が安定して、その分余剰の朝廷側兵力が合流して大阪城包囲が増強されるのは避けたいため、兵力がやや足りないのを承知の上でさらに西進して関ケ原方面を目指す。幕府軍は名古屋をおさえたことで、東北佐幕諸藩から動員された兵と、江戸近郊で編成された幕府陸軍を海上輸送できるという強みがある。増援が届くことを前提に先鋒が急進することが可能となっていた。


 双方の思惑が重なり、次の決戦地は関ヶ原だという空気が急速に醸成されつつあった。



 幕府・朝廷双方の野戦軍が展開をほぼ完了した関ヶ原において、問題となったのが大砲の布陣であった。

 双方、使用している砲は四斤山砲が主力。歩兵に追従するには機動性が足りない砲で、歩兵が陣を敷いたときには幕府・朝廷ともにまだ移動の最中だった。

 これを待つか、それとも歩兵だけで戦争をはじめるか。

 難しい判断であった。

 数年来の戦闘の経験からどちら側も大砲の必要性は理解している。大砲の布陣を完了してからの戦闘が常道であることは分かっている。

 しかし一方でこの内戦をはやく終わらせないかぎり、外国が介入してくるのは必至であった。現に大阪や京、江戸にはさかんに公式非公式に海外列強の接触が続いている。どの国も内戦に肩入れするのと引き換えに、本邦における優先的地位の保障を要求しており、阿片戦争の顛末を知る朝廷も幕府も現状では介入を拒否する方針は一貫していた。

 それでもこの膠着状態が続けば、介入を受け入れて状況を打開しようとする動きが生じても不思議はない。双方の首脳で関ケ原こそがこの戦争の天王山であるという認識は一致している。




 佐幕諸藩連合からなる幕府軍は大砲の布陣で遅れを取ると予想されていた。

 そこで強襲するか、それとも正攻法でいくために大砲の布陣まで待つかで対立する。

 諸藩は強襲を支持するが、幕府陸軍が正攻法を主張して譲らない。規模の面では主力とはならない幕府陸軍の意見が一蹴されないのは、長州征討の小倉防衛戦の実績が効いている。長州征討に参加した武士団が目立った戦果を残せなかったのに対し、幕府陸軍農兵隊が活躍したことはその主張に相応の説得力をもたらしていた。

 

 一方の倒幕雄藩連合が主導する朝廷軍ではこうした意見の対立はほとんど見られなかった。長州ほかの雄藩連合は、一連の戦乱において武士団による戦果がおおきかったし、農兵はほとんど武士団の補助としての存在感しか示していない。

 火力の優越の重要性は雄藩連合も了解していたものの、それよりも拙速でも攻勢をかけて戦運を握ることのほうが重要だと考えていたため各藩の歩兵隊・武士団が展開を完了した時点で即座に火蓋を切った。


 結果として幕府軍は意見が固まらないまま先制されたものの、守勢に回ったことで選択肢が狭まったことが幸いし、防戦で徹底することに確定する。

 方針決定が間に合わなかったために、最前線に布陣していた亀山藩の武士団は倒幕雄藩連合の先鋒によって突破されたものの、次陣の桑名藩の猛反撃で食い止められ、ここで突破衝力を失った。 

 倒幕雄藩連合は先に展開した大砲をもって攻勢を強めようとしたものの、桑名藩の後詰めで展開していた幕府陸軍は砲撃にたいして部隊を散開させて抵抗する。

 散開した歩兵に対しての砲撃の効果は薄く、火力支援を受けて強引に突破を図った雄藩連合の先鋒は、幕府陸軍の包囲射撃によって壊乱した。

 幕府陸軍は水戸天狗党の乱以後、野戦での戦い方を知悉しそれに合わせた訓練を施していたため、大砲の火力を相殺する戦術にも通じていた。

 大砲にやられないために散開することで、自身の攻撃力を発揮することも困難になるのだが、それでも散開して兵力の保護に務めるほうが良いという判断をしていたのが幕府陸軍であった。

 

 第一波を凌いだことで勢いに乗った幕府軍は、佐幕諸藩連合の武士団を主体として逆襲に移った。朝廷軍の先鋒を凌いだ桑名藩と幕府陸軍はまだ態勢が整っていないため、逆襲の指揮は幕府軍のサムライによって執られることとなる。

 対する朝廷軍の守備もサムライが指揮をしている。近代装備・洋式装備部隊は先鋒に動員されていたために幕府軍・朝廷軍双方がサムライ主体で戦うことになった。

 この第二幕が関ヶ原の戦いでもっとも参加兵力が多く、派手な戦闘となる。


 双方が旧式装備、刀槍を主体としゲベール銃という武士団同士の戦闘は派手だが益の少ないものだった。無駄に消耗してなんら戦況に影響を及ぼすことはなかった。

 幕府側も朝廷側も、展開の完了した大砲の的になるばかりでいたずらに死傷者を重ねるのみだった。

 

 先に洋式部隊の態勢を立て直して介入していったのは幕府側で、既に戦闘集団の体裁を失いつつあった朝廷側の武士団を一方的に蹂躙していった。

 後手に回った朝廷側は洋式部隊を直接、幕府側の洋式部隊にぶつけることはせず、こちらも解体されつつあった幕府側の武士団を激しく責め立てる。

 互いにサムライこそが弱点という認識に基づき、脆弱に広がるそれを蹴散らして相手の後奥まで突入することを目指したものの、いずれも果たされることなく終わった。

 洋式軍隊の攻撃力は、数だけは多い武士団に吸収されて本陣を突くだけの余裕を喪っていた。


 明治元年。

 関ヶ原の戦いは、夥しい死体を残し、双方の武士団がこの時代においては無価値であることを示して終わった。

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