第5話 ふたりの過去
その翌日は土曜日だった。3年生の良には部活動もなく、塾もないので、1日中自由に動ける。良は丘の上にある自宅から自転車で一気に駆け下りると、いつもの、海辺の公園に自転車を停めた。
「あれ、穂波?」
穂波は公園のベンチに座っていた。うつむいていた穂波は、良の存在に気づくと小さく手を振った。
「どうした穂波、元気ないぞ。傷……」
前髪で隠れていたが、大きな青あざのようなものが見える。良が触れようとすると、穂波は頭を抱えてうずくまってしまった。
「何があったんだ穂波、だれにやられた?」
「だれでもない」
声が震えている。良はしゃがみ、穂波の肩にふれ、そっと抱きしめた。
「冷たいな穂波、お前、そんなに体温、低かったっけ」
「うん」
うずくまったまま、穂波は答えた。
「そっか」
「たぶん良は、あたしに触ったことないし」
「子供の頃は良くおんぶしてあげたよ」
「小学生、低学年までよ」
「お前、急に太ったから」
そういわれ、顔を上げた穂波は良の髪の毛をぐしゃぐしゃとかき乱した。
「何すんだよ」
少し長くなった前髪を整えながら、良はしかめっ面をした。
「女の子に太ったなんていわないの。デリカシーの欠片もないわね」
「おっ元気になったな」
良は、頭を撫でる振りをして、穂波の前髪を上げた。驚いた穂波は目を見張り、硬直している。
「穂波……」
額の傷口は膿んでいた。昔みた、動物の死体の傷口の様に、腐りかけているといった方がわかりやすい。良は息を飲み、直ぐには言葉を発せられない。
「どうしたんだ、これ」
穂波は答えなかった。見開いた瞳から、涙が、血の雫の様に流れ落ちた。
「病院に行こう。これ、かなり深い傷だよ。うっ……」
酷い匂いがした。さっきまで何の匂いもしなかったのに、穂波の額から悪臭が漂う。
「もう帰らないと」
立ち上がり、無表情で穂波はいった。まるで心がここに無い様に見える。マネキンみたいに、瞬きもせず、一点を見ていた。
「何いってるの。さあ、病院に行こうよ」
「良くん、大丈夫だよ。最近、たまにこうなるの。でもね、明日になれば治るんだ」
「そうは思えないよ、その傷」
良は取り乱していたが、穂波は冷静だった。彼女の肩に両手を置き、彼はうなだれた。
「頼む、穂波、教えてくれないか、お前に何が起きているんだ」
「うーん」
良は穂波を座らせた。前髪で傷口を隠してやる。すると、穂波の表情が元に戻って行く。
「だれにやられたの?」
「だれにもやられてないって」
「じゃあ、その傷はなに?ていうか、痛くないの」
そういいながら良は、額の傷口の辺りに触れた。穂波は、とても穏やかに微笑んでいる。その笑顔は大人びていて、良は一瞬、どきりとした。
「良、いっていいのかな?」
穂波はいつもの口調になっていた。
「いいよ、いっちゃいなよ。俺が助けになると思うよ。大人にも相談するし」
「大人ってだれ?」
「大人は、それは」
大人の顔が思い浮かばない。幼い頃に両親を亡くした良は親戚の家で育てられた。決して裕福ではなかったその家には、子供が他に5人もいて家計は苦しい。それで親戚家族は、お荷物の良を、死んだ者として扱った。存在を認めない、完全無視の状態。
「風南海さんは大人?二十歳だものね」
「年齢的には確かに大人かも知れないけど、彼女には相談できないよ」
これから風南海に会い、昨日、彼女が自分に伝えたかったことを聞こうと思っていた。
「好きなの?風南海さんのこと」
「うん、いや、そんなことはどうでもいいよ」
取り敢えず、いまは一旦風南海のことは忘れ、穂波の傷の原因を聞きだしたかった。虐待という言葉も浮かんだが、穂波は母一人、子一人で、幼い頃から、とても大切に育てられていることを良は知っているし、穂波の母親はとても身体が小さい。成長した穂波に暴力を振るうのは無理だ。
「好きならさ、ちゃんと伝えた方がいいよ。後悔しない様にね」
「なんだよそれ。穂波、誤魔化すな。話しを逸らすな。どうして額にそんな深い傷があり、病院にも行かない?金がないなら僕が払うよ」
良はめずらしく声を荒らげた。
「お金なんかない癖に」
「はあああああ」
「ないじゃん」
「お前、良くそういうこというね。僕は中学生の頃から郵便配達をして、高校からコンビニでバイトをして、ずっと頑張って来たんだよ。お蔭で大学の入学金だって自分で溜めたしね」
そういって良は、胸を大きく反り返した。
「そうだったね」
「な、なんだよ。いい返さないのかよ」
いつもの穂波なら必ずいい返して来たのに、きょうはやさしく微笑んでいるだけだった。明らかに様子がおかしい。良は立ち上がり、穂波の手首を掴んだ。
「行くぞ!」
「どこに」
「病院」
「やだ」
「このままにしておいたら、取り返しのつかないことになる」
良が強く腕を引っ張ると、穂波は泣き出した。シクシクと肩を揺らし、子供の頃の様に指で涙を拭っている。
「ごめん、痛かったか、ごめん穂波」
良は穂波の頭を撫でながら、自分も涙ぐんでいた。身内に無視され続けた生活。そんな時、近所に住む穂波は、妹同然だった。家の敷地内にある納屋で暮らしていた良に、ご飯を運んでくれたのも穂波だ。幼い頃、良は誓った。例え自分が傷ついても、穂波だけは守るのだと。
「お兄ちゃん」
「ん?」
小さい頃、穂波は良のことを「お兄ちゃん」と呼んでいたが、いつの頃からか、良と呼ぶようになっていた。最初は戸惑ったが、いまではお兄ちゃんと呼ばれる方が違和感がある。
「必ず、病院に行くから」
手首を掴む良の手を、穂波はそっと解いた。
「信用できないよ。いまのお前は」
「信用、していいよ」
「どうしたんだよ」
「もう一度だけ、人を信用していいよ、お兄ちゃん」
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