僕の名前は不幸という
きつね月
第1話
「いい子にしていた子にじゃなくて、幸せな子のところにサンタさんは来るのよね」
一人の部屋で、電気もつけないで、窓の外を眺めながら、まだ幼い頃の彼女がそんなことを言うもんで、僕はにやり、と笑ってしまう。彼女は床に直接座っていて、目の前には紙とペンが散らばっていた。思えばそれが彼女との始めての出合いだった。僕はずっと彼女のそばにいたけど、彼女の方が僕を認識したのはそれが初めてのことだったということだ。
彼女は伸ばしぱなしの長い髪を月明かりにつやつや光らせて、白い息を吐きながら夜の空をずっと眺めていた。だから僕はそんな彼女に、
『26日の夜になったらゴミ棄て場においで』
と言ったんだ。
そのゴミ棄て場は彼女のお気に入りの場所で、気性の荒いカラスたちが縄張りにしているから他の人は誰も寄り付かないのだけど、彼女だけは襲われたりしなかった。きっとその髪が黒くつやつやしているから、カラスも仲間だと思ったんじゃないかと思う。
彼女がそこで拾うのは主に紙とペン。いい感じの洋服もあれば拾う。花柄のものが好きだった(そんなものは滅多に落ちていなかったけど)。食料とか、宝石みたいに光るガラスの破片とかそういうものはカラスにあげてしまう。彼女は痩せすぎていたけど、空腹を感じることはなかったようだ。
12月26日の夜。
彼女は約束通りゴミ棄て場に来た。黒い花柄のドレスを着ている。それはここで彼女が見つけたなかで一番のお気に入りだということを僕は知っていた。ちょっとサイズが大きいし、痛んではいるものの丁寧に手入れがされている。花の香りもする。春に摘んだ羽衣ジャスミンの花と一緒に保管しているのだ。黒くつやつやした長い髪、黒いドレス、花の香り、彼女はそういうものがよく似合う、と僕はそんな姿を見ていた。
「……」
彼女は白い息を吐きながら不思議そうに周りを見渡している。いつものゴミ棄て場と様子が違っているのだ。
どう違うのかというと、いつもは黒と灰色のごみ袋ばかりが目立つゴミ棄て場が、今日は全体的に赤と白と緑だ。あと時々オレンジ色と銀色、あと少しの金色。つまり、クリスマスが終わって不要になった飾りつけが棄てられているのだ。もういらない、賞味期限切れの幸せたち。彼女はそんな残骸の間を興味深そうに歩いて、ぎょっとしたように立ち止まった。
ゴミの山の上に大きな人影が倒れている。
恐る恐る近づいてみると、それは等身大のサンタクロースの人形だった。
足があらぬ方向に曲がっていて、左腕が千切れていて、顔の左半分が崩れている。全体的に薄汚れてもいるけど、残った右半分の顔は子供たちに向けていたであろう微笑みのままだった。
「……」
彼女はしばらくその人形のことを見ていたけど、やがて首をかしげた。
――だからなんなの?
といいたげなその表情。僕はまたにやり、とする。
『世界は広いけれど、26日にクリスマスを祝える人は限られているんだ』
僕はそう言って、自分の胸に手を突っ込んだ。そして中にある柔らかい水飴のような心をひとつ引きちぎって、彼女に向けて差し出した。その心は夜の闇に照らされて黒く光っている。
彼女は戸惑いながらもそれを受けとる。そして少し迷ったあと、それを飲み込んだ。
と次の瞬間、棄てられていたサンタクロースの人形が淡い光に包まれて、ふわりと空中に浮かんだ。あらぬ方向に曲がっていた足はまっすぐになり、千切れていた左腕は元通りになっている。生気を取り戻したサンタクロースは、それが人形であったときよりもつやつやとしていて、もちろん崩れてなんかいない優しいその微笑みを彼女に向けてこう言った。
――メリークリスマス。
そしていつの間にか背負っていた白い大きな袋を開くと、中からいくつもの銀色やオレンジ色が飛び出してきて、周りはまるで暖かで穏やかな室内のように明るくなった。彼女がそれを見上げていると、散らかっていた赤や白や緑の飾り付けたちがそれぞれの光を放ち、宙に浮かび、周りはまるで賑やかな街のイルミネーションみたいになった。光たちはしばらくの間、そうして与えられた自由な時間を謳歌するように、色とりどりと輝いている。
「……」
彼女はなにも言わずにその光景を眺めていた。もう白い息は吐いていなかった。
やがてサンタクロースが空に向けて手をかざすと、棄てられていたゴミ袋の山が一斉に移動を始めた。それらはずんずん、ずんずんと高く積み重なり、てっぺんに向けて細く尖り、まるでもみの木のようになった。そしていつくもの銀色やオレンジ色、赤や白や緑色たちはそのもみの木へと集まっていって、それらは一本のクリスマスツリーになった。ツリーは有無を言わさぬ巨大さで彼女のことを見下ろし、集まったその明かりたちは彼女のことを見守っているみたいになった。
「……」
彼女は無言でそれらの変化を見ていたけど、その大きな目をさらに見開いているあたり、どうやら驚いているようだった。
しかし僕は彼女が本当は何に驚いているかを知っている。それは目の前で突然こんな変化が起きたことに対してではなく、
「……これって、あたしが絵に描いた光景?」
彼女がぽつりと呟いた。
僕は頷く。
暖かで穏やかな室内も、賑やかな街のイルミネーションも、巨大なクリスマスツリーも彼女に向けられたサンタクロースの微笑みも、すべて彼女が一人きりの部屋で絵に描いたものだった。こうだったらよかったのにな、と思いながら記した光景。思い描いたものたち。25日の夜に彼女がそんな絵を描いていたことを僕は知っていた。
「――あなたが用意してくれたの?」
彼女はそう訊いてきた。
僕は首を振る。
『君が自分で創ったんだ。自分で紙とペンを用意して、暗い部屋のなかで自分で願ったんだ。だからこうなった』
僕のその答えに彼女が納得したかはわからない。
しかし彼女はその時確かに僕の方を見て、微笑んで、
「ありがとう」
と言ったのだ。
その笑顔があんまり眩しかったので、僕は彼女のほうに近づいて、その頭の上に手を置いた。するとその眩しさは一輪の小さな花に変わり、その花は白く――本当に白すぎてまるで金色に見えてしまうぐらい――輝いて、ふわふわと浮かび、クリスマスツリーのてっぺんに着地した。彼女と僕はそんな光景を見上げていた。
「……ねえ」
『なに?』
「あなたの名前はなんていうの?」
『それは聞かない方がいいね』
「ふうん、それはどうして?」
『知る必要がないからさ』
僕のその答えに彼女が満足したのかはわからない。だけど彼女そこでふんす、と頷いて、それ以上訊ねては来なかった。
そうして彼女の絵は完成して、僕たちはいつまでもそれを眺めていたというわけだ。
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