#06 一緒に居てほしい陽音と不屈の蒼空
家を出て走りながら通話アプリでハルと話しながら向かっているんだけど、彼女はまるで別人のように声を震わせて怯えていた。さっきまでのテンションからは考えられないような別人になっていることを考えると、本当に危機なんだよな。
「とにかく僕が着くまで絶対に施錠したままにして。身を守れる物とかないの?」
「わかんない、わかんないよッ! どうしよう、怖い」
「警察に電話は!?」
「してない……」
「したほうがよくない?」
「うん……するから一旦切るね」
駅を南から北に越えるなら、タクシーを捕まえるよりも走ったほうが絶対に早い。とはいえ、どんなにがんばっても10分は掛かってしまう。その間、ハルが襲われでもしたらどうしようかと不安に駆られて気分が悪くなってきた。
なんとかハルのマンションの前にたどり着くと、タイミングよくハルから通話の通知。出ると「警察に電話したら巡回してくれるって言ったけど……」と泣きそうな声だった。
「着いたよ。エントランス開けてくれる?」
「……うん」
エントランスの扉が開く際も背後を見て誰も追ってこないか、不法に侵入してくる者はいないかを確認しつつ、扉が閉まるまでその場に留まった。閑静な住宅街でこの時間(22:00過ぎ)にもなると外なんて誰も歩いていない。だからこそ、犯罪者がうろついていそうな気配ではある。
エレベーターを待つのもじれったく階段を駆け上った。息が上がるが、これくらいで
「ハル、部屋の前に着いた。もう大丈夫」
ドアが開かれると同時にハルが飛び出してきて僕に抱きついた。後ろに転ばないように体勢を保ちつつ、「大丈夫だから」と気分を落ち着かせるけれど、顔を見る限り怯えていて泣き出しそうな感じ。
「来てくれてありがとう、ルア君。あのね、ごめん、ほんとうにごめんなさい、わたし……ルア君に……」
「なんで謝るの? 友達として当然だから大丈夫だって」
「……うん、ありがとう」
「とにかく、中に入らせて?」
「うん」
ハルは催涙スプレーやら防犯ブザーやら様々なグッズを揃えていたらしく、すべてテーブルの上に並んでいた。随分と準備がいいなと思ったけど、アイドルなんだからそれは当然なのかもしれない。
「わたしね、もっと早くルア君に言うべきことがあったのに……ごめんなさい」
「……? なに?」
「アイドル活動をセーブして、こっちに来たのはね……実は」
ハルは泣きながら真実を語った。
ネットでハル——
そして一部のファンは、よく言う『行き過ぎた行動』なんて生ぬるい範疇を超えてストーカーとなっており、事務所も対応に苦慮しているのだという。
そうしてやむをえず活動をセーブすることとなった。当然ながらSNSのすべてのアカウントは削除済みで警察に相談をしたけれど、件数が多すぎて解決には至らないとか。
あまりにも異常だと思う。
「でも、わざわざ茨城の高花市に引っ越してきた理由は? むしろ実家にでも帰ったほうが安全だったんじゃないの?」
「お母さん再婚してとてもじゃないけど帰れない……。それにお母さんの幸せぶち壊したくないし。それで東京じゃない場所で思いついたのがここだったの」
「……そっか。でも一人暮らしって危ない気がするんだけど?」
ハルの話だと事務所側も部屋を用意してくれたけど、そもそも東京のどこにいても不安で押しつぶされそうだから、離れることを決意した結果が高花市だったのだとか。うーん、なんか漠然としているというか、もっと違う理由がありそうな口ぶりなんだけど、ハルはそれ以上話そうとしないから分からないな。
とりあえずベランダには何もいなかったし、周囲を見回してもそれらしい人影は見当たらない。警察の方も2名ほど訪ねてきてくれて、事情を話すと夜は巡回の回数を増やしてくれると言ってくれた。
「すみません……大騒ぎをしてしまい、反省しています」
「いえ。大丈夫ですよ。いつでも呼んでください」
そう言って警官2名は帰っていった。警官たちはなんだかとても丁寧で親身に話を聞いてくれたような気がする。いや、ハルを見て鼻の下を伸ばしていたような気もしないでもないけど……。美人って得だなと思ったよ。
「ハル……僕は帰るけど大丈夫? 施錠の確認と窓ガラスにはガムテ貼っておいたほうがよくない?」
「イヤ」
「……なにが?」
「帰っちゃイヤ。ルア君、お願いがあるんだけど」
出た。上目遣い。しかも今にも泣き出しそうな表情で、目がウルウルしているから余計に可愛く感じる。
ここで僕が帰ってしまったとしたら、ハルは安心して眠ることができないんだろうな。そう考えると可哀そうかもしれない。凶器を持った犯罪者が現れたとしても、僕は格闘家でもあるまいし、守ることもできないけど。それでも。
「一緒に居てくれない……かな? ダメ?」
「本当に頼りにならなくて、いることしかできないけど……いいの?」
「じゃあっ! 泊まってくれる!?」
「はぁ……仕方ない」
「わーーーーいっ! ありがとっ!」
ぱっーっと顔を明るくさせて、ハルは喜んだ。ところで僕はどこで寝たらいいんだろう。さすがに寝ないで過ごすというのは無理があるよなぁ。
「あのさ……すごく言いにくいんだけど言っていい?」
「そこまで言っておいて、言わないとか、逆に迷惑だからね?」
「お風呂まだなの」
「うん、そう見えるね。さっきと同じ服装だし」
「怖いの」
「うん、それもなんとなく分かる」
「一緒に入って?」
「ははは……断る」
ハルは上着を脱ぎ始めた……。
は? マジなの?
*
身体がベトベトする。そのベトベトはいくら流しても落ちない気がして何度も泡を立ててこすり、シャワーで流すのを繰り返した。頭からシャワーでお湯を流していてもなぜか寒い。口の中まで汚されてしまった気がして歯磨きとうがいを何度もするけど、苦味はずっと残っている。
震えが止まらなかった。
あの頃のあたしは本当に子どもだった。なにかを犠牲にしなければ、なにかを得ることなどできない。それは自分の時間だったり、それは……大切な——なにかだったり。
あたしにとって、『はじめて』は大きな代償だった。
もしもう一度人生をやり直せるなら、あたしならどうする……。
いや、そんな非現実的なことを考えても惨めになるだけだ。
それにしてもやっぱり気持ちが悪い。好きでもない人とまぐわうべきではない。分かっているけれど、もうどうしようもないところにまで踏み込んでしまっている。
身体を拭いて全身にクリームを塗り、寝ている
家に帰ったらもう一度お風呂に入ろう。ホテルのシャワーは信用できないし、少し洗ったくらいでは穢れは落ちない。
春になったとはいえまだ風は冷たい。心なしか頭が痛い。
今頃、春亜と陽音は仲良く一緒にお風呂にでも入っているのだろうか?
そうだ、春亜に電話をしてみよう。もしかしたら、真剣に話せばもう一度チャンスは訪れるかもしれない。もし、陽音のことを本当はなんとも思っておらず、あたしのことが好きだったけど陽音に騙されていたんだ、というニュアンスの言葉が出てきたら許してもいい。
そうだ、思い出した。あのとき、あたしの行動が春亜にとって不愉快だったんだ。間違いない。あれが原因だ。
それは告白する一週間前のこと。めずらしく練習中にフリを間違えた春亜のことを笑ってしまったのだ。それが原因で春亜は傷つき、あたしと付き合うことが無理だと告白を断ったのかもしれない。
謝ってみよう。
だけど、陽音だけは絶対に許さない。春亜を奪い返してから陽音に見せつけてやればいい。春亜が返ってくるなら、その程度で済ませてもいいじゃない?
諦めないで前に。前へ進もう。
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