大政奉還

 腰は軽く、肩は重い。

 同輩たちが不平を鳴らすなか、新撰組隊士 傘村又三郎は黙っていたもののこちらのほうがまだ違和感がないと感じていた。

「又三、公方どのは惰弱にすぎるとは思わんか」

 傍らを歩いていたおなじ軽輩の男が担ぎ慣れぬ鉄砲を何度も担ぎ直しながら話しかけてくる。鳥羽街道には狭まった箇所があり、そこを通過する段では男二人が肩を寄せあって歩いていても不自然には思われなかった。

 さらに声を潜めて男は続けた。

「だいたいなぜ俺たちが刀を佩いてはならぬのだ」

「これがお勤めではないということを世に示すためではないのか。町人からすれば薩長の鼻息が荒いのに公方さまが折れぬとなれば、戦が近いと怖れるのも道理だろう」

「ここは京だぞ? それを気にするのは連中の方であろうが」

「あのイモザムライどもにそんな上等な真似ができると思うか」

 又三郎の答えに、男ははじめて呵呵と笑った。その声はほかの隊士の雑談の音に混じって消える。慌てて城と屯所を引き払ってきたものだから大名行列のようにはいかない。行列の作法も知らない下々まですべて引き連れての大阪行き。騒がしい道行だった。

 


 大政奉還後。

 幕府は京都の拠点を引き払い、沙汰あるまで大阪で控えよとの勅命を受けた。

 薩長ら倒幕雄藩の息のかかった朝廷のあからさまな挑発だったが、慌ただしく将軍位を継承して在京していた慶喜はそれにはのらず、逆に綺麗サッパリと京都から足抜けして大阪に篭もることを宣言した。

 江戸での雄藩屋敷を中心とした騒擾の発生などを早飛脚など通信網を駆使して状況を掴んでいた慶喜は朝廷の肚を完全に読んでいる。

 慶喜らの一行が大挙して鳥羽・伏見両街道を堂々と大阪へ向かっているとの報は病床に臥せっていた帝を驚愕させた。特に頼みとしていた京都守護職も京を離れるというのは大いなる衝撃で、倒幕雄藩の動かす朝廷の命令系統を飛び越えて、すぐに帰京させよとの命令を発したほどであった。

 慶喜は派手に動くことで、朝廷の実権を握っている薩長を筆頭とした倒幕諸派の政治指導の在り方が性急すぎることを帝に知らしめようとしたのである。

 先の長州征討の失敗いらい、頭から爪先まで倒幕で染まりきった朝廷を経由しては帝に真意が伝わることはありえないということを慶喜は知悉している。

 薩長諸派の指導する朝廷のずさんさ、雑さを満天に知らしめるにはこれしかない、慶喜はその覚悟をもって在京全軍を挙げて撤退する道を選んだ。薩長の意図はどうあれ、京から全ての幕府・佐幕諸藩の勢力が居なくなることで生じる空白が市井を動揺させる。どれほど糊塗しようともその動揺は天皇にまで伝わり、倒幕雄藩の統治・行政能力に懸念を抱かせるのに充分な衝撃であろうと慶喜は踏んでいた。

 


 慶喜のその読みが正しいからこそ、朝廷は焦っていた。

 大政奉還後の幕府勢力の京都追放・謹慎命令は倒幕雄藩の見え透いた挑発だった。慶喜ほどの人物がこれに軽々に乗ることはないというのを踏んだ上での挑発で、これを最後は幕府が容れることで、腐りかけた幕府の武威に最後の一撃を加えることを意図していた。

 これまでの経緯を見れば分かるとおり、強い要求を幕府に突きつければ条件で揉める、そうして優柔不断に揉めることが幕府の権威をさらに貶め、朝廷・統幕雄藩への権力移譲の正当性を強化すると計算していた。

 しかし、慶喜はそれを拒否するどころか、全力でのってきた。

 将軍以下の幹部の京からの退去を示したはずの勅命は、全ての幕府勢力の京都からの撤収に読み替えられ、それを幕府は完全履行しようとしている。

 いつまでも決められずにグズっているからこそ侮られる幕府。

 今回の慶喜の果断は、京の治安維持の空白を生じさせ短期間で無法地帯を現出させた。

 市井の動揺は幾らもせぬうちに幕府退去を命じた朝廷・倒幕雄藩への反感へと転じる。こうなることが分かった上で幕府に苛烈な要求を突きつけた朝廷こそが無責任である、幕府は勅命を履行しているに過ぎない、という風に世間の空気が一変した。



「武器を持っているものはすべて前へ!!」

 前方から大声で呼ばわるのに呼応して、又三郎と男は動いた。

 途上、前を進んでいた屯所の長押から刀を取り出そうとするが、又三郎がそれを制する。

「急げ!」

「刀なしでは戦えん」

「あの音が聞こえんか!!」

 又三郎は駆けながら激して言った。

 伏見の方角から生じた銃声と砲声とが、耳を澄まさずとも響く。

 男も負けじと駆けながら答える。

「鉄砲が大砲がなんぼのもんじゃ! おう止まれ!」

 最後の言葉は追いついた長押持ちにかけた言葉である。

 長押を強引に開けさせ、適当な太刀を掴むと男は顎をしゃくって又三郎にも渡す。

「いらん」

 又三郎は言い放つと鉄砲を担ぎ直し、睨んでくる男に言った。

「そんなものを下げてるから駆けるのが遅くなると分からんのか」

 それだけいうとくるりと背を向けて歩を早めた。

「貴様…それでもサムライか!!!」

 男の罵声を浴びせかけられても、又三郎は振り返らずに先頭を目指した。



 伏見街道を大阪へ下っていた将軍の本隊は関所で守備している薩摩藩兵と押し問答になった。

 勅命の完全履行を主張する幕府に対し、薩摩藩兵は条件付きの限られた数の退去が本旨である、との主張を崩さない。そうしたやり取りが数次にわたり、やがて通る通らないの言い合いになり、鉄砲を持ち出した関所側が限界を迎えて発砲した。

 その撃ち合いに参加した双方とも死んでいるため真相は不明である。のちに朝廷側は先に刀を抜いた幕府軍の切込みに撃ち込んだだけと主張し、幕府側は関所の薩摩藩兵が一方的に交渉を断ち切って使者に銃を放った、と主張している。

 どちらにせよ、戊辰戦争開戦の第一声は薩摩藩兵の一撃であったことは双方が認めていた。



 大軍を率いて進軍しているとはいえ、幕府に対する圧力として集結し、じっさいに開戦となったときに備えていた倒幕雄藩の軍勢に対して幕府軍は分が悪かった。

 伏見街道を下る本隊も、鳥羽街道を下る支隊も、武士団や浪士隊よりもずっと多くの奉公人・雇人などの非戦闘員を抱えている。京から一斉に大阪へ退去することで朝廷に揺さぶりを抱えるのが目的であり、倒幕雄藩との戦闘が目的ではないのだから当然だった。

 不意打ちを食らった幕府軍の本隊だが、最初の衝撃から立ち直ったあとは関所よりもはるか多数の兵で一気に突破。その勢いのままに伏見奉行所を制圧し、そこに拠点をかまえ迎撃の体制を整えた。

 


 伏見の砲声に引きずられて戦端が開かれた鳥羽街道の支隊は苦戦していた。最前列の部隊もここで合戦になるとはつゆほども考えておらず、緊張が高まった挙げ句に戦争が始まった伏見街道とは異なり、完全な奇襲を受けることになった。

 これで先鋒が壊乱して支隊全軍の統制が乱れる。

 ようやくのことで体勢を整えたとき、支隊の先頭陣営はほぼ戦闘力を喪失していた。いったん倒幕雄藩の勢力を撃退したあと、殿をつとめていた新撰組に声がかかったのはこれを補うためである。殿の防御が薄くなるとはいえ背に腹は代えられない。

 

 又三郎は新撰組隊士の中でほかの誰よりも先駆けて先陣に合流した。先陣の指揮を取っていたであろう会津藩の藩士がダンダラ羽織の又三郎の姿を認めて破顔する。

 煤けた面と漂わせる硝煙の臭いが先程までの激戦を思わせる。

「よく来た! 他はどれほどおるか」

「局長以下一〇〇名ほどおります」

「全員鉄砲はあるか」

「半数は担いでおります」

「まぁまぁというところか。鉄砲はまさかゲベールではあるまいな?」

「これであります」

 又三郎は担いでいた銃をおろし、藩士の前で捧げてみせる。藩士は落胆半分といった体で呟く。

「ブランズウィックか。貴様…名はなんという? どれほどまで狙えるか」

「傘村又三郎であります。 200ヤードまでならば当てられます。300ヤードは三つまで撃てるのであれば当てられます」

 ほぅ、と会津藩士は感嘆の声を漏らす。

「200なら一撃か。新撰組は鉄砲も達者とは聞き及んでおらなんだぞ」

「いえ、藩士さま…」

 又三郎が言いかけたところで大声で遮られた。


「お待たせ申した。新撰組が参りましたぞ!!!」

 振り向けば局長以下の面々がダンダラ羽織に二本差しで勢揃いしている。

 隊列の後ろの方で睨みつけてくる同輩がいるのにも気づいた。

 さらに仔細に見れば鉄砲を担いでいるのは半数に届かないかもしれない。

 当初こそ新撰組の到着を歓迎していた会津藩士の表情がわずかに渋くなった。


「鉄砲は40挺といったところか、もう少し欲しかったな」

「我らは撃剣が本分ですから」

 局長は煤けた面のままの会津藩士に平然と言い放つ。撃剣の出番のない戦闘だったというのに気づいているのか、居ないのか。

 局長の背後では副長が脇差し一本・鉄砲一挺で会津藩士の傍に立つ又三郎を一瞥して眉間に皺を刻む。


「なるほど」

 頷いた会津藩士は思案顔になるが、すぐに愁眉を開く。

「では、担いできた鉄砲をうちの者に貸してくれんか」

「イヤこちらの鉄砲は御家からの借り物ではないですか、喜んでお返しいたします」「うん? 我が藩ではブランズウィックは用いておらんぞ」

「しかしそれではこの鉄砲はいったい」

 大急ぎの撤収の混乱のせいか、新撰組に渡された銃はどこのものか判然としない。又三郎自身は撃発装置の地板の「38038」からあの時の銃だと気づいていて彦根藩の中古品が支給されたものだと判断していた。

「それはまず措いておこう。

 鉄砲はこちらで借り上げるから新撰組は撃剣で切込みを任す。

 それと。鉄砲の上手が居るのならそれも貸していただきたい。この男」

 又三郎を見やりながら続けた。

「200ヤードを当てられるそうじゃないか。この男並みか、より撃てるのが居れば貸してほしい」

 そこで副長が口を挟む。

「我らは撃剣本分ですので、その男のほかには鉄砲上手は居りませぬ。

 傘村は剣の腕は少々拙いですが、鉄砲はたしかに達者でございます」


「そうか。ならば傘村と鉄砲の全てを借りるぞ。よいな」

「会津さまの仰せとあらば」

「よし」

 局長の返事を聞いて頷いた会津藩士は又三郎に向き直る。


「ついてこい。貴様はうちの鉄砲組を指揮しろ。

 新撰組いがいのブランズウィックを扱える銃兵も引っ張ってきて銃隊をつくれ」

 又三郎の返事を待つことなく会津藩士はずんずんと進む。

「急げよ。

 次は敵も本腰で来るぞ。編成はなんとしても間に合わせろ。

 忙しくなるぞ」

 会津藩士の予言は半ば外れ、半ば当たった。




 その日覚悟していた戦闘は起こらなかった。

 伏見街道での戦闘で倒幕雄藩側が劣勢に立たされたことで、鳥羽周辺に展開していた雄藩の部隊があらかた伏見方面に増援に向かったためだった。

 本格的な戦闘が再開されたのは淀城で伏見本隊と鳥羽支隊が合流してからで、攻防戦の中で攻め寄せる倒幕雄藩に対する逆襲を用いられた撃剣主体の新撰組は大敗を喫し、又三郎の支持する銃隊は尾張藩兵・尾州軍が到着して倒幕雄藩が増強されたのを受けて幕府軍が淀城から撤退するその時まで戦い続けた。



 慶応四年。

 淀城を幕府軍が撤退したその時を境に、倒幕雄藩・朝廷軍は「政府軍」を称しはじめる。

 時来、幕府は政府軍を朝廷・天意を偽る「偽軍」とよび、倒幕雄藩は朝廷・天意に反旗を翻したとして幕府を「賊軍」とよんだ。

 日本を二分する、激しい内戦が名実ともに始まった。

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