おれはひとりの修羅なのだ

 服を脱いだあとはもう、『アバター』もびっくりなピンク色に変化していく肌と、じょじょに徐々に巨大化していく自分の体に恐れ慄く他なかった。

 これ以上賃貸を破壊するのも忍びなく、奈々菜はピンク色の鎧のみを纏って玄関から飛び出そうとした。体はつっかえ、枠は歪み、ドアは二度と閉まらなくなってしまった。けれど、どうにかして奈々菜は狭い玄関を通り抜け、これまた狭いアパートの廊下を這うように走り抜けた。

 途中、床が抜けかかった。大家さんに修理費を請求されるかなぁ、そんな平和な思考も一瞬で砕け散る。階段はなぜか人でごった返していて降りるどころでない。詰めかけた人々は思い思いの悲鳴をあげて逃げようとしたりシャッターを押したり、危うく事故になりかけていた。仕方なく、奈々菜は柵を跨いでジャンプした。

 バキッ!

 コンクリートの地面が、奈々菜の足の形に凹む。

 悲鳴が上がった。マスコミも野次馬も一緒くたになって散り散りに逃げ出す。もはや奈々菜は自分の腿ほどの丈の人間たちを見下ろすことしかできなかった。

「わたし、人間なんです」

 奈々菜はそう説明したが、腰を抜かした女性アナウンサーが聞き取ったのは怪獣の低い唸り声だった。

 映画みたいな悲鳴をあげてほうほうのていで逃げ出す彼女を、追いかけることができるほど、奈々菜は強くない。

「待って。本当は、人間なんです。昨日まで、OLで……本当なんです」

 誰も聞かない弁明を続けながら、奈々菜は曲がり角のカーブミラーに映る自分の姿を見た。覗き込めるほど間近にある歪んだ鏡は、牙の生えた奈々菜の今の姿を引き延ばして映し出した。


 髪もなければ眉もなく、丸い目は赤で、顔はぶつぶつで、ピンク色で、牙は黄色い。何を食べて生きてきたらこうなっちゃうんだろう。

「うう……」

 夢だ夢だと思いつつも、牙の生えた顔を目の当たりにしたら、だんだん悲しくなってきた。赤い目からこぼれた真っ黒な涙は、足元のコンクリートに落ちてジュッと音を立てた。


 奈々菜は逃げることにした。夢か現実かも定かでない今から、徹底的に逃げることにした。

 体は大きくなっていく。足跡も大きくなっていく。それに伴って街の緊張感も高まっていく。


『屋内や身を隠せるところに避難してください。繰り返します。現在、ピンク色の怪獣が町内を徘徊しています。危ないですから、屋内や身を隠せるところに避難してください』

 奈々菜が奈々菜だった頃のことを知っている人はもういないのだ。涙が止まらないから、奈々菜が歩いたあとには大きな足跡と、鉤爪のつけた傷と、爛れた地面だけが残った。

 あちこちから視線を感じる。カメラが向けられている。そのカメラの向こうから、好奇と恐れの視線を感じる。奈々菜は見なかった。振り返らなかった。彼らを刺激しないように、前だけ向いて歩いた。人の声を聞くと辛いから、涙の音と、足音だけを聞いていた。

 

じゅう、じゅう、じゅう。

どしん、どしん。


──おれは一人の修羅なのだ。

 そらんじるほど読み込んだ詩の一節だけが、奈々菜の意識を保っていた。

 わたしは修羅。4月の空の底を歩いている、修羅。

 

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