(風景はなみだにゆすれ)
その頃市役所は蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。あの怪獣はなんだ、早くなんとかしてくれ、避難所はどこだ、などなど、ありとあらゆる要請や不満や問い合わせが殺到し、職員はその対応に追われていた。
有森結由夏もその一人だった。子供を保育所に預けてから来た職場がてんやわんやの大騒ぎ、街では怪物が出没してあらゆる道路が滞っている、住民は不安がり、野次馬は押し寄せ──猫の手でも借りたいとはこのことだ。
訛り全開で訴える老人を宥めながら。結由夏は夫のことを思い出していた。この場合、警察が出動することになるんだろうか──それとも自衛隊?こんな辺鄙な田舎町に自衛隊が来てくれるだろうか?
夫が怪獣と戦う羽目になるのは、避けたい。
はるか昔に、何かそんなような映画を見た気がする。あれは17歳の時だったろうか。ちょうど十年前か。
友人と一緒に見た『シン・ゴジラ』。
「市民課!対策室立ち上げたぞ、会議室!」
課長が叫ぶ。結由夏は立ち上がり、老人に「大丈夫ですから」と言い残して会議室へ駆け込んだ。
「これよりピンクの怪獣を──怪獣エックスと呼称する」
怪獣X。安直な名前だ。でも「ピンクの怪獣」よりは緊張感が増す。結由夏は気を引き締めた。
作られたばかりらしい資料が配られる。文章の粗さは目を瞑るとして、何よりもその怪獣エックスの写真がひたすらに目を惹いた。
「えっ」
白黒の写真でもわかる。わたしは彼女を知っている。
「怪獣エックスは目的もなく放浪しているようです。建物や住民に被害はありません。しかし、国道が通行止めになる、道路が破損する、歩道橋が壊されるなどの被害が出ています」
「怪獣エックスは何がしたいんでしょうか」
「わかりません。目的があるのかどうかも、意思があるのかどうかも」
「所詮爬虫類のけだものだ、早いところ殺すなり追い出すなりするべきだ」
市長が脂汗を拭きながら発言した。
「街がこれ以上乱れる前に、退場してもらわねば困る」
「今、自衛隊の派遣要請を行なっております」
「戦闘の可能性があるということは、該当地域の住民を避難させる必要が出てくる」
「では手配を……」
結由夏は手を上げた。
「──彼女に意思はあると思います」
〜〜〜
存在することが罪。存在罪──。
石を投げられながら、修羅は歩き続けた。涙で見えない視界の外から、ありとあらゆるものが投げつけられているのだけれど、どれも同じような感触だから、わからない。ピンク色の鎧が全てを弾き返して守ってくれた。
──賢治はね。自分の存在自体を悔いていたかもしれないって思う。
修羅はかつて■■■に語ったことを思い出している。
彼は裕福な家の生まれでね。母方は地主、父方は質屋でしょう。周りは百姓しかいなくて。それでね、当時は本当に冷夏がひどくって、不作が続いたから、百姓たちは家財や大事なものを質に入れざるを得なかったんですって。賢治はそういう、農民の苦しみを財産として裕福な暮らしをしていたの。それを、賢治は気にしていたみたいでね。
■■■は興味深そうにそれを聞いていた。かつての修羅は、ボロボロになった詩集を閉じる。
でも、この『春と修羅』には全然そんなこと書いてないのよ。存在することの罪について、なんて。
■■■は修羅に突っ込んだ。──じゃあ、『春と修羅』には何が書いてあるっていうの?
修羅は、「いまは、それを研究しているの」といって言葉を濁した。でも卒論に書くことはもうすでに決めてあった。
〜〜〜
いつのまにか生えてきた尾に、ナタを振り下ろされて、修羅は吠えた。勇気ある町人は後退りながら、威勢よく叫ぶ。
「出ていけ!出ていけ!」
赤黒い血が吹き出して、道路を染めていく。
「そうだ!出ていけ!」
修羅は吠えた。
ただ生きているだけで?
ただ歩いているだけで?
ただ呼吸をしてるだけで?
罪?
修羅は吠えた。吠えた。吠えた。
叫声は悲しみに満ちているのに、だれもその悲しみに気づかない。誰も修羅の涙に気づかない。
ゆっくりと修羅は膝をついた。そして土下座をするように倒れこみ、そのまま動かなくなった。
ぼたぼたと黒い涙が地面を溶かしていく。
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