春と修羅と怪獣と私

紫陽_凛

Be怪獣

 坂咲さかさき奈々菜なななは夢を見た。


 自分が高校時代、結由夏ゆゆかと観に行った『シン・ゴジラ』の夢だ。映画館特有の静けさ、足元の灯り、凝った音響──隅々までが明瞭で、まるで現実に映画館に来ているようだった。十年も前の映画なのに、スクリーンは鮮明で褪せない。

 映画はまだ冒頭だ。

 漂泊した小型船に迫っていくカメラは、残された折り鶴と『春と修羅』の初版本を映す。ぽつんと置かれた靴と、そして教授のメッセージ。記憶にあるところから、ないところまで、映画は奈々菜の記憶の底を浚う。綺麗も汚いも全てを掬い上げて洗い出してしまう。


 奈々菜は大学時代、宮澤賢治を研究した。なぜこの大学でわざわざ賢治を?と友人結由夏に問われて、「あなたとシン・ゴジラを見たから」とは言わず、「なんとなく」と答えた。彼女が同じゼミの彼氏と付き合い始めてからは、『春と修羅』の内側に、答えを探し求めるようにして、大学時代を過ごした。もちろん賢治は答えなんか持っちゃいなかった。奈々菜の卒論はやはり『春と修羅』だった。


 奈々菜の隣に結由夏はいなかった。彼女はおろか、他の鑑賞客もいなかった。フルスクリーンの映画館は奈々菜のためだけに『シン・ゴジラ』を映した。

 この時点で、夢だということはわかっていた。夢に意味を見出すほど奈々菜はロマンチストではない。ただ、夢の中で「変な夢だな」と思ったことだけは覚えている。

 ここで結由夏が隣にいるのならまた話は別なのだが──。



〜〜〜


 奈々菜が目を覚ますと、世界はちょっとした騒ぎになっていた。

 まず、違和感があった。ベッドが小さいような気がする。奈々菜は寝相が悪いので、セミダブルのベッドを採用しているのだが、それがなんだか窮屈に感じられる。

 ふと頭だけを動かすと、賃貸アパートの壁を突き破ったビックフットもびっくりな足がテレビに中継されている。時刻になると目覚ましがわりに起動するテレビは、間抜けに突き出された足をありとあらゆる言葉で表現していた。大量の野次馬が押し寄せているのがわかった。

 奈々菜は自分の足元と、豆粒みたいになってしまったテレビのリモコンのボタンとを見比べ、それからすうすうと寒い自分の足先がどこにあるかを悟って、足をそうっと引っ込めた。床がきしみ、外から悲鳴があがり、ベッドが潰れた。


「でっか」


 つぶやいたつもりだったのに思いの外大きな声だった。アナウンサーは興奮し、野次馬はスマホのカメラを向けつつ散り散りに逃げ出した。小さなテレビの中の情報量は、奈々菜の頭をいっぱいにするのに充分だった。

 何からすればいいんだろう。会社に連絡?病院に行く?なんかデカくなっちゃったんですけどって?

 それとも大家さんに謝罪?ちょっと大きくなって足が壁を突き破っちゃいましたって?

 とりあえず、奈々菜は壊れたベッドをおりた。床にヒビが入り、天井に思い切り頭をぶつけた。


──どうしよう。ぜったいさっきより大きくなってる。


 部屋から出られなくなる前に、ここを出る必要がある。そうでないと、ビスケットを食べたアリスみたいになってしまう。

 でも、服をどうする?パジャマはパツパツだ。下着も似たようなものだろう。素っ裸で外に出る?

 そう思って、千切れそうなパジャマを脱いだ奈々菜は、恐ろしいものを見た。


 それは爬虫類の肌。あるいはゴジラのようなぶつぶつした、てらてらした、人外の鎧だった。乳房は滑らかな隆起に変わって見る影もない。くびれもない。鱗がピンク色なことだけが救い──いや、救いなわけがなかった。


「うそォー!」


 奈々菜の尾を引く声は怪獣の咆哮となって町中に響き渡った。緊急アラートが響き渡り、テレビの中は台風か地震か火山噴火か──災害対策画面に切り替わってしまっていた。

『シン・ゴジラ』だ──奈々菜は悟った。きっとこれは夢だ。


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