#05 初体験。触ってもいいよ?/心が削られる思い


再会した初日から男を部屋に連れ込むなんて、どういう神経しているんだ。とか思っていたけど、もしかしたらハルは一人暮らし初日で心細かったのかもしれないな。そう考えることにしてなにかを期待するとか、そんな考えは捨てた。



いや、普通に考えてアイドルの子の家に上がり込んで、ドギマギしない方がおかしいって話なわけで。でも、ハニートラップの可能性も捨てきれないから、気を抜かないようにしないと。美人局のように後から怖いアニキが出てきて金をむしり取られるんじゃないかって思うのは普通だよね? まあ、ハルの場合考えにくいけど。



ちなみにハルの部屋は必要最低限の家財しかなくて、引っ越してきた初日ということもあり生活感がまったくない。ただし、このマンションはファミリーの入居を想定しているらしく、かなり広いし部屋数も多い。羨ましいくらい金持ちな感じがしてちょっと嫉妬。



「なに難しい顔してるの? ははーん。ルア君はわたしといかがわしい関係を持とうとモゾモゾしてるんだな?」

「は? な、なに言っちゃってるの? そんなわけ」

「ないの? ふーん。でもルア君ってモテそうだし経験あるんじゃないの? お姉さんが聞いてあげる」

「僕にだって少しくらい……」



とはいっても蒼空とはなにもなかったわけだし、あれ、よく考えたらそれって付き合っていたうちに入るのかな。確かに将来を約束した仲だったけれど手を繋ぐくらいで……そこからまったく進展がなかった。



「あるの? ないの?」

「ないよ……」

「だろうと思ったぜ。経験があれば女の子の家に上がるだけでそんなソワソワする人いないんだよね?」

「そういうハルは男を簡単に家にあげちゃうんだな?」

「なに言ってるの。だから、わたしは今日からはじめて一人暮らしで、男の子とは遊んだ経験すらないのに。実家は殺伐としていたし、それにアイドルになる前もなってからも、時間的な余裕なんてなかったからね?」

「じゃあ、部屋に上がった男がソワソワするかしないかなんて分かんないじゃん」



この状況下で冷静な同年代の男子がいたら見てみたい。ちなみに蒼空は、性的行為をすればそこから気持ちが急降下していくものだと信じて疑わなかった。つまり好きな人からキスをはじめとした身体を求められて、それを与えてしまったら気持ちは冷める一方なんだと説いていた。経験のない僕にはそれが真実かどうかなんて分からない。



そういう意味で『結婚するまで大切にしたい』と蒼空は言っていたけど……。



ただ、今となっては(葛根先生とホテル直行する蒼空を見てからは)、蒼空の真意が分からない。僕に話した以外に理由があるのだと思う。



ダメだ。こうやってちょっとした会話の中でもまた蒼空の存在を思い出してしまう。



「だから訊いているんじゃん。経験あればソワソワしないんだよねって。友達とかとそういう話にならないの? あ、それよりもご飯、ご飯!」



ならない。いや、なるけど悔しいから聞かないことにしているだけだよ。悪かったな。



結局駅ナカのとんかつ屋でテイクアウトを買ってきた。本当にハルが奢ってくれて助かった。大学生らしく財布にもカードの中にも金が本当にないことに驚きつつ、よくこんなんで生活できたよなって思っていたけど、ここでもやはり蒼空の存在を思い出してしまった。



付き合ってからというもの、蒼空がしょっちゅう僕の家に来てご飯を作ってくれたんだったよな(食材費は僕持ちだったけど)。なんて蒼空頼りの生活だったんだ、僕はって思うよ。

社会人を少しだけ経験した身としてはもう少し節約をしてバイトをして、お金を貯めようと思う。もっとお金の勉強もしてちゃんと増やすことも考えないと。



「このとんかつ……1500円もしたわけだけど」

「うん。美味しいんだろうね。ルア君は食べたことないの?」

「……ない」

「じゃあ、初体験だ。わたしとの初体験の感想あとで聞かせてね?」

「初体験……」

「あはは。もう本当に正直で面白いね。中学の頃からあんまり変わってなくて可愛いよ? あの頃のわたしは子どもだったからさ、みんながそういう話をしているのが恥ずかしくて聞いていられなかったけど」

「今なら大丈夫だと?」

「大丈夫に決まってるじゃないかっ!」



せっかくテーブルに並べたとんかつ弁当をそのままに、スマホで時間を確認したハルは立ち上がり、わざわざ僕のとなりのイスに腰掛けた。



一体なにをする気? 距離感が近くてヤバい。ハルってなんでこんなに良い香りするの?



「ほら、ルア君なら触っていいよ?」

「ど、どこを……?」

「うーん。えっと……胸とか? あっ、いきなり下はダメだからね?」



というか、なんでこんな話になったんだろう?

僕がソワソワしているとか経験がないとか、どうでもいい話から飛躍して僕が中学生の頃となにも変わっていないなんて言われて。

それがなんで僕がハルを触る話になったの?

これ触った瞬間、どこからか怖い人が出てきてぶん殴られるパターンじゃない?



「いやいやいやいや、おかしくない? 僕たちって友達じゃん。こういうのって」

「恋人がすること……または夫婦がすること。うん、そのとおりだと思うよ?」

「じゃあ今、この……していることって、なに……?」

「ヤダな、冗談に決まってるじゃないか。君は単純だから、アイドルであるわたしに触れる機会があったらどういう反応をするのか実験していたまでだよ」

「距離感がバグってない?」

「なに言ってるのさ。わたしがそっちにいたらテレビが見られないじゃん。今日は、ユメマホロバが出演する番組があるから観たいだけだよ」



確かにダイニングテーブルで向かい合って座った場合、ハルはテレビに対して背を向けることになってしまう。だからテレビを観ながら夕飯を食べるとなると、必然的に僕のとなりのイスに座るしかない。



「あ〜あ。ルア君が野獣になったらどうしようかと思ったけど、今ので安心して家に上げても大丈夫なことが証明されたよ。おめでとう」

「おめでとう、じゃないよ」



本気でドキドキして心臓が潰れるんじゃないかって思った。なんとか生きていることに感謝……生還おめでとう、って冗談じゃない。ハルは確かに綺麗で可愛くていい匂いがして、話していて面白いかもしれないけれど、恋愛感情を持っていない僕がいきなりハルを襲う?

そんな非理性的で感情任せな行動に出るわけない。



「ごめんごめん。でも、ちょっとドキドキした?」

「しない。ぜんっぜんしない。たとえハルがアイドルだろうと僕はそんな理由でっ」

「理由で?」

「なんでもないッ!! 飯食うッ!」

「ふーん。つまんない」

「つまんなくないッ!」

「じゃあ、しちゃう?」

「なにを?」

「セッ——」

「言うなッ!! しない!」



ハルはテレビを点けて興味なさそうにベテラン歌手の曲を聴き流しながら、僕の方を見て笑った。からかうのもいい加減にしてほしい。そもそも、なんでのか疑問すぎる。その後も次々と僕を誘惑しては「嘘に決まってんじゃん」とか言ってバカにしながら笑って。



けれど、ユメマホロバのシーンになるとそれまでとは別人のような顔つきになって、テレビに食い入るように静かになった。



『今日から夢咲陽音は活動をセーブすることになりました。少し出番が減っちゃうけど、変わらない応援をお願いします』



夢咲陽音はそう挨拶をして曲に入った。激しいダンスナンバーで、こうして僕がユメマホロバをちゃんと観たのは初めてだったかもしれない。ダンスを少しでもかじったことのある人なら、息をあげずにキレッキレのダンスをしながら歌うことの難しさが分かると思う。けれど、声が掠れているのは別の理由があるのだと思った。



テレビの中で踊るハルの顔は、かろうじて涙腺崩壊を耐えているような表情を浮かべている。その想いがどれほどのものか計り知れなかったけれど、横を見てハルの顔を見たらなんとなく分かった——気がした。



「ハル……この撮影のとき……泣いていたんだね」

「泣いてないよ。ただ、こみ上げるものがあって」

「泣きなよ。本当はずっと我慢していたんじゃないの? 友達じゃん。僕はハルが泣いたことを誰にも言わないし、言うつもりもないからさ」



ハルは「もっと踊りたかった」と言って号泣した。とんかつしょっぺーな、とか減らず口を叩きながら涙を流し、テレビを観て泣いた。



「背中、触っていい?」

「う……ん……」



背中を擦ってやる。なんとなく、こうするのが正解のような気がして。しばらくすると泣き止んで気持ちも落ち着いたのか、僕の方を向いて「できたじゃん」と赤い目をしながら言う。



「中学生卒業おめでとう。背中だけど触れたじゃん」

「はぁ? その話まだ続いていたのか」

「当たり前じゃん。ねえ、ルア君」

「うん?」

「ありがとう。わたしね、やっと君を……いや……ごめん。なんだか心が不安定なんだ」

「どういうこと?」

「ううん。とにかく、ルア君と一緒で一歩前進。一緒に未来を変えようぜ」



未来を……変える?

今、未来を変えようって言った?

もしかしてハルも……?



「どうしたの? わたし変なこと言った?」

「いや、未来がどうとか言ったから」

「だって、このままだとトップオブアイドルになれない可能性が高いじゃん。だからなんとか努力して頂点を目指したいなって」

「なんだ、そういう意味か」

「ほかにどういう意味があるのだね? 言ってみなさい」

「なんでもないよ。さあ、飯も食ったし、帰るとするか」

「え? 帰っちゃうの? これからが夜本番なのに?」

「なに? 夜なにかあるんだっけ?」



顎でくいっと隣の部屋を指したハルは、「夜って言えば分かるでしょ」と僕を見つめた。ヤバいって可愛い。可愛すぎる。その上目遣いやめてくれないかな。



「寝室。となりの部屋寝室。大事なことだからもう一回言うけど、となりの部屋——」

「ああああ、だからなに。ハルは寝る。ほら、もう寝ないと美容に大敵だから、ハルは寝る。そして僕は帰宅する。はい、さようなら」

「どうしても帰っちゃうの……? 仕方ないか……じゃあ明日は午前中に駅前のコンビニ前に集合で」

「は? 明日もなにかするの?」

「この部屋に足りない物を買うに決まっているじゃないか。ルア君も付き合ってね?」

「なんで僕が……」

「わたしが襲われて、肉食男子の餌食になってもいいんだ? いーんだ? ルア君はわたしが知らない誰かに拉致られて、ひどい目にあってもいーんだね?」

「あああ、もうッ! 分かった。付き合うから」

「じゃあ、明日もお昼と夜は奢る。」

「……夜も?」

「心底疲れたような顔しないで?」




こうしてなんとかハルの家を出て、自宅アパートに着いてゆっくり風呂でも入ろうと思った矢先、ハルから着信があった。



「ベランダに誰かいる、助けて」



さっきまでのからかうような声色とはまったく別物の、本当に恐怖しているような声音に僕は急いで上着を着てアパートを飛び出した。





シャワーを出るとベッドに腰掛けた葛根冬梨くずねとうりはとなりに座るようにあたしに促した。髪がまだ湿っていたけど、完全に乾かすまでには時間がかかる上に、どうせ終わったらもう一度シャワーを浴びるのだからこれでいい。



「今日は良い目をしているね。俺はそういう子が好きだ」

「そんな目しています?」

「自分では気づかないかもしれないけどね」



そう言って葛根冬梨はあたしの頬に触れ、顔を自分の方に向けさせてキスをした。なんであのときこの男に付いていってしまったのか。それは、幻想の域を出ない憧れと、お金が欲しかったという単純な動機だった。まさか尊敬している葛根先生がそんなことをするとは思っても見なかったのだ。



旅行に連れて行ってあげる。お小遣いをあげよう。好きなものを食べなさい。



それがなにを意味するのか、あのときのあたしには分からなかった。



次のイベントでは君を真ん中に推薦してあげる。俺の言うとおりにしていれば絶対にうまくなるから。



考えてもみれば葛根冬梨の口から出る言葉は甘く、とろけるように甘く誘惑に満ちた悪魔の囁きだった。そして、罠に陥れられたあたしを待っていたのは……。



「大丈夫。俺との関係は内緒にしておいてあげるよ。でも、まさかあのときの蒼空がはじめてだったなんて本当に知らなかったんだ。内緒にしておいてあげるから。定期的に会ってくれないか?」

「一度きりって約束だったじゃないですか……」

「あのときはね。でも、今日の蒼空の顔を見ていたら無性にしたくなったんだ。だって、そうだろう? そんなに切なそうな顔している子……心が折れそうな目をしている子を汚してみたくなってね」

「変態じゃないですか」

「男なんてみんなそうだと思うよ?」



みんなそうだというのなら、鏡見春亜かがみはるあもそうなのだろうか。物心ついたときから春亜とは仲が良かったけれど、彼はいつもまっすぐで優しくて。けれど、あたしが彼を好きな理由はそんな簡単なことではない。一言では言い表せないけれど、恋とはそういうものだと思っている。



「春亜は蒼空のことが好きなんじゃないのか? 蒼空もだろう?」

「……それは」

「しかしなぜ、二人が付き合わないのか理解できないんだよな」

「付き合ったほうがいいんですか? あたしはこう見えても一途ですよ? 葛根先生にこうやって触れられるのは本当に今日で最後ですからね?」

「……春亜はスパーブやめたし、俺は春亜のことを気遣う必要なんてないんだよな。だから、心遣いなんていらずに話せるし。たとえば、大人の恋バナとか」



予想通りだ。あたしが葛根冬梨の誘いを断ったら絶対にそうなると思ったから言うことを聞いて付いてきたのだ。春亜はあたしのせいでスタジオスパーブをやめてしまった。もし、春亜がスパーブに残っていたとすれば、やめてもらっては困るために春亜に真実をバラすことはないだろう、と考えていたのだが今は違う。やめた人間がどうなろうと葛根冬梨の知ったところではない。



もし、春亜があたしと葛根冬梨の関係を知ったらどう思うか。

幻滅する?

絶対に付き合えないと突き放されて、二度と会ってくれないかもしれない。それは……それは絶対に嫌だッ!



「…………」

「そうそう、そういう顔。いいね。やっぱり誰かに恋をしている子を汚すのはいいな。その顔を見ていると、はじめての夜を思い出すよ。あの頃の蒼空も本当に可愛かった。考えてもみれば、あの頃はすでに春亜のことが好きだったんだろう?」



葛根冬梨は再びキスをして肩に触れて、あたしを押し倒した。



クズだとは思っていたけど、ここまでだとは思わなかった。

なんであたしはこんな人に憧れていたのだろう。



葛根冬梨の顔が豹変し、涙の枯れたあたしは天井をずっと眺めていた。



葛根の吐息が耳に掛かるたびに心が削られていく感じがしたけど、そんなことはどうでもいい。今は、春亜があたしをなぜフッたのか、今ごろあの忌々しい女をイチャついているのかと思うと、胸が締まる思いがした。



はやく終わらないかな。






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