#14A その後の蒼空とトリガーと



あれから一ヶ月が過ぎた。雨の匂いが立ち込める駅のホームを出て、気だるく晴れない心のままあたしは下草町しもくさちょうに向かう。

ジメジメした空気が身体にまとわり付き、あたしの心を置き去りにしたまま季節は、春から夏へと移り変わろうとしている。



雨脚が強くなってきて、むしろ都合が良いと思った。こんな土砂降りなら誰とも会わなくてすむから。同級生とか。友達とか。スパーブのみんなとか。とか。



まさかこんなことになるなんて思ってもみなかった。下草町の下り坂の電柱付近には献花台が置かれていて、あたしも花を手向たむけて肩に掛けた傘の中棒を両手で挟むようにして手を合わせる。



春亜は、あの女を庇って死んだのだという。なぜ春亜が犠牲にならなければならなかったのか。あたしが原因の一端……かもしれないけれど、あたしは殺してほしいなんて言っていない。どんなに憎くても、陽音のことも春亜のことも死んでほしいなんてことは一度も思ったことはない。誰が悪いかなんて考える前から分かっている。人を殺してしまった人が一番悪いのは当たり前だ。



違う……すべてあたしのせいだ。一から十まであたしが悪かった。



春亜が死んだのは、逮捕された頭のおかしい『夢咲陽音の恋人(自称)』のせいであって、そいつが決定的に悪だ。だが、その発端を作ってしまったのはわたし以外の何者でもない。あたしが春亜をちゃんと繋ぎ止めていればこんなことにはならなかった。



春亜があのバスに乗る前にちゃんと引き止めていれば、こんなことにはならなかった。そして、陽音は止めておけ、としっかり忠告をすべきだったんだ。あの陽音は不幸を背負い込む女で間違いない。



ごめんね。春亜。

あなたにもう一度会いたい。あたしを許してくれる?

あたしは……あたしはどうしたら許される?



ふと顔を上げると、無言で夢咲陽音が立っていた。傘もささずに両手で花を抱えていて、全身ずぶ濡れだけど、目は真っ赤だった。一番会いたくない人と鉢合わせなんて最悪だ。



「……どいてくれる?」

「……えぇ」



あたしが横に避けてあげたものの、陽音は花を献花台に置いたまま手も合わせずにただ呆然としていた。陽音は雨音に紛れながらしゃくりあげていて、目を見る限り正気ではなかった。腰のあたりで力いっぱい握りこぶしを作って、その敵意が誰に向けられているのかわからないけど、陽音のそんな顔をあたしは見たことがなかった。



夢咲陽音……という女はアイドルに成り上がるくらいに無敵だと思っていた。あたしの知っている鈴木陽音とは大違い。あの頃の陽音はどこまでも弱かった。だが、今考えるとそれは違うんじゃないかと思い始めている。きっとあの頃から……。



「あんた風邪引くよ。それとさ、聞いていい?」

「…………?」

「あんたはルアと付き合っていたの?」

「そんな……の……蒼空ちゃんに……関係ない……じゃんか」



震える声で陽音は答えた。間違いない。陽音は春亜と付き合っていた。それも随分と長い間付き合っていたのだと直感が言っている。つまり、あたしがフラれる前から、あたしに黙って陰でコソコソ付き合っていたのだろう。春亜はあたしにそれをひた隠しにして「彼女なんていない」とうそぶいていたことになる。



結局、あたしははじめからのけ者だったってことだ。陽音と愛を育み、それは大きく実って、春亜は陽音のためなら命を投げ出すような、そうね——愛の花を咲かせていたことになる。

あたしは……春亜を得ることができなかった。本来なら、陽音のいる場所にあたしが立つはずだったのに。



「そうだね。まったく関係ないことなのかもね」

「ねえ……蒼空ちゃんは……ルア君がいなくなっちゃったのに……なんで悲しくないの?」

「……あたしが悲しくない? 笑える。そんな冗談を言う余裕あるなんて。あはは、本当に可笑しい……は? ふざけないでッ!! あたしが悲しくない? はぁ? あんた頭沸いてるの? あたしがどんな思いで……この一ヶ月過ごしてきたと思ってんのッ!?」

「じゃあさ……じゃあ、なんで……なんで泣いていないの?」



ハッとして顔に触れる。涙が出ない。悲しいのに涙が出ない。そういえば、春亜の訃報を聞いたときも悲しかったけれど涙は出なかった。



この虚無感は……なに?



「蒼空ちゃんは……ルア君をどれだけ苦しめれば気が済むの? ルア君は……ずっとね、ずっと今じゃないどこかで蒼空ちゃんを心配してた。蒼空ちゃんは……本当はいい子なんだってずっと言ってた。それなのに、蒼空ちゃんは……」

「今じゃないどこか……? なにそれ?」

「今回の件だって、本当は蒼空ちゃんがあの動画を撮ったんでしょ? もし蒼空ちゃんが行動に出なければ……ルア君が死ぬことはなかったのかもしれないじゃん」

「……あ、あた、あたしは……そんな、そんなつもりじゃ」



違う……だって、誰も未来なんて分からないじゃん。まさか春亜が刺されちゃうなんて思わなかった。あたしが春亜を殺し……違う、違うよ。あたしは春亜を救おうと……。

なに、心が……気持ちがおかしい。なに、やめて。



『オ前ノ御饌みけは美味いナ。壊レル前にモッとヨコせ』



心臓が止まるかもしれない。そう思った。どこまでも低い男の声が響いて、恨みつらみが一層ひどくなっていく。これは……どこかで聞いたことのある声……。



憎い。陽音が憎い。あたしの春亜を……取りやがって。



「わたしが挑発なんかしたからだよね。本当にごめんなさい」

「あたし……ハルを……ハルにルアを……取られて」

「ルア君を取られて? 取ったのは……あのときルア君を取ったのは蒼空ちゃんじゃないッ!! わたしがルア君を好きなこと知っていて……それなのに、蒼空ちゃんは……ずるいよ……幼なじみって……そんな理由だけでずるい……」



あたしが取った……?



確かに、鈴木陽音からすればそう映ったのかもしれない。中学生のとき、春亜は鈴木陽音ととなりの席だったこともあって二人仲良く話していた。それをあたしはよく見ていたのだ。鈴木陽音から無理やり好きな人を聞き出した結果、案の定『鏡見春亜』の名前をぽろりと漏らした。クラス中の女子と男子の前で話させて、さぞ屈辱だったかもしれない。



あのときも、その声が聞こえていた。鈴木陽音に対する憎しみの理由は分からなかったけど、噛んだ唇から出血するほど憎かった。



鈴木陽音の席を取り囲んで、一斉に口撃をしたのは悪かったと思う。泣きながら陽音は答えたけど、終始あたしを睨みつけていた。奴隷の分際で生意気だと言ったのも記憶している。



それからあたしは春亜とよく遊ぶようになった。毎日のようにスタジオスパーブで会っていたけど、それ以外にもよく会って話をした。二人で遊びにも行った。夏まつりでは花火を一緒に見た。あたしの浴衣姿を「似合っている、可愛い」と気恥ずかしそうに言ってくれた。



なのに、春亜の気持ちは陽音に傾いたままだったのだろう。



春亜を取られた……って。言いがかりもいいところだ。あたしから春亜を取ったのは結果的に陽音じゃないの? 自分の命を投げ出してまで恋人を救うなんて、ドラマの中の話のようだ。あたしは結局、春亜と付き合うこともできずに陽音に取られてしまった。まさか見返すためにアイドルになったなんて耳元で囁かれるなんて……。



ふざけないでッ!!



「ルア君を……返してよ……お願いだから……ルア君を……」

「ルアは……春亜は死んじゃったじゃん……悔しいけど……もう会えない」

「ルア君は生きてる……どこかで絶対に……」

「はぁ? あんた頭おかしいんじゃないの? 春亜は死んだんだって。あたしだって春亜が生きているって思いたいけど……現実を見なよ」

「……ルア君と会いたい。わたしは……ただルア君と会いたい」



あたしだって会いたい。会いたいけど会えない。それはこの世界の理で、愛別離苦という言葉のとおり、愛する者の別れの苦しみは八苦に分類されるほど辛いものだ。

なのに、あたしは涙すら出ない。その理由が分からない。



もし、あたしが陽音と同じ状況下だったとしたら、春亜はあたしのことを庇って死んでくれる? 陽音だからこそ庇ったのではないだろうか?

その思いが心の中でどす黒く渦巻いていて、それを嫉妬だと知ったのは春亜が死んで数日経ってからのことだった。いや、はじめからどこかで分かっていた。分かっていたけど、嫉妬だなんて認めたくなかったんだ。



それを自覚してしまったら、鈴木陽音に負けを認めているようなものじゃないか。



「ハル……あんた壊れちゃったんだね」

「……ほっといて」



陽音は両手両膝を地面についてうなだれた。陽音の慟哭どうこくは駅を発つ電車の警笛にかき消された。



『早月蒼空……おいで』



今度は女の声でどこかで呼ばれた気がした。耳元で囁くような声がしたけど、振り返っても誰もいない。陽音が嫌がらせをしているのかと思ったけど、まだ泣きじゃくっていて微動だにしていない。



『おいで。可哀そうな子』



まただ。いったいどこから——坂の下のほうから聞こえてきたような気がした。打ち付ける波の音が轟音となってお腹の底にまで響くような、そんな荒れた海だった。



あたしは踵を返して坂を下る。道中、また『辛かったのだね』とか『また来たね』とかよく分からないことを囁いてくるけど、その声はどこかで聞いたことのある声なのを思い出す。



気づくと海まで来ていた。荒れた海だけど引き潮のようで岩場を通れば、えぼし岩のほこらまで行けそうだった。どうせ雨で足元は濡れているし、行ってみよう。声の正体がどうしても知りたかったこともあって、あたしは一歩を踏み出した。



波は不思議とあたしに届かずに、全身ずぶ濡れになるようなことはなかった。まるで道が出来たように岩場に波がかからない。



『おいで。ほら、おいで』



あたしは誘われるまま、小さな祠の前にかがんだ。

ここは確か……ツクトシノヒメとかなんとかの祠だった。小学校のときに先生がそんな話をしていた。



小学校のときに一度、海岸清掃かなにかで来たことがあった。確か班は、あたしと春亜、それに鈴木陽音とあと一人誰かだった気がする。そのときも引き潮で、こんなふうに祠まで来て(さすがに雨は降っていなかった)先生に怒られたんだった。




『望みを叶えてあげる。代償と御饌みけを供えれば……叶えてあげる』




そうか。思い出した。あのときと同じ声だ。




あたし達は好奇心で祠の扉を開けて、それで先生に怒られたんだった。





そのときの声は……恐ろしすぎて忘れていたんだ。





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