9.汝の未来に幸あれ



「使用人を雇おうと思う」


 朝。ロイクの言葉にその場にいたガーベラは安堵し、同じくその場に一緒にいたマーガレットは突然緊張の糸が切れるかのように倒れた。


 すぐに部屋へ運んだが、マーガレットの要望でロイクと二人きりになり、ロイクはその弱り切ったマーガレットの手を握っては彼女からの言葉を待った。

 よく光の射す部屋の窓際にはミルクが入っていた瓶に小さなマーガレットが一本生けており、その花もしおれていた。


「坊ちゃん。居場所をくれたこの家に仕えることが出来て幸せでした」

「……遺言を言うのはまだ早いだろう」

「これは遺言じゃないわ。伝えたかったから口にしたのよ」


 それはどちらも同じだろうに。だがこの場でそれを言うのは余計なので黙った。

 彼女が15歳の頃。旧メイラ帝国として国が統一する以前から雇われていたのだ。その長さは歴代の短命だったカレンデュラ一族よりも生きている年月は長い。

 幼い頃からマーガレットと呼び慕い、自分も『坊ちゃん』と幼い頃から呼ばれているが、ロイクは生まれた時からマーガレットがカレンデュラ家に仕える使用人ではなく、実の祖母のように思えて仕方なかった。

 なぜ本当の祖母じゃないのかと幼い頃父親であるゲリーに問うたことがあるが、「祖母だと思うならマーガレットも嬉しいだろうな」と返すだけだった。


「……でも不思議ね。私もお迎えが近いってなんとなく分かるのよ」

「洒落にもならないことを言うなよ、ばあさん」


 しおれた花ははらりと花弁を落とす。

 もう握っているその手を握り返すことが出来ることが出来ない。


「そんなお顔をしたら、子供達に顔向けできないわ」

「マーガレット」

「幸せになって。子供達だけじゃなくて、自分も幸せになる努力をしてくださいな。旦那様」


 マーガレットは笑顔でその目を閉じた。



―――



「会って数日の俺が言うのもどうかと思うけど、あの婆さん呆気なかったな」

「……そうっすね」


 礼装を持ち合わせていない二人は正装である軍服姿でその葬儀に参列した。

 ジルベールから休暇の許可は下りないだろうと言われたが、リナリアにも連絡した。

 リナリアからの返事はジルベールの言葉通り、旧カレンデュラ領に向かうことは不可能だということだった。


「でも良かったな。初めて見た死が老衰で」

「俺が初めて見た死は虐殺ですよ」

「……ああ、そうだったっけ。でもこの先俺たちはあんな穏やかな死を見ることは中々出来ないから幸運だな」


 ウォルはフィーを守るため。ジルベールは親が軍にいたからその後を追って軍に入った。

 二人にはこの腐りきった国へ忠誠心なんて持ち合わせていなかったが、国の在り方が変わったとはいえ、特にジルベールは血で血を洗う争いが消えた世界が想像ができずにいる。

 この国は何度も争ってきた。何度も革命が起きたけれど、その度に首は挿げ替えられただけで、何も変わっちゃいない。

 マーガレットは何度も七十年以上前の戦争について語り次いでいたが、その間もこの国は何度も国内外で戦争を起こした。おかげでこの国の平民の識字率は低い割に従軍率は高いのだけれど。


「嫌な世の中ですね」

「逃げるか?」

「逃げませんよ、今更」


 もう何年も前から死ぬ場所は決めているのだ。この世界から家族フィーが迫害されないため、彼女に向ける刃は自分が切り捨てる。

 その先彼女が別の誰かと共になることが分かっていても守ると決めた。

 ジルベールはその崇高な使命を持つウォルを見て何度も内心鼻で笑った。そんな人間は長生きしないとよく知っているから。

 だが二人のその関係を見るとその考えも悪くないのだろうなと思う。ジルベール自身、今のところ思い当たる人間は今も寮母として勤めている母親ヒヤシンスだが、あの性格だと長生きしそうな気がするので、自分の知らないところで楽しく生きてくれればそれでいいかと楽観視することにする。

 王都に帰ったら食事の誘いでもしてやろうかなんてことも考えた。


「俺も、誰かが老衰するところを見るのは初めてだ」

「そうですか」

「ああいう死に方が当たり前の世界になるもんかね」


 戦争の他にも事故や疫病も人種や魔法の差別もない平和な世界。

 幼い頃から軍内で生きて、父の背中を追ってきたジルベールも、幼少の頃閉塞された村で暮らしていたウォルですら想像できない。


「すくなくとも、国の武器庫軍人が統治している間は出来ないでしょう」

「それはちげえねえ」



―――



 納棺されているマーガレットの姿を見て、綺麗な死に顔というのはこんな顔なのだろうなと思う。

 化粧を施しているのもあってか色白さがなく、まるで今にも起きてくれるのではないかと錯覚する程だった。


「お葬式って初めて?」

「そう、ですね……こうしてちゃんと見送るのは初めてかもしれないです」


 明日埋葬される棺桶を前にしているフィーにロイクの母であるアイリスが横から囁くように声をかけてきた。

 以前、両親の遺体を村があった場所に埋めたことならあるが、あれは埋葬の儀式だけで、死者の魂を見送るなんてことはしなかった。


「それに人が多いですし」


 アイーシュ街の外れにある丘の上の教会は参列者が続々と彼女の死を悼んでいた。フィーが見知った人も多く、中には孤児院を卒業した者だったと今日初めて知った者もいた。


「マーガレットはこの街じゃあ有名だからね。カレンデュラ家の人でもここまで集まらないわ」

「……」


 それは領主を務めている家としてどうなのだろうか。返事が返せないままフィーは苦笑した。


「ロイクは今はそこまで思われていないけど、昔はあまり民に好かれてなかったのよ」

「それは……」


 一瞬、フィーが初めてロイクと街を出かけた日に見た視線が脳裏によぎった。

 すれ違いざまに寄せられた視線は珍しい種族だった自分だけではなく、そんな自分の手を引いていた当時領主だったロイクにも向けられていたのだろうか。


「所属を名乗らない民間の武装部隊や私兵を領内で滞在するのを許したの。結局その兵士たちは偽装した国軍だったんだけれど、その時丁度国から税率が引き上げられたもんだから民からも相当恨まれてね。

 中途半端な存在なのよカレンデュラ家私達って。貴族からも疎まれて、自分の民にも嫌われるんだから」


 学院で貴女は嫌と言うほど学んだでしょうけど。とアイリスは付け足す。

 名前に「フォン」が付くのはこの国が今のように統合する以前に存在したプルメリア帝国で、皇帝から貰う姓に冠する名前だったと学んだ。だからカレンデュラ家自体、規模は小さくともその歴史は長い。

 ロイクが学院で何があったのかは知らない。だが学院で聞く限りカレンデュラ家の評判はよろしくなかった。家の歴史が長い分、良くも悪くも有名だったのかも知れない。

 平民は貴族を敬い畏れる存在。平民は搾取される側で、何も生み出せない孤児は疎まれる存在。孤児を直接育てるなんて以ての外。そんな板挟みの状態でやってきたのだろう。


「だからそんなロイクが後継者リナリアを養子にして、それから貴女を見たら安心しちゃった」

「リナリアは兎も角なんで私なんですか?」

「あら、ロイクとは恋仲じゃないの?この前一緒にウイエヴィル行ってたじゃない」

「違います」

「頑固な子たちねぇ」


 アイリスのこういう一面はどこか同級生のコスモスを連想する。


「人は老いるとね、自分の経験に固執するようになるのよ。それが正しいって思ってるから。私も人のこと言えないのだけど」

「……」

「でも貴女は好き勝手っていう訳には行かないけど、もう少し図々しく行っても良いと思うわよ?どうせロイクはダリアのこと気にして前に進めないだけだろうし」


『ありがとう。彼女を愛してたことに気付けた』


 ロイクは五年前に妻を亡くしていた。まだその傷が癒えていないのだとしたら。自分は無意識に亡くした妻の代わりを見つけて欲しいとロイクに願っていたことに気付いた。


「ダリアさんって、どんな人でしたか」


 何回かロイクに聞いたことがあることを、幼い頃からダリアを見ていた育ての母に聞いてみる。

 ロイクの為にダリアの代わりになろうだなんて思わないけれど、ロイクが愛した人がどんな人なのか未だ想像ができなかった。


「そうね……病弱だったけど、その分他人をよく見てる子だった」

「……ロイクは強い人だって言ってました」

「私は強いって断言出来ないわ。ロイクの前で気丈に振舞ってたからそう見えたんでしょう」

「気丈に?」

「そ。婚約が決まってから特に。ロイクが一番自分を気に掛けてるって分かってたから余計な心配かけたくなかったのよ。

 だっていくらロイクが社交界から追放されたからって言ったって、平民が貴族の第一夫人……正妻になるなんて滅多にないもの。私もゲリーと結婚する前に一度貴族の養子になったくらいなんだから余計プレッシャーよ」


 確かに自分も学院に進学する時、自分の後ろ盾になってもらうためにターゲスの養子になった。ターゲスの本来の身分は知らないが将軍シュバリエで名前は通っているから自分は表向きは騎士の娘になるのだろう。

 爵位が撤廃された今関係ないことだが、現在において将軍が親であることは最高の後ろ盾だ。

 たとえ幼馴染みであったとしても身分差はある。それを無視してロイクはただの平民で孤児のダリアを選んだ。


「私もゲリーも、養子の話をしたのだけれど、「ダリアの親は貴方たちだけだ」と聞かなくってね」

「……それでも国は許してくれたんですか」

「えぇ。別に直接派閥とかに関わらなかったし。名前だけの家だって思われていたから」


 「他の家とつながりを持ちなくない気持ちは理解できなくもないけど」とアイリスは当時のことを思い出してはため息を吐いた。


「フィーもロイクの魔法知ってるでしょ?」

「え、魔法?」

「そう。家が意地でも隠したい魔法。ロイクはそれを伝えることが自分なりの誠意なんだと思ってる。それくらい愛しているのよ。私も知らないのにね」

「ロイクの魔法知らないんですか!?」


 首を傾げてさぁ?ととぼけたジェスチャーをする。


「私はロイクの母親なのにね。どうしてそこまで隠すのって思ったけど、ゲリーは「お前を命の危険に晒したくない」って。どこまで本気なのかしら。ロイクはダリアに話しちゃったのに」

「…………」


 カレンデュラ家の人間に遺伝する魔法。意地でも隠したい理由はそれが女神に関わるものだから。しかしそれをアイリスが知らないなんて思わなかった。

 ロイクはダリアに自分が【女神の夫】であるということは話しているというのは聞いているから、魔法も同様に話したのだろう。

 ロイクが【女神の夫】であることを話してくれるほど、自分の魔法を教えてくれるほど自分はロイクに信頼されているのだろうか。


 アイリスは「ま、お互い納得するよう務めればいいわ」とフィーの両肩をぽんと叩いたのだった。



―――



 マーガレット・スクオロル。享年90歳。

 15歳の時に使用人としてカレンデュラ家に仕え、最後までその命を全うした。

 マーガレットは実家と既に縁を切っているらしく、その名前を知っているのは現当主であるロイクと前当主のゲリーだけだった。

 マーガレットの葬儀はささやかに行われたが、その葬儀に参列する人間は多かった。それくらい彼女は孤児院だけでなく、その卒業した子供達やアイーシュ街の人間たちにとって大きな存在だった。


 葬儀が終わり夕方ごろ。ロイクは中庭ではなく孤児院の北側。建物を囲う防犯用のシールドの外側で、彼女の遺書通り、彼女の日記を燃やす準備を取り掛かる。

 その大量にあった日記達のうち一冊を取り出してぱらぱらとめくってみる。別に読むなとは言われていないし、読まれても彼女が自分を恨むことはないだろう。

 そして偶然見つけたページを読んでロイクは一瞬だけ目を見開いた。だがこれ以上はと日記を閉じ、何事もなかったかのようにその日記を薪と一緒に積んで火を付けた。

 じわじわとその炎は火種を中心に広がり、薪からぱちぱちと音と煙をあげてながら燃えていくのを眺めた。

 自分の心臓魔力核のある場所に手を当てる。今も自身の中にある小さなコップが自分の魔力を溜めていた。


「女神の呪いはここにまで……」


 マーガレットがカレンデュラ家にとってどういう立ち位置だったのか、今となってはどうでもいいことだ。立場がどうあれ彼女が行う仕事は変わらなかったし、自分達が彼女に向ける愛も変わらなかっただろう。

 日記に書かれた事実と自身の生まれもった魔力の少なさに女神の執着を感じ取った。


「ようやく彼女も役目を果たしたんだ。今頃、想い人に会っている頃じゃないか」


 後ろからゲリーが声をかけてくる。その想い人は以前から話していた戦死した婚約者だろうか。それとも孤児院に居た誰かのことだろうか。

 彼女も大事なことを一切話さない女だったらしいので、その真実は不明だけれど。


「だといいんだが」

「ところで、なぜ今のタイミングで使用人を?」


 ガーベラとマーガレットにあっさりとそう言ったらしい話。もう既に協会の求人にその募集を載せていることはゲリーも知っている。


「私は、女神の記憶を当代で終わらせるつもりだ。これはその準備の一環ですよ」

「……フィーのことか」

「はい」


 ロイクはその場にしゃがみ、今も燃える炎へ薪を追加した。何十年も書き続けた日記達は表紙ではなく、中身のページから先に燃えていく。日記を燃やす目的で焚き火をしていたが、これは彼女への送り火だ。


「フィア……フィラデルフィアには女神の記憶がある。と出会う前の、まだ女神と自覚する前からの記憶があるらしい。だが本人の魂は女神のとは別だ。自分は女神ではないと言っている」

「あの容姿だ。女神に近い存在である気はしていたが」

「父上ならすぐ気づくだろうな」


 あの赤毛。赤毛は伝承の通り女神の象徴だが、あの炎のように赤い髪を持つ人間はなかなかいない。

 ロイクも含め女神がアセビと呼んだ夫の話を一度も話したことは無いが、女神が教会が言い伝えている伝承の通り慈愛に満ちた女神ではないということは察していた。


 だが女神の肉体を魔力核に収めているフィーの存在が教会に知られてしまえば、カレンデュラ家もその存在が危うくなる。

 貴族制度が廃止された今、その家の存続の行方はその当主次第となってしまった。

 変わらず血を家名ごと遺そうとする者、財産を守ろうとする者、名前も血も関係なくただ先祖から受け継いだ伝統だけを遺そうとする者。

 初代がどんな想いで作ることを決めたのかその当時の時代背景も含めて分からないことばかりだが、きっと女神が望んだ世界を彼なりに解釈した結果なのかもしれない。

 だが今後カレンデュラ家は伝統だけを守るべきだとロイクは思う。女神が愛した【子供】達を優しい檻に閉じ込め、その歳が来るまで守り続ける。女神の夫の意志は受け継いでも、記憶までは要らない。

 リナリアにはこの家を継がなくてもいいと言ったが、自分の死後リナリアがこの孤児院を一人で守る可能性がある。一人の少女に負担はかけさせたくないが仕方あるまい。


「……お前は、その記憶を憎らしく思ったことはあるか」


 きっとこれまでの当主は女神を忘れることを考えたことは無かった。ロイク自身も消したいと思ったからの結果ではない。

 ただ、愛する女にかかったその枷を外したいがために考えた結果。


「いいや。俺にあるのは、隣にいた人間を愛することが出来なかった後悔だけだ」

「子供たちを愛していなければ、私はお前に家督は継がせなかったさ」

「……そうですか」


 ぱちぱちと燃えていた炎は白い灰を遺して消えてく。

 マーガレットの日記は全て燃え尽くした。



―――



 マーガレットの葬儀が終わり片付けなど諸々ひと段落したフィーは、数日滞在していた客間に置いていた荷物を仕舞いシャトーバニラ旧王都へ帰る準備をしていた。

 明日の朝にはアイーシュ街を立ち、旧カレンデュラ領を出る予定だ。長いことシャトーバニラを空けていたので、皆はどうしているだろうかと思考を巡らした。


『……私は何十年もこの家に仕えていたけれど、どうしても坊ちゃんのような人が必ず生まれるのよね。自分の家族への愛情が鈍い人。その人からの愛に気付かないのよ。気付いた時にはもう手遅れ』


 マーガレットが始めて孤児院に来た時、その当主は見た目こそ老人だったが、その子供はまだ10歳だった。聞けばその当主は23歳とまだ若い青年だったらしい。

 老いぼれてしまったのはその数日前に妻が戦争に巻き込まれて死んでしまい、自暴自棄になってその少ない魔力を振り絞ってたくさん魔法を使ったからだという。


 カレンデュラ家に伝わる魔法は時間を操るモノだ。きっとその魔法の使い過ぎの代償で急速に老いてしまったのだろうとフィーは察した。

 当時の当主が亡くなったため十歳で家督を継いだ少年。マーガレットはそのロイクの曾祖父に当たる人と支え合って生きてきた。五つ年が離れていたものの、その様は幼い主人と若い使用人ではなく、本当の姉弟のようだったのかもしれない。


『だからね、私は大好きな人と一緒に居られたことにただひたすら感謝することにしたのよ』

『たとえ出会った時の出来事が残酷だったとしても、二人に会えたことに感謝しているわ。それはどの子供たちも同じ』


 以前からいつものように語ってくれた話だった。会話が最期になると彼女はそう思っていたのだろうか。

 フィーとて身近にいた人がこの世から居なくなることが初めてではないが、あんな穏やかにこと切れるところを見るのは初めてだった。それはきっとウォルも同じであるはず。


『二人とリナリアはあの子が信頼できる【大人】の内にいるんだから、坊ちゃんのことをよろしくね』


 フィーとウォルはまだ14歳。国では大人同然に扱われるのが当たり前だが、やはり周囲の大人達が見れば子供だ。だがマーガレットから自分は大人だと言われた途端、少しだけ認められた気がした。

 「女神の肉体が封じられている少女」と「女神の夫の生まれ変わり」である以前に、孤児とその保護者。将軍の娘と地方の領主。その立ち位置はこの数年で逆転してしまったが自分は彼のことを支えることが出来るのだろうか。そもそも歳も違うのに。


 そう思考を巡らせていれば、突然コンコンと部屋をノックする音が扉の向こうから聞こえ、少しだけ肩がびくついた。


「フィア。俺だ。少し話をしてもいいか」


 フィーがドアを開ければいつものように仏頂面をしたロイクがこちらを見つめていた。



―――



「懐かしいね。こうして森の中歩くの」

「そうだな」


 孤児院の周囲を覆う森の中、昔特訓をした空き地までの道をロイクと歩いた。

 最近はあまり使われていないのか、若干足元がおぼつかないので時々ロイクに手を引かれながら歩く。

 手を繋ぐ度にフィーの手に熱が帯びて手汗が滲みそうになるが平然を装った。


「住み込みの使用人を雇うことにした。マーガレットも死んでからは更に孤児院は人手不足だからな」

「……良かった」

「なにが良かっただ」

「だってロイク、多分疲れてた」


 生まれつき体が丈夫な純血だとしても疲労は抱える。子供達もその辺は察していたはずだ。だから大人達が負担にならないよう、年長者は卒業後の資金集めのアルバイトもせず、この邸内の仕事や子供たちの世話をしていたし、そんな情報をどこで知ったのかこの街に住んでいる卒業した者達もボランティアと称して頻繁に手伝いをしに来ていたのだ。

 それに3年も顔を見てなかったということもあってか、彼のその疲労した顔は元から老け顔だったその顔を更に老化しているように見えた。


「こればかりは隠しようもないか」


 前髪をかき上げながら彼は苦笑した。そうこうしているうちに開けた場所にたどり着く。特訓していた空き地。元々は魔力の暴走が絶えなかったロイクの妻が魔力をコントロールできるようにする為に作られた場所。3年経ってもその場所は変わらなかった。

 ロイクは簡易的なベンチに座れば、フィーにその隣に座るようぽんぽんと叩く。フィーはそれを見て隣に座る。


「フィア、学院を卒業したら俺と結婚してくれないか」


 フィーの中で時間が止まる。一瞬ロイクが時間を止めたのかと思ったが、これはロイクの魔法によるものではない。


「それは、私が女神の」

「違う」


 「俺は女神の夫じゃない。前から言っているだろう」とフィーの言葉を否定した。

 その場で少し前かがみになって両手を組むと、ロイクは話を続けた。


「俺は元来ひねくれものでね。あまり他人を信用……いや気を許せない」

「学院に居た時のこと?」

「……所詮きっかけは同級生からの妬みだ。だがあれきり俺は腐った人間が嫌いになってな。俺が知る限り女神の夫は人好きだ。当時の俺はあれから自分の人格が歪んでいくのを感じたよ。

 だがダリアの言葉もあって俺はその記憶を棚上げすることにした。今も俺は人を信用できない。

 だからその分お前は人を信じてくれ。女神が最期に子供達を信じることが出来たようにお前は死ぬまで、人を信じてほしい」


 そうだ。ロイクはダリアに、己が【女神の夫】の魂を受け継いでいるということを伝えている。たとえそれが夫婦として愛せなくとも、彼女に対して自分ことは伝えていた。

 自覚出来なかった。言葉で伝えることが出来なかったとしても、ロイクはちゃんとダリアを愛していたのだ。それは今も同じで。


「……ダリアさんのは良いの?」

「ダリアを自分の中から捨てることはできない。それはお前に対して誠実ではないかもしれない」


『ありがとう。彼女を愛してたことに気付けた』


 ロイクが幸せになってほしい。その本心は変わらない。でもいつしか自分の中で、ロイクが愛せる誰かと添い遂げることができるようにと願っていた。女神と関係のない自分以外の誰かと。


「ダリアは俺の一部だった。彼女が居たから今の俺がいる。だがそれはダリアだけではなくお前も同じだよ」

「私も?」

「あぁ。アイビーではなく、フィア。お前だ」


 その言葉にフィーは目を伏せた。

 女神の肉体を封じた器だ。本当にそれは女神ではなく、自分自身なのだろうか。


「私は、ロイクが女神に縛られず生きて居て欲しかった」

「それは俺も同じだ。だから解放する方法をお前は探しているんだろう」

「私、また女神に体を乗っ取られるかもしれないよ?」


 炎に焼かれて一度は女神の記憶に引っ張られて暴走した。


『女神アイビー、静まれ』


 あの時確かにロイクは女神を名指しして暴走を止めたのだ。

 ただ翼を代償に女神を身の内に縛り付けただけに過ぎなかったのか、たまに自分の身の内にいる女神が「人間を殺せ」と訴える。

 だから何度も己が見た人間たちの営みを女神も見ていると信じながら女神を宥めた。

 それでも偶に自分が一体なのか分からなくなる。

 異端であることを理由に迫害されたアイビーか、異端でありながら周囲に愛され続けているフィラデルフィアか。


「あの時は、お前がまだ子供で影響されやすかったからそれに引っ張られたんだろう……だから、俺はお前に、いやお前の肉体にかけた呪いを解く。

 その状態で女神が暴走しないことを証明しろ」


 「俺は殺されても問題ないから」なんて嫌な冗談にフィーは苦笑する。

 それでもロイクが自分を信じてくれていることが嬉しかった。


「もし呪いが解けて私の意識が女神になったら?」

「それでもお前はフィラデルフィアだ。お前がどちらになっても俺は、お前を愛してる」

「……っ」


 呪術は自身の言霊と代償になるもので成り立つもの。自身の魔力を代償に使われるようになった魔術の先駆けにあたる術だ。

 自身の魔法や魔力関係なく使用できるが、効力はその術者の言霊の力や代償になるものに左右されやすい。もし誰かに『死ね』と言えば自身も死に至る。

 だがフィーの中にある女神を鎮めたのは、自分の翼を代償にした鎖。その鎖を解けば翼も元に戻る。


 フィーは無言で頷いた。

 ロイクはフィーの心臓がある場所に手をかざし、言霊に乗せて詠唱する。


「『我が想い、これ愛なりて憎しみにあらず

 先を信じよう、汝の思いを信じよう、

 汝の未来に幸あれ』」



―――



 目を開くと上も下もない真っ白な世界にポツンと、自分と同じ顔をした少女がいた。


「アイビー?」

「正確にはその残りカスよ。我が宿木」


 炎のように赤い髪と瞳。そしてシミ一つない白い肌。見た目は人族変わらないようだが、自分と同じ顔なのに美しく見えた。

 自分と違うのは種族と瞳の色と癖のついた髪の長さが自分は長くて相手は短いくらいである。


「もう人間は憎ない?」

「何言ってるの?憎いに決まってる」


 ずっと虐げられてきたんだから当たり前よ。と女神はその顔を顰める。


「でもアセビの魂に触れて、色々思い出したから整理は出来た」

「ロイクと私が結婚するの嫌じゃないの」

「わたしの記憶を見て聞くこと?」


 女神は呆れた顔を浮かべる。


「あの人の魂に未練が無いわけじゃない。でもそれはあなたよ」

「え?」


 意味が分からない言葉を聞き返そうとしたが、女神の体が光と共に消えていく。


「――時間切れね。じゃあ」

「待って!」


 せめて、ロイクの呪いを解く方法を聞きたかった。



―――



「――ん」

「起きたか?」


 目を開くとロイクの顔が目の前にあり、驚いて起き上がろうとしたがすぐに肩を抑えられて止められた。


「痛い」

「解いた途端倒れたんだ。しばらく安静にしろ」


 どうやら自分はロイクの膝枕を借りていたらしい。この距離は羞恥を感じて再度起き上がろうとしたが、肩を押さえつけられているせいで起き上がれない。文句を言おうと顔を見上げるが、彼は視線を前に戻していた。

 同じように自分も外の景色を見てみるが呪いを解いてから時間はそんなに経っていないらしい。

 少しだけこの場所に風が通ると二人の髪を揺らした。初夏の暑さを木陰が遮っている。そういえば今日から五月だった。


「女神と会ってきたよ」


 なにも分からなかったけど。と言えばロイクは「そうか」とその場で返した。


「女神も人間だった」

「それは夫が良く知っている」

「……ロイクは、私とで本当にいいの?」


 ダリアのことをまだ引きずっているのかもしれない。まだ整理が付いていないかもしれない。

 ロイクから慰めて欲しいと言われたら自分は厭わず抱きしめてしまうだろう。しかし自分は彼女の代わりにはなれない。


「まだ疑ってるのか」


 ロイクはフィーの右手を持ち上げるとその甲に唇が触れ、身体が強張る。

 離れた瞬間吐いた息から感じる熱が全身に回る。彼の伏せられた目が自分を見た時、いたたまれなくなってすぐに視線を逸らす。


「わ、私普通に男性を蹴り倒すよ?」

「そう鍛えさせたのは俺なんだが」

「この歳で子供いるんだよ?」


 フィーには元皇太子であるオーキッドとの間にできた子供が二人いる。

 フィーの胎の中で十月十日育まれて産んだのではなく、強制的に細胞を抜き取られ人工的に試験管でたった数時間のうちに生まれた子供だが、フィーは学院を卒業したら引き取ると約束していた。


「身寄りの無い子供を受け入れるのが俺の仕事だ。それにお前の子供であれば尚更愛せる自信しかない」

「学院、ちょっと留年しかけたんだけど……」

「……それはどうかと思うが、俺がお前を選ばない理由にはならないだろう」


 フィーは昨年度、進級に必要な単位を落としそうになった。女神とその夫が何度も繰り返した追想の記憶から解放されるためにフィーは呪術ばかり研究していたためだ。


「正直、お前に想いを明かすつもりはなかったさ。だが気が変わった」


 捕まれた右手は離すことなくそのままロイク右手の指と絡まる。


「いつかフィアが別の誰かと共に歩むことがあっても、お前の中には既に俺がいることは変わらないという確信はあった。

 その人生のどこかで俺のことを思い出し、今回の様に時々戻ってくれればそれでいいと思っていたんだ」


 フィーは今も尚ロイクに絡まる呪いからの解放をしようと躍起になっている。

 今回のようなマーガレットの容体が悪くなってその見舞い、葬式に参列するのは例外だろうが、フィーがロイクにかかっている呪術の研究の過程でフィーはロイクの元に帰る日が来ると確信していた。


「だが俺たちの人生は一回きりで終わる。俺はもう二度と後悔はしたくない。お前がどれだけ長い時間をかけてでもこの縛りを解くと決めていてもな」

「……え?」


 「学院を卒業しても、孤児院にずっと居なくてもいいの?」と呟くように言えば「さっきからそう言ってるつもりだが」と返される。

 ロイクとずっと一緒に居たいのはフィーの本心だ。その反面ロイクやその次の来世に縛られている魂の記憶から解放させたい。

 この孤児院にいる間、ロイクという呪われた魂を持っている本人がすぐそばにいるとはいえ、その呪いから解放する手掛かりは掴めないのは変わらないと思っていた。その思いをロイクが汲んでくれているのだろうか。


「俺もお前の中にあるのも含めてこの呪いは解きたい。

 養子にしたリナリアには今後負担がかかる機会が増えるだろうが、結婚したからと言って別にお前が孤児院ここで暮らそうなんて思わなくていい。俺とていい歳して若いお前を縛り付けるつもりはないよ。でも、俺とお前を繋げる証をくれ」


 その為にロイクはフィーに首輪婚姻を付けようとしている。既婚者が付ける夫の魔力が込められたチョーカーだ。

 貴族では家名の紋章が刻まれるが、家名とか独自の紋章がない者は夫の魔力が込められたチャームが飾られたモノを身に着ける。ガーベラもシードの魔力が込められたチャームが付いたチョーカーを首に付けていた。


「いつか私がロイクの呪いを解いても、ずっと一緒に居てくれる?」

「そう言ってる。アイビーのことを感情ごと忘れても、お前とは共にいることを誓おう」


 二人は少しだけ笑う。ここにいるのはただの人間。違うことは、魔法を作った夫婦の因縁に関わっているということだけ。


「ロイク」

「なんだ」

「愛してる」

「俺もだよ」



――――――

これで第三章の本編は終わりです。

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