長州征討

「小倉口の総督は愚物よ」

 慶応二年の二度めの長州征討で幕府は苦戦していた。

 苦戦そのものは予想されていたことだ。

 薩摩藩が出兵を拒否し、それに呼応して数多の藩が幕命への不服従を示している。幕府の権威が近畿方面から山陰道・山陽道にかけて包囲網を敷くはずが、山陰の津和野は中立を早々に表明し、侵攻路の主線と目されていた広島藩は参戦・派兵を拒否する有り様。

 攻め口が限られるなか、逆に浜田藩などは長州方面からの侵攻で敗北を喫するなど名実ともに幕府に昔日の勢いがないことを内外に知らしめる結果となった。

 そうした大局そのものは否定するものではない、と小倉藩家老は言う。

 援軍として幕府から派遣されてきた幕府陸軍歩兵隊に対して、味方であるはずの小倉藩の侍が正面から負け戦であることを放言できるのだから、やはり幕府の権威は失墜していると認めざるを得ない。

 幕府陸軍歩兵・小倉農兵隊長たる田吾作は士分ではない。 

 にもかかわらず侍から幕府の武士団・家臣団がまったく信頼されていないのを隠そうともしないのを見せられるとさすがに鼻白むものがあった。

 そうした田吾作の反応を知ってか知らずか、家老は続けた。


「助太刀にはまことに感謝いたす。しかしながら本邦が求めていたものとはあまりに数が少なすぎる。

 小倉口総督の手許には遊兵がまだいくらも居ろうに」

 言っていることは正しい。

 田吾作もそれは認めざるを得なかった。



 小倉藩は優勢な兵力を稚拙極まりない運用で無駄に消耗するか、無為に遊ばせているかしているだけの幕府、より端的に言えば小倉口総督の用兵に振り回され、長州藩の反攻を一身に引き受けることとなった。

 大島口は大勢が決し、芸州口は当初こそ彦根藩と高田藩が痛打を受けて撃退されたものの、その後紀州藩と幕府陸軍・士分歩兵隊とが押し返して長州と幕府が五分の状態に持ち込んでいた。長州が有利な条件で停戦するなどの状況の打開を図るには小倉口の攻略がもっとも効果的だというのは誰が見ても分かる。

 その誰が見ても分かる状況下で、小倉口総督は小倉藩への援軍を渋っているのだ。

 田吾作は口には出さないが、小倉藩家老と同じく「総督は天下の愚物」との評を既に固めている。控えている戦力は九州道にある佐幕勢力だけでも相応の規模になる。佐賀藩が協力を拒否し、薩摩藩も正面から出兵を拒絶するなどの逆風はあるにせよ、道内の小藩の多くは佐幕派として幕命に従って兵力・兵糧を供出している。

 それがただ無為に小倉口総督の手許で無聊を託っているのだから話にならない。

 談判でようやく歩兵隊の一部が抽出されたものの、それもごく少数。

(しかも)

 装備に不安がある、それが田吾作の大きな懸念の種であった。



 幕府陸軍歩兵・小倉農兵隊の装備する銃はブランズウィックであった。

 装填しやすいライフル銃でありその構成部品の大部を国産化している優秀な銃であったが、前装式で直立状態での装填、できるかぎり妥協して膝立ちでの装填をしなければならないという大きな欠陥は否定のしようがない。

 幕府陸軍でも装備更新が進んでおり、サクマ式の採用で待望の後装式ライフルを既に配備進行中ではあったのだが、小倉口総督があえて援軍に指定したのはライフルの更新が未了の補助隊の田吾作の部隊であった。

 士分ではない田吾作が異例の出世を遂げて、農兵隊長という士分格の役目を仰せつかったことへの意趣返しのつもりがあるのだろうが、そうした私怨によって戦争を失いかねない、その危険を顧みない小倉口総督の愚かさには驚くほかない。


 寡兵であること、戦況が不利であることに関しては田吾作も小倉藩家老も認識を同じくしている。あとはこれをどう打開するかが課題なのだが、田吾作は敢えて小倉城での籠城を提唱した。

 小倉城を放棄して火を放ち、長州の兵站に負担を与えて消耗戦を強要するという小倉藩家老の判断は悪くない。

 悪くないが田吾作は、すでに地に落ちた幕府の威光が、城を焼いて野戦で遊撃戦を展開するしかない現実を見せつけることで、更に地にのめり込むことを懸念していた。

 幕府の権威が弱体化しすぎると募兵の際の苦労が増える。数年来、農兵隊の規模拡充に取り組んできた田吾作は年を追うごとに低下していく幕府の人気と権威とをもっとも身に沁みて感じている一人だった。

 これ以上の幕府の権威の退潮はなんとしても食い止めなければならない。

 田吾作は小倉藩家老を必死で説得し、小倉城での防衛戦を選択させることに成功した。



 その結果として、田吾作はいま小倉城で銃を握っている。

 急造の土盛りの胸壁に体を預けて一発撃っては、胸壁に背を預けて斜め立ちして弾丸の再装填に勤しんでいる。

 小倉城の曲輪の外苑と内縁の間、厩の敷地などに強引に設置したものだから上等なものではないし、前もって長州勢が侵攻してくるであろう方面にのみ設置している気休めにちかいものだ。

 それでもこれがあるとないとでは大違い。

 野戦で視界も射界も開けきった中で、直立して1/3ミニウトほどをかけて弾を再装填し、そこから射撃体勢を整えて撃つことが、どれほどの胆力を求められるものか、どれほどの決死の行動であるのか、天狗党の乱で田吾作は知っている。

 だからこそ敵弾が降り注ぐ中で立ち止まりせこせこと弾と玉薬とを突くような真似をせずに済む、それに身を潜めて、体を預けて安全に再装填をできる胸壁の存在の頼もしさ・有り難さを痛感している。

 田吾作に限った話ではなかった。

 田吾作以下の小倉農兵隊の多くが胸壁の影に隠れながら装填と射撃を繰り返す決まりきった作業に習熟した結果、小倉農兵隊は非常に少ない損害で長州勢の攻勢を拘束することに成功した。

 ブランズウィックの長射程を活かし、長州勢先鋒がゲベールの一斉射撃の射程に入ってくる前に牽制して撃退するのを繰り返していたが、数度撃退された後に長州勢はブランズウィックとほぼ同等、あるいはそれよりも遠い射程から一斉射撃を開始する。

 当たらぬものと当初は高を括っていた小倉農兵隊であったが、胸壁に着弾した一部の弾が兵を撃ち倒してからは動揺が一気に広がった。

 防衛戦において寡兵をもって有利な戦闘が展開できていたのは、旧式とはいえライフル銃であるブランズウィックが長州のゲベール銃を圧倒していたためである。それがおなじライフル銃となってきては射程の優位が一気に無力化され、さらに

「早い!」

 遠い射程から一斉射撃をはじめた長州軍は、射撃を終わった後立ち止まり、銃をひっくり返すことなく槓桿を引いて遊底を開放する。

 そして次の弾を挿入して射撃体勢へと即座に復帰し放つ。この間わずか1/6ミニウト足らず。

 連射能力で長州勢に圧倒され、小倉農兵隊はまったく頭をあげられなくなる。

 田吾作もここでの抵抗はもはや不可能と観念し、どうやってこの陣地を引き上げて本丸曲輪まで撤退するか、そのことを思案し始めていた。


 そんな時に、長州勢の右翼が動揺し始めた。

 なにが起こったのか田吾作のところからは見えない。

 しかし田吾作ら小倉農兵隊の正面で対峙する長州勢も勢いがまったくなくなる。

 何事が起こったのか分からぬまま顔を上げかけた田吾作の元へ伝令が届く。

「小倉農兵隊長どの、直ちに天守へ!」

 呼び出しの声に応じて田吾作は小倉藩家老の待つ小倉城天守へと駆ける。

 たどり着くと小倉藩家老は泣いているような笑っているような、なんともいえない表情を浮かべて骨ばった指で一角を指し示した。


 その指の示した先には、攻め寄せる長州勢に伏せ寄り這い寄りつつある一群が居た。黒染めに灰色の手足をせわしなく動かしている有り様がまるで虫のようにも見えるが、その虫のように這いつくばる兵どもの手にする銃からは時間差で間断なく射撃が加えられている。

 どこから撃たれているのか、大体の方向は分かってもまさか伏せ撃ちを食らっているというのには気づいていないらしい長州勢は、困惑とともに損害が増えていくのが見て取れる。

 狼狽はそうして周縁の部隊へと伝播していき、そうしてその波が、田吾作らの対峙する部隊にまで達していたのだとようやく理解できた。

 小倉藩家老は感極まったかのように田吾作の手を握り、言った。

「幕府陸軍こそ武士の誉なり」と。



 慶応二年。

 幕府の二度目の長州征討は幕府の敗北に終わった。

 しかし将軍の急逝による征討断念のその時、小倉城はいまだ陥落せず。攻めあぐねた長州勢は停戦交渉でも小倉口からの自身の撤兵による決着には反対しなかった。


 こうして小倉口はただひとつ、長州側が反撃に失敗した方面として記録に留められることとなる。

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