#09 些細な時の流れと、代償と。



カーテンの隙間から漏れる光がまぶしくて起きてしまった。スマホを見ると2028年4月20日。隣を見ると最愛の彼女の姿はなく、シーツにぬくもりだけが残っていた。もう起きたのかな。そうだ、今日は彼女の誕生日だ。



宿は今日も快晴で、カーテンを開けて背伸びをした。目が完全に覚めないままリビングに行くと、彼女はコーヒーを淹れていて「おはようっ!」と今日も笑顔をみせてくれる。



彼女がアイドルを辞める決断をしたのは単純で、僕と来年結婚をするためだった。

ただ、いつ辞めるのかを模索しはじめたのが昨夜だ。

契約解除の件もあるだろうし、彼女には負担をかけてしまうかもしれない。



「誕生日おめでとう。陽音、今日は盛大にパーティーしよう?」

「盛大じゃなくてもいいよ。昨夜言ったじゃんか。わたしは春亜くんと一緒に祝ってもらえばそれでいいんだって」

「そうだっけ?」

「それにしても今年で5年目かぁ。まさか春亜くんと結婚するなんて夢みたいだよ。昨夜のプロポーズが最高のプレゼントだし、今年はあまりお金使わないで貯金しよ?」

「うわぁ〜〜陽音らしくないセリフじゃん。プロポーズ前は、ランド行ってレストランでケーキたらふく食べて、窯焼きのピザをシーで食べたあと、家に帰ってきてからベーグル食いまくるって言ってたじゃん」

「考え変わったの。とにかく、質素にして来年に備えなくちゃ」



ゆったりとした時間が流れる。ほのかなコーヒーの香りが立ち込めて、窓際のテーブルの上には花が活けてある。どれも陽音のチョイスで僕なんかよりもずっとセンスがいい。2023年に偶然お祭りで再会した僕たちは、すぐに意気投合して交際に発展した。

それからは毎日が楽しくて、僕は夢見心地のまま陽音にプロポーズをし、オッケーをもらったのが昨夜——4月20日の午前零時のこと。



「春亜くん、少しだけ外を歩かない?」

「うん。ついでに陽音の好きなベーグル買ってこようか」



二人して幾度となく散歩をした新宿御苑は、今日もぽかぽかで青空に緑が映えていた。朝の澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込むと気持ちがいい。

芝生に寝転んで二人で空を眺めた。すると陽音がむくっと起き上がって僕の顔を覗き込む。



「あのね」

「うん? どうしたの?」

「結婚する前に一つ言っておきたいことがあるの」

「なに? そんなに改まって」



陽音は表情を曇らせた。晴天の空とは対照的な顔つきになんだかドキドキする。いったい何を言われるんだろうって。



「なにかを得るためには何かを犠牲にしなくちゃいけない。いつか言ったよね?」

「……聞いたような?」

「わたし達の選択次第で枝分かれしていく時の流れの中で、世界はどれも些細な変化しか起こらないけど、重大なインシデントは枝分かれした世界のどの時空軸でも必ず起きる。つまり、明日死ぬ定めの人はどの時空軸でも明日死んでしまう。じゃあ、どうやって未来を変えると思う?」

「ちょっと待って、いったいなんの……? SF映画なんて観たっけ?」

「大事なことなの。もし誰かを救うために犠牲を払うとしたら、それは同じだけの代償が必要ってこと」

「……スピリチュアルの話?」

「聞いて。わたしは——」



「いたぞ」



突然、陽音は立ち上がって周囲を見回した。緊迫した空気が流れる。物々しい数の人が集まりだして僕と陽音のほうを指さしている。これはいったい……。



「春亜くん、ごめん、逃げよう」

「え。な、に? 突然なんなの?」



僕の手を握って陽音は駆け出した。10人ほどの男が走って追ってくるけど、とても知り合いには見えないし、友好的に友達になれそうな雰囲気でもない。もしかして、あれが今も悩んでいるストーカーなのだろうか。男たちはそれぞれにスマホを持っていて撮影をしているようだった。



御苑を脱出して路地に入っても追いかけてくる。警察に電話をかけようとしたら僕のスマホはなぜか圏外。陽音のスマホは突然のエラーでシャットダウン。こんなときなのに、そんなのおかしくないか?

裏路地を走って、まるで迷路のようにグルグルして、どこからどう来たのか分からなくなっていた。



周囲がめまぐるしく回ったと思ったら、今度はスローモーションのように景色が後ろに流れていく。SF映画のワープシーンがゆっくりになったような、そんな感じ。



気づくと古めかしい通りに出ていて、人は誰もいない。駄菓子屋と豆腐屋の前に立てられている日本国旗が風に揺れていた。真っ赤な空があまりにも不気味で、僕の心臓は鼓動を早める。




ここはどこなんだ? 




「まさか、こんなに早く……」

「ここは……たしか、見覚えがある」

「ヤダよ。ヤダ、春亜くん、絶対にダメ……」



まるでセピア色に染まる町は、どこからどう見ても新宿ではなかった。そして、以前、僕はここで死んだことがある。その階段の奥をよく見てみると神社が建っていた。どこからか潮騒に混じる、ひぐらしの声が聞こえてきて生ぬるい風が頬をなでていく。

思い出せば、死んだあのとき、痛みや苦しみはなかったけれどいい気分ではなかったな。



「この神社……」

「ダメ、春亜くん、帰ろう? ね?」



けれど、足が止まらない。まるで吸い込まれるように勝手に足が動いて、気づくと鳥居の下まで来ていた。階段を一歩ずつ上っていくと、背後からディーゼルエンジンの音が聞こえてくる。



「逃げてッ!! お願いッ!! また同じ目に遭うなんて絶対にイヤ!」

「えっ!?」

「お願い、春亜くん、こっちに」



陽音が手を引いてくれたけど、腰から下はまるで石のように動かない。このままだと陽音まで轢かれてしまう。だから、仕方なく、まだ動く上半身を力いっぱい使って、僕は陽音を突き飛ばした。怪我をしないといいけれど。



「なんで……また……イヤ、なんで動かないのッ!? 動いてッ! またわたしをかばって死んじゃうの……あのときもそうじゃないッ! やっと春亜くんと結ばれると思ったのに」

「え?」



僕と陽音の間をトラックが横切り、そのまま横転した。







ふと気づくと汗でびっしょりになったスウェットが絡みついて、そして背中を抱きまくら代わりにするハルによって、完全に僕は身動きが取れなくなっていた。これでは悪夢も見るよな。しかし、いろいろなものがグチャグチャに組み合わさったけれど、やけにリアルな夢だったと思う。2028年の夢を見るなんて、すごく嫌な感じだ。自分の死ぬシーンもなんだか夢じゃないみたいですごく怖かった。まだ身体が震えている。



「ハル……なにもしないから、とか言ってなかったか?」



なにもしないはずの人がちゃっかり抱きついているんだもんな。金縛りよりひどい。



「うーん、ルア君そっち行っちゃダメだよぉ……こっち」

「なんの夢見てるんだよ」



ハルの腕を振りほどいてベッドから立ち上がった。あまりにも恐ろしすぎる夢だった。唾を飲むと痛いほど喉が渇いてキッチンに立つ。コップで水を飲んでカウンターに置かれた時計の時間を見ると、まだ午前4時。外はまだ暗い。



もう一度寝直そうかと思ったけれど、目が冴えてしまっているしあのベッドに戻る気もしない。シャワーを浴び、ハルの持っていた服を借りて着替えて、しばらくリビングでテレビのニュースを見ながら過ごした。



7時ちょうどにドタドタと足音が聞こえて、ハルが血相を変えながらリビングに入ってきた。朝から騒がしいな。なんだか物々しい雰囲気だけど、怖い夢でも見たのか?



「ルア君、生きてるッ!?」

「えっと……五体満足で生きているけど?」

「心配したんだよぉ~~~~」



半泣きで僕に抱きついてしまっているけど、一応確認しておくとする。



「えっと、僕たちってただの友人同士だよね?」

「うん」

「じゃあ、なんで抱きつくわけ? これ2回目じゃないかな?」

「うん」

「そんなに怖い夢みたの?」

「……うん、だって、ルア君が死んじゃったんだもん……あんまりだよ」

「でも、僕は生きているよ?」



あれ、僕の見た夢もそんな感じだったけど、時間の経過とともに夢の記憶がデリートされつつある。半分以上忘れちゃったけど、なんだか引っかかるな。

確かに死んだような夢を見た気がするけど、びっくりするくらい忘却してしまっている。



「今日はルア君から離れないから」

「えっと……どういうこと?」

「ずっとこのままでいる」

「え……大迷惑」

「今日は買い物行くのやめよう?」

「それじゃ生活できないじゃん。それに今日こそ家に帰らないと」

「イヤ。絶対にイヤ」

「夢でしょ? そもそも僕はそんなに簡単に死なないって」

「ホント? そう言って死んじゃうのが人間じゃないかっ!」



以前、トラックの下敷きになって死んだ人間が言うのも変だけど、自分が気をつけていれば大丈夫という自信はある。ありがたいことに病気ではないし、健康そのものだからいきなり死の宣告をされてもピンとこない。



「ハルは少し恐怖に敏感なのかもしれないね。分かった。しばらくこのままでいいけど、一日中はだめね?」

「うん」

「それと今日は帰らなくちゃいけないか——」

「ダメ。じゃあ、ルア君のおうちにわたしも帰る」

「あー……」



そりゃそうだ。恐怖に怯えて生きている身で、わざわざ東京から引っ越してきても誰も頼りになる人がいない。そんな中、旧友と再会したら頼りにするのは当然といえば当然だろうな。僕が拒否するのは簡単だけど、こんなに泣き出しそうな子を放っておくのはやっぱり可哀そうって思ってしまう。



「うちは手狭だから、多分二人では無理だと思う。ハルがどうしても僕と一緒じゃなきゃ嫌なら部屋を一つ貸してくれれば、しばらく泊まってもいいけど?」

「イヤ」

「なにが?」

「一緒の部屋じゃなきゃイヤ」

「……そこは妥協しないと」

「分かった……じゃあ、空いてる部屋どこでも使っていいけど」

「けど?」



この期に及んでまだなにかあるのか。ハルは頬を膨らませながら僕の手を引いた。



リビングと寝室はすっからかんだったから他の部屋(2部屋)も空いているものだと思っていたらダンボールが山積みになっていて、今にも崩れ落ちそうで、もし下敷きになったら圧迫死しそうな様相で、とにかく僕は唖然とするしかなかった。



「なんで2部屋もこんな状況なの……」

「だって、今までファンからもらったプレゼントがいっぱいあるんだもん。捨ててこようかと思ったけど、さすがに悪いかなって」

「いやぁー……これは」

「だから片付けからはじめないといけないの」

「大事な物は取っておいて、そうでないものは捨てる。そうしないといつまでもこんな状況じゃん」

「どんな思いでプレゼントしてきてくれたのかなって思ったら、悪くて捨てられないよ」



ファンのひとりひとりを大切に思うハルの気持ちは分かった。だからといって収まりきらないものまで取っておくのはさすがに違うと思う。



「じゃあ、せめて中身を見てから判断しようよ?」

「うん」



こうして不思議な同棲生活がはじまろうとしている中、初日から大仕事になりそうでめまいがしてきた。





朝から何度掛けても春亜に繋がらないのは、きっと同じベッドで寝ていてイチャイチャしているからに違いない。今日はどうしても春亜に会って、話を聞いてもらわなくちゃいけないのに。メッセージを送っても既読もつかないのはどういうことなの?

もう朝の8時だというのにまだ寝ている?



一限目から講義があろうが休みだろうが、関係なく春亜は早朝ジョギングをしていることを知っている。いつも決まった時間に河川敷を走り、となり町の堤防から上がって町中を走り戻ってくるコースで、あたしはいつも偶然を装って河川敷で合流をしている。今日はいつまで経っても来ないところを見るとサボりなのかもしれない。



それとも昨晩はお泊りでまだ陽音の家にいるというのだろうか。もし、陽音がいたらそのときがチャンスだ。せめて、あの陽音と一緒にいる場所さえ分かればとつしてやるのになぁ。



そのまま2時間が経過したけど現れる様子はない。

仕方ない。せっかくウェアに着替えて走りに来たんだから、ダンスの体力づくりもあるし走って帰ろう。軽く河川敷を流して駅ナカを通ると、偶然にも陽音の声が聞こえてきた。

ブルーのレンズの入った丸いフレームのメガネ(おそらくレイバン)にマスク、そしてシュプリームのキャップだ。クソみたいに金持ち気取って。



「だからごめんよぉ~~~これからはちゃんとするから。わたしはメンヘラじゃないって」

「はいはい。そんなにベタベタするならもう2メートル以内に近づかないってルール作るからね?」

「だってぇ……ルア君がいけないんだよ?」

「は? 僕はまじめにハルのことを思って……」

「イジると面白いんだもん」

「ははは……マジでぶっ飛ばすよ?」



は?



なに、なんであんなに仲よさげなの?

そんなの許せないッ!!

あたしと二人で幸せになる計画を立てているのに、あんなチャラい女に春亜を掠め取られるなんて絶対に許せない。



凸よ、凸!!



「ちょっと、ルア」

「あ……」

「あらら……なんでいつもタイミングよく来るの……蒼空ちゃん」




偶然にも見つけることができた。これは神様が味方してくれているのよね。






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