第3話 あの日の少年

文化祭の翌日のこと、穂波は良をある場所に呼び出していた。

「なんだよ、もうすぐ授業がはじまるんだけど」

焼き鳥屋を出店していた中庭に連れ出された良は、穂波が握っていた手首を振りほどき、手首を労わる様にさすった。

「だからちょうどいいのよ。人がいたら話難いし」

「わかったよ、まあ取り敢えず座ろう」

昨日、風南海が座っていた桜の木の周りに巡らされたベンチに座ろうと歩き出した、良の手首を、穂波は再び掴んだ。

「そこに行くのは、やめよう」

「なんで?」

振り向き様に、良は強めの口調で返した。

「ねえ知らないの、あの話?あの、怖い話し」

いつも強気の穂波がめずらしく怯え、か弱く囁いた。

「あああ、知ってるよ。おばけの話しだろう」

ポケットに両手を突っ込んだ良は胸を張って穂波を見た。

「やめてよ、そういう言い方」

穂波は腕を交差して自分の身体を抱えた。

「どうしたんだよ。怖いの?だったらなぜ、ここに呼んだの?」

良は地面を指先でさす仕草をしている。

「ここの方が、実感があるからと思って」

「実感?なんの」

「昨日の風南海さんだっけ?」

「ああ。風南海さんがどうしたの?」

穂波は唇を舐めた。いい淀んでいる風にも見える。

「変なこといってると思うかも知れないけど、あの、あの日の、その文化祭の日、ベンチに座る風南海さんが、まぶしくて、その、見えなくて」

「日が差していたからな、日差しが風南海さんに当たっている様に見えたし」

「そういうんじゃなくて」

穂波は大きく、首を振った。

「実は……」

「なに?」

「風南海さんの身体が透けて見えたの?」

良は答えず、首をかしげた。

「良、風南海さん、なんで透けてたんだろう?」

「なんだそれ、そんなこと人に聞くなよ。目の錯覚だよ。あの時、太陽の光が眩しかったからじゃないの」

良はその場にしゃがみ、黙って桜の木のベンチを見ていた。実は良にも、風南海の姿が透けて見えていた。まさか風南海は?

「昨日さ、ここの売り場だけ暇だったでしょう、良、聞いてる?」

穂波もしゃがんだ。

「くじ引きで負けたから、仕方なくこの場所で屋台してたんだけど。覚えてる?あのベンチに座っていたのは、風南海さんだけだって。それはあの時だけじゃないの。出店中、最初から最後まで、風南海さんしか座ってないの。どうしてかわかる?」

「さあ」

「1年前、あの木で首を吊って自殺した生徒がいたでしょう」

「噂には聞いたことがある」

「だから、あの木のベンチには誰も座らないのよ。怖いから」

「じゃあ、教えてやったら良かったじゃない風南海さんにさ、そのベンチに座ると呪われますよとか、身体が透けちゃいますよって」

「意地悪ないい方するね」

穂波は膝を抱え、黙り込んだ。良も黙っていた。

「風南海さんて、この世の……」

「何、いってんだよ穂波。怖い事いうなよ」

「良っ」

穂波は良に向き直り、腕をやさしく掴んだ。

「勿論あたしだって、目の錯覚だと思うよ、透けるなんて現実的じゃないもん。でもさ、気になるの。あの人、おばけとか、そんなことは置いといてもいいから。ねえ良、風南海さんて、良がいうように、本当にいい人かな?」

「そうだと思うよ」

「ならいいんだけど、うん」

穂波はむりやり微笑んだ。

「穂波」

良は穂波に掴まれている指を、今度は丁寧に外した。

「僕は子供じゃないんだよ。そんなに心配しなくても、もう大丈夫」

「ふーん、もう寂しくなくなったんだね、風南海さんがいるから」

良は何も答えず、そのまま顔を背けて去って行ってしまった。

「あたしは、もう必要ないね」

膝を抱きかかえた穂波は、程なくして帰宅したのだが、酷い悪寒を感じ、布団の中で震えていた。頭を枕に押し付け、背中を丸め、身体を縮こめても、一行に寒気は治まらない。どれだけの時間、そうして震えていただろう。家族が帰宅した音が聞こえると、不思議に震えは治まり、悪寒も去った。


風南海は、良が来るのを待っていた。文化祭の日、結局あの後すぐ体調を崩し、帰宅していたからだ。あの日、風南海の両親は外出しており、娘の無断外出の事実を知らない。良は自転車で風南海を送り届けると、次の約束をして帰って行った。良は火曜日の放課後、必ず会いに来るといってくれた。良と会えない日は、身体が石になってしまったのかと思うほど重く、食欲もない。しかし約束の前日になると心が浮つき、家にじっとしていられない。家族には内緒で砂浜に出て、太陽を浴びてみたりした。

「遅いなあ、良くん」

秋になり、日が落ちるのも早くなった様に感じる。夕焼けが、海の色を朱色に染め、なんとも物悲しかった。

「もうわたしに会うのが嫌になったのかな。海に行こう……」

家を囲む木々が鬱蒼として暗い。木のトンネルになってしまった裏庭を渡り、砂浜に出るまでの距離が、風南海は怖かった。

「日が落ちる前に、行けば良かった」

この短い距離さえ、勇気を持てない自分を情けなく思い、風南海は思い切って、窓を乗り越えた。

「行ける」

ここを走れば光の世界が待っている。たった15メートルの道。怖い事なんかなにもない。走り出そうとした時、部屋の扉が開いた。

「風南海ちゃん」

風南海は窓下にしゃがみ込んだ。母親が部屋の中をうろついている。心配しているみたいだ。「お母さん」声にならない。

「風南海ちゃんがいないの」

母親が部屋を出て行った。その隙に、風南海は海に向かって走り出した。

「良くん」

木のトンネルを抜けたところで良に会った。裸足の足がもつれ、倒れそうになったところを良に抱きかかえられた。

「どうしたの?」

「隠れて、わたしを隠して、どこかに連れてって」

良は周囲を注視し、おどおどしながらも、道路に停めた自転車まで風南海を連れて行くと、荷台に乗せて走り出した。

「どこに行けばいいの?」

風の音を遮る様に、彼は叫ぶようにして、そう聞いた。

「どこでもいい」

「気分は、身体はいいの?」

「絶好調よ」

良の腰に巻いた片手を放し、風南海は片手を上げた。その勢いで、自転車のバランスが崩れたが、良が必死で持ち直した。

海を背に、家から遠ざかる様に走り続けた。緩やかな坂道を抜け、車が通れない狭い路地を選んで疾走した。

「良くん、疲れない?」

「ぜんぜん疲れないよ。風南海ちゃん、風みたいに軽いから」

「風かあ。死んじゃったみたいね」

「えっ」

良は自転車を漕ぐのをやめた。そして風南海の方を見た。

「なんかごめん。不謹慎だったかな、風みたいだなんて」

「ばっかねえ」

風南海は良の背中をやさしく叩いた。

「良くんの悪いところは、そうやってすぐに謝るところよ」

「そうか、ごめ……じゃないね」

「悪い所って言い方は可笑しいわね。誠実な所よね」

風南海は自転車から降り、スカートの乱れを直すと、髪を結んでいた紐を解き、結び直し、吸い込まれる様に、彼女は空き地の広場に入った。そして、すっかり暗くなった海の町を、高台から見下ろした。

「いまごろ大騒ぎよね」

「もう帰ろうか。家族の人が心配しているよ」

「怖くなった?」

風南海は芝の上に座った。本当は心臓が苦しい。表情を隠す為、括り直した髪を再び解いた。

「怖くないよ」

風南海からシャンプーの香りがした。良は思わず、息を大きく吸い込んでしまい、それが風南海に気づかれていないかと、口を押えた。

「身体、大丈夫?」

「うん、本当は少しつらいけど、こうして休めば、時期に治るから」

「うそ、駄目だよ。もう帰ろう」

膝立ちになった良は、風南海の顔を覗き込んだ。暗くて良くわからなかったが、息遣いが普通じゃない。

「もう帰ろうよ」

「横になってもいい?」

いいながら、風南海は芝生に、仰向けに寝た。

「待って、待って」

良は自転車に戻ると、かごに押し込んであったバックのジッパーを開け、中から運動服を取り出し、何度も匂いを嗅いでいる。

「臭くない。よし」

「どうしたの?」

「これ、下に敷いて。枕にして」

良は、風南海が頭を上げるのを手伝い、枕にすると、運動服の上着を、そっと上半身にかけた。

「いい匂い」

風南海はそういって微笑んだ。

「やめてよ」

体育座りになった良は唇を尖らせた。

「汗臭いんでしょう?」そう良いわれ、風南海はクスクス笑った。笑っている時も、目は瞑っていた。その顔がとても愛おしくて、良は目を離せない。

「寒くない?」

体育座りのまま、良は風南海を見下ろしている。

「寒くない……です」

風南海は、敬語の時もあれば、友達のように話す時もある。そのぎこちなさが面白いと、良は思っていた。良は未だ彼女を見ていた。こんなに近くで、彼女を凝視できる機会はない。すると彼女が突然、目を開けた。良は驚いて、飛び上がった。今度は彼女が良を見ている。彼は肩をすぼめ、顔は、膝に引っ付きそうになっていた。

「子供みたいね」

「えっ、僕」

良は頭を膝に付けた格好で風南海に向いた。

「子供なんていって、ごめんなさい。実はわたしもそうなの。子供なの。外見はお姉さんでも、人との交流が少ないと、どうしても幼稚になってしまって」

そこまでいうと風南海は上体を起こした。

「違うのよ、良くんが幼稚なのではなくて、わたしが幼稚で、良くんは子供のように純粋でかわいいって、そう思うの」

良は何故かその場に正座になった。

「風南海さんは幼稚なんかじゃやないですよ。だれがそんなこといったんですか。それに僕もかわいくなんかないし、子供のように純粋でもない」

「なんかありがとう」と風南海は声に出さずに、唇の動きだけでそういった。

ふたりは暫くすると家に帰った。自転車は乗らずに、引いて歩き、家の手前で風南海を見送った。彼女がどうしてもそうしたいと聞かなかったからだ。とても頑なに、良が家に来て家族に会うのを拒んだ。それで良は、彼女を残し、ひとりで帰らざる得なかったのだ。

「風南海さん大丈夫かな?」

翌日、翌々日も、風南海に会いに行ったが、彼女の部屋の窓は閉め切られていて真っ暗だった。

「もしかして、病気が酷くなり、入院しているのかな?」

考えていてもはじまらない。良は意を決して、玄関に周り、インターフォンを押した。

「はい」

女の人の声、風南海ではない。

「あの、突然すみません」

「どなたですか?」

「あの、よし、義元と申します義元良です」

名乗った後、彼は手の汗を制服のズボンで拭った。

「……義元さん、どなたかしら?」

どちら様ですかと、続けて聞かれた。

「あの高校の…その、近所の高校生でして、風南海さんの友人です」

「……」

「えっ、娘さん、留守なのでしょうか?身体は大丈夫ですか?」

もしかして入院?

「あの、風南海さんは」

インターフォンが切れた。良は、母親が玄関を開けて出て来るのかと、1時間以上もその場で待っていた。しかし結局、母親は姿を現さず、家の明かりが全て消えた。


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