16.告白と別れ


///


 身体は衰え、皮膚はしわしわになってしまった。何度も生まれ変わって会いに来てくれたけれど、一緒に同じ時を歩む感覚は初めてだ。

 貴方はまだわたしに生きて欲しいと思っているのでしょう。でももう決めたことである。人の生が星の瞬きにまで思うくらい長く生きたのだから後悔は無い。それにもう終わらせると決めた瞬間から、この最後の数十年がとても濃密で愛おしい時間に思えた。


「■■■」

「なんだい、■■■■」

「『死んだら、わたしのことは忘れて』」


 ベッドの上であなたは、はははと力なく笑う。老い耄れてしまってもあなたは相変わらずあなたのままだ。


「それは、出来ないよ」

「どうして?」


 わたしは目を見開いた。そして泣かないと決めたのに、涙がこぼれてくる。

 「だって、君が帰ってくる日までずっと待つから」なんて、あなたって本当に馬鹿な人ね。


///



 とても悲しい夢を見た。夢を見て現実でも涙を流したのは初めてだった。目が覚めても泣き続けるから周りの子達を困らせてしまうくらいには泣き続けた。


『お願い、髪を切って』


 その言葉の意味が分かった。

 己の身を削り、世界中の子供達の身体に自分の一部を分け与え制御してもそれでも世界中の戦は留まる所を知らない。

 それをずっと夫の魂を引き継いでいるロイクは、カレンデュラ家の人間は覚えていた。女神の神話を継承するために、女神の意志を継ぐためにずっと子供達を保護し続けていた。

 なのに女神は夫の魂に己との鎖を付けたまま、人間への愛憎を抱いたまま、己の命に終わりを告げた。


「……フィーなんで泣いているの?何が悲しかったの?」

「夢を見たの……」

「どんな夢なの?」


 これ以上は言えない。それにきっとリナリアは理解できないだろう。ようやくフィーはこの一連の夢、もとい神話の真相を理解することが出来た。


「……忘れちゃった」


 リナリアはフィーが嘘を吐いたことに気付いたのか顔をしかめた。

 きっとフィーがその記憶を持ってしまったのは女神の未練がフィーの身体に蓄積したからだろう。なぜ蓄積したのか理由は父親の魔力核を口にしたのが原因だと思う。その中にあった小さな女神の欠片が大きくなったからだろう。

 魔力核が一体どんな物なのか論理的に証明出来ていないのが現状だからフィーの憶測でしかない。


 そんなフィーの考えはいざ知らず、リナリアはフィーの様子を見て大袈裟に心配するのだから、結局その日やるべきだったことは全て中止になり、フィーは一日ベッドに拘束されてしまった。



///



『大変だ!子供達が森へいってしまった!』

『もう、心配しなくてもいいのよ■■■。わたしがちゃんと見てるから』


『またあの娘よ、あんな野良犬に懐かれて……』

『気味が悪いな。まさか動物の言葉が分かるんじゃねえだろうな』

『まさか!!』


『絹に綿に麻ね。羊からも毛を刈りましょう。布を作ってあげる』

『覚えるのが早いね■■■■!流石だよ』


『なんだコイツ!燃やしても火傷ひとつしなけりゃ、切り刻んでも直ぐに身体が元に戻る!全く死にやしねえ!』

『しかも全く老いもしないじゃないか』

『こんなの人間ではないわ!』


『木を燃やせばいいんじゃないの?』

『こうすると木を必要以上に伐採する必要が無くなるんだ。炭っていうんだよ。作ってみるかい?』

『嫌よ。炎は嫌い』


『この子に名前を付けるの?』

『そうだよ……僕らの思いを込めるんだ。健康に育って欲しい、そういう大人になって欲しいとかね。■■■■はそういう望みはあるの?』

『……未来に、希望のある子になって欲しい』


『あの家だ。おっかねえ化け物を生み出す魔女の家ってのは』

『そうよ!この村を脅かす化け物め!!この前だって村の男を誑かして』

『あの男だ!あの男を誑かしたんだ!!』

『火を放て!!』

 ……

 …


///



「『…………私が何をしたというの』」


 ロイクは談話室のソファで眠るフィラデルフィアを見つめる。すうすう眠っているのに、突然ハッキリとした声で寝言を言うものだからぎょっとしてしまう。

 特段魘されている訳でも無いので、きっと鍛錬で疲れているのだろう。そっとしておこうとフィアにブランケットをかける。


「……ん」

「起こしてしまったか」


 寝起きで意識が朧気なフィアは怠そうに起き上がり、その目はロイクを捉える。

 フィアは両手を上げてロイクの首に手を伸ばしたので、ロイクは片手で小さな手を受止めた。

 彼女は唇を動かし何かを呟いた。


「―――」

「フィア?」

「……ロイ、ク」

「目が覚めたか」


 手を離すと今度は両手を上げて抱っこをせがむ。

 フィアの甘える姿に彼女はまだ子供だなとロイクは頬を緩めた。


「年下達に面目が立たないぞ?」

「……いいの」


 十歳にしてはやや背の高い身体を抱えるとフィアは両腕を首にまわした。

 彼女の身体はこの一年で大人に成長しつつある。

 もうあと数年後まで成長すれば、女神と瓜二つになるのかと思うとロイクは複雑な心境だ。


「部屋まで運んでやろうか?」


 フィアは首を横に振る。彼女が見る夢は一体どんな夢なのだろうか。



―――



 今も尚フィーは繰り返し同じ夢を見る。人間たちに陵辱された日々と、沢山の子供を育みながら夫と過ごした日々を。

 女神は人間たちを愛し愛されていたのに、良いように利用された挙句裏切られ殺し殺された。それを上辺だけ理解した上で、女神の夫は女神に殺されるのを良しとした。

 一番の悪夢は愛する人を殺し、後悔に苛まれる夢だ。

 頭がおかしくなりそうだからウォルファングにその感情をぶちまけて、時にはストレス発散と称してウォルに体当たりをした。

 だが今【女神の夫】と顔が全く同じであるロイクに対して、今背中に貼ってある魔法封じの魔術を剥がして今ある魔力を全て使う程の魔法をぶっぱなしたくなるくらいに殺意が湧き出る。


『忌々しい人間が……!』

「――っ」


 手を伸ばした身体が思わず怯む。だがその隙にロイクに倒され、今回も負けてしまった。


「フィア、最近威勢がないな。どうした」

「……なんでもない」


 いつも通りロイクに勝てなかったフィーは、彼に手を差し伸べられるものの、受け取らず自分で立ち上がった。

 疲労のせいか殺意は消えている。だがフィーの心の中で「今日も殺せなかった」という悔しさが浮かぶ度に自己嫌悪に陥る。


「フィア」

「……ロイク強すぎ」

「手加減したら意味が無いだろう」

「そういう意味じゃない」

「ならどういう意味だ」

「ロイク嫌い!!」

「おいフィア!」


 彼女はスタスタと歩いて行ってしまった。

 ルークとリナリアは森の中へ歩く彼女の後を追いかけたが、その様子にロイクは見ているだけでため息をする。終始見ていたガーベラから不器用にも程があると叱咤された。


「フィー!」

「おい、父さんにその態度はなんだ」


 ルークはフィーの肩を掴む。

 突然彼女が不機嫌になるのは珍しくない。だが今日のフィラデルフィアはおかしい。

 振り返ったフィーは少しでも瞬きをした途端零れそうなくらい目に涙が溜まっていた。


「フィー……?」

「……ロイクと試合したくない」


 二人は呆然した。既に課題を課せられて三ヶ月。確かにフィーは惨敗している。

 なんと声をかければいいのか分からず、戸惑う二人に大きな手が乗せられた。


「少し話をするか」


 ロイクが「二人は帰りなさい」とリナリアとルークに伝え、フィーの手を引いて歩いて行ってしまった。


「……なんで」

「リナリア?」

「……なんで私は置いてけぼりなの」


 リナリアの様子にルークはぎょっとする。リナリアが嫉妬する様を見るのは初めてだった。



―――



「落ち着いたか?」

「……」


 孤児院からそう離れていない森の中。

 ロイクはフィーの手を離すとその辺の木の下に座っては両足を組む。そしてフィーに向かって手招きをした。

 フィーはそれにおどおどしながらもロイクの膝の上に座れば腕を彼女の前に置いて抱き締めるような体勢になる。


「少なくとも、俺の身体はお前より弱くないよ」

「…………」


 でもフィーのこんな小さな身体でも、図体の大きいロイクを殺す事は出来ることをフィーは暴れたあの日身を持って知った。


「でも、私はロイクを殺すことが出来るのを知ってる」

「そうだな。だが俺を殺したいとは思えない」

「……うん」


 正直憎悪はあるけれど、恨んでいるかと言うと違う。

 これは自分の感情ではなく女神の感情だ。だが嘘を吐くようで少々罪悪感がある。


「俺はまだお前が勝てるかと言われると、それはまだまだ先のことだと思っている」

「……」

「だが今のお前には素手で人を殺せる術を持っている。確かにそれは恐ろしいことだろうな」


 ロイクは左腕でフィーの身体を固定すると、右手の人差し指でフィーの首元を突き立てた。フィーは思わず身体が強張る。ロイクが「怖いか?」と問えばフィーは首を横に振る。

 フィーはロイクに対して怖がっているわけではないので。


「確かに俺もこの場でお前を殺すことができる。だが俺はお前を今もこの先も殺さないし、殺せない。それはお前を家族として愛しているからだ」


 ロイクは人差し指を首から離し、その手でフィーの頭を撫でた。ロイクから頭を撫でられるのは嫌いではないが、その度にロイクにとって自分は守るべき子供の一人なんだと思い知る。


「…………」

「不満か?」

「不満……じゃ、ない」

「それなら僥倖。確かに殺せることを恐れることは良いことだ。だがそれ以上に俺のことを愛してくれないか」

「……ロイクのことは大好きだよ」


 フィーもロイクのことを愛している。だがそれは家族としてではない。自分はロイクに恋をしている。きっとそれをロイクは気付いていない。

 この言葉の本心をロイクはきっと理解してくれない。


「それでも、俺は一生女神を愛することはやめられないのだろうな」

「どうして?」


 フィーは女神の記憶をさかのぼった。確かに女神は夫の魂に自分との思い出を忘れさせない呪いをかけた。


「俺の先祖も皆、女神のことを愛していた。中には複数の妻を娶った代もいたが、それでも一番愛しているのは女神ただ一人だけだ。だから俺は呪いと呼んでいる」


 そんなつもりはなかった。とフィーは口に出しそうになった。

 カレンデュラ家は女神の意志を尊重してずっと子供達を育てていた。この国が出来るよりも前から長いこと孤児院を経営していたのは、女神への想いに縛られていたから。


「俺は長いこと女神の帰還を待った。その所為で子供たちも、死んだ妻にさえも心から愛していたことに気付けなかった」


 フィーは後ろに手を伸ばし、ロイクの頬を撫ぜた。

 なんてひどい鎖なのだろう。永遠に女神はこの地に帰ってくることはないのに、女神はその呪いを解くことなく子供たちの中に眠っている。自分の中にも、もちろんロイクの中にも。

 フィーの記憶には女神は呪いを解こうとしていた。だがそれはできないまま死んでいってしまった。


「分かってるよ。ロイクが私たちのことが大好きってこと」

「………ありがとう」


 二人の想いは重ならない。



―――



 フィーはそれからというものロイクの動きをくまなく観察した。

 ロイク自身身体能力は高いがそこまで技術があるかと言えばそうではないらしい。毎日訓練で鍛えている軍人の方が強いとロイクは言っていた。

 もしかしたら今軍で訓練を重ねているウォルファングがロイクを上回るかもしれない。

 ルークとリナリアからのサポートは今もあるものの、もうこれ以上アドバイスをすることは無くなっていた。


 フィーは魔術学院に進んだ後のことを考える。

 ロイクに女神のことを忘れて欲しい。もう囚われなくてもいいと、ロイクもその後の代も、【女神の夫】という鎖に縛られることなく生きて欲しいと思った。

 魂の記憶を消すことはとても難しい。もしかしたらロイクの中にある記憶を消すことはできなくとも、女神への愛を取り消すことは出来るかもしれない。

 だがどの魔術書を読んでも愛を消す方法なんて無く、あっても短時間程度の催眠術くらいしかない。

 それほどまでに女神の力は強力だったに違いない。


「……っ!」


 ロイクは脚技を決めることが多い。フィーはそれを考え敢えて下へ這うようにする。そしてロイクの脚の間をかいくぐり、ロイクが下へとかがんだ瞬間素早くジャンプをし、ロイクの背中に脚技を決める。


「うわぁ!?」

「お見通しだ」


 後ろ手でフィーの脚は捕まれてしまい、ビタンと地面に転がされる。

 フィーはすぐさま起き上がりロイクに対して構えをとると、すぐにロイクに対して手を突き出す。ロイクは難なく避けるが、それがフェイクだと気づいたのはロイクがフィーの蹴りを受けてからだった。


「…………」


 フィーは馬乗りになりロイクが起き上がれないよう肩に手を乗せている。ガーベラが慌ててフィーの勝利と宣言した。

 課題を渡されてから四か月。ようやくフィラデルフィアは魔術学院の入学が許可されたのだった。



―――



「俺、軍に行ったよ。父さん」


 村の名前と焼かれた日付しか書かれていない大きな墓標の前にウォルは立っていた。

 ウォルは廃村になった自分の故郷にいる。

 訓練兵の期間も終えようやく数日の休みを貰えたウォルファングは外出届けを提出し、三日かけて自分の生まれた村に足を運んでいたのだ。



 軍に入ってからすぐに始まったのは、新人たちの根性を叩き上げるためのブートキャンプだった。


 何百回にも及ぶ筋トレに瞬発力を上げる訓練、時間や方角などの読み方や覚え方などの座学を行った。

 どれもある程度こなすことはできたのだが同期達との手合わせや魔法を使用した訓練は絶望的だった。

 まだ十歳で、周りとの体格差が大きく開いているため試合が開始した途端すぐに叩きのめされた。


 教官からは自分は狼だし純度の高い純血ならば成長期が来ればすぐに大きくなると励ましてくれた。訓練の厳しさは変わらなかったが。

 魔法については純血主義の貴族並みに魔族の血の純度が高いウォルは、一回の魔法でバケツ分の水を出すくらいがやっとであり、同期達からは役に立たない犬と呼ばれたがそんなことはどうでもよかった。

 だが犬に転じてドッグウッド。つまり花水木ハナミズキと呼ばれた時は噛み付いてやった。


 厳しい訓練に耐える度にあの日の思い出が脳裏をよぎった。

 村に重税を課した貴族も憎い。村に火を放った皇族の関係者も憎い。そして何より火事を称してフィラデルフィアを連れ去ろうとしたことが何より憎かった。フィーの母親こそ守れなかったものの、ロイクのおかげでどうにかフィーだけ助けてもらえたのは幸運だった。


 だが孤児院ここで守るにも限界だと悟ったのは、フィーが暴走した時だった。

 その時もロイクがフィーを止めてくれたが、その後ロイクから告げられた内容が絶望的だった。


『フィアの翼を代償に呪術で暴走を止めた。だがまた彼女は暴走するやもしれん。フィアの身体は魔力も体力も強い。その時は俺も彼女を抑えられるか分からん』


 竜族が一体普通の魔族とどんな違いがあるのか分からない。そして彼女が見たという悪夢の内容。

 彼女は人間が憎いと言っていたが、彼女が一番恐れていたのはロイクを自分の手で殺してしまうことだった。

 ロイクとフィーに一体何があったのか分からない。ただ自分は彼女を守ることに徹すると決めた。これはウォルファングの父親との約束であり、望みでもあった。

 そのためには鍛え、軍でそれなりの地位に上り詰めなければいけない。のんびりしている暇はないのだ。例え彼女が自分より弱いと下に見られたままであってもいい。自分に振り向くことが一生無くてもいい。彼女との平穏な日々を過ごすために、自分は今すべきことをする。


「今日は報告だけ。今度は酒が飲めるようになったらここに来るよ」


 父との約束通り、自分はフィラデルフィアを守って見せる。



―――



「まさかアタシが出来なかったことを成し遂げちゃうとは……」

「そうだな」


 ガーベラが淹れた茶をロイクは啜ったが冷ましきれず舌を火傷した。

 じっと寄越した張本人を見たがそっぽを向いて知らないふりをされる。

 王都で学んだはずの茶の淹れ方はどうやら在学中も赤点だったようで、今でもそれは相変わらずである。ターゲスが来た時に逃げていたのはその所為か。


「ね、熱湯の方がうまくなるんだよ。相変わらず猫舌だな」

「分かっているならせめて冷ましてからよこせ。味からして、まさか魔法使って茶葉ごと湯を沸かしているんじゃないだろうな」


 あははとガーベラは苦笑する。図星か。ガーベラは魔法に頼りすぎている所があるが、魔法の操作は繊細ではない。それはそれで考え物だなとロイクは思う。

 ロイクは持っていたカップをテーブルに置き、カーテンの隙間から中庭の方を眺めた。

 そこには先ほどロイクを負かしたフィーとルーク、リナリアがいる。あの様子では他の子供たちに自慢しているのだろう。


「……フィー、本当に行くのかな」

「行ってもいいように鍛えたから問題ないだろう」


 確かに純血であるロイクに勝てるくらいに強くなれば、この先あの小娘が男から身を守れるようになる。


「でも手加減してたんじゃないの?」

「さて、願書を送らないとな」

「あ、はぐらかしやがった!」

「これを」


 ガーベラの前にすっと一枚の紙を見せた。ウォルファングからの手紙だ。

 ガーベラ宛にもメッセージがあると言えば彼女は嬉々として受け取りエプロンのポケットに仕舞った。後ほど読むのだろう。


「後でフィアにも伝えるが、身元保証人はターゲスに頼んである。既に了承は得た」

「将軍の養子!?マジで?」


 この孤児院ここでも、孤児が誰かの養子になることはよくあることである。

 その際カレンデュラ家は厳正な審査を設けているが、ロイク自ら養子に出来ないかと打診するのは初めてだった。


「大マジだ。それに手紙にも書いてあるが、ウルもターゲスの養子になったらしい。あとは彼女次第だ」


 フィーの養子はロイクから申し出た事だが、ウォルに関してはあの天涯孤独のターゲスが自ら養子をとるとは思わなかった。

 ウォルファングの手紙には自分の配属先の上司に対する愚痴と、フィラデルフィアのことを案じる内容が書かれていた。ターゲスともよくやっているらしい。


(『アリックス・ロータス』……ロータス家ね)


 さて手紙に書かれているような若い白兎があのロータス家に、しかも軍にいただろうか。ロータス家自体紛争に巻き込まれる形で既に政治の表舞台から消えていたはずだが、なんて考えながら紐づいて思い出した自分の苦い思い出を熱い紅茶ごと飲み込んだ。

 空けたティーカップを口から放し、ガーベラがそれを受け取ればすぐに新しい茶を注いだ。


「さて、支度でもしますか」

「そんなもの本人にやらせておけ」

「何言ってんだ!女の子は必要な物が多いんだよ。それを今のうちに教えておかないと。……あの子身の回りのことはリナリアに任せっぱなしだし」


 大変だなとロイクは素っ気なく返事をした。リナリアのフィーに対する甲斐性は知っていたが、ガーベラが懸念する程なら今のうちにリナリアへ釘を刺しておいた方がいいのかもしれない。

 ガーベラが部屋を出ていくのを見送ると、ロイクは願書の提出をするため、あらかじめ用意していた手紙を魔術で転送したのだった。



―――



 リナリアは風呂上りのフィーの髪を梳き、風の魔術が施されたタオルを用いて髪を乾かす。魔力の量によって風が吹き込み乾かしやすくなるのだ。

 たまに魔力の加減を間違えるとタオルが飛んで行ってしまうのだが。

 リナリアはこの時間が一番の楽しみである。こうしていれば彼女に触れることができるからだ。


「フィーの髪、伸びてきたね」

「そうかな」


 あの暴走した日に燃やされてから、前髪以外一度も切って無いその赤毛は肩の下辺りまでに達していた。

 リナリアはフィーの髪を乾かし終えるとブラシでゆっくりと梳くが、その手は止まった。


「……試験、受けるの?」

「受けるよ」

「十三歳じゃあダメなの?」


 秋の試験まで残りわずか。その試験が終われば入学手続きを経て入学が決まるのだが、ロイク曰く「お前が入学する場合、年齢もあることから小等部からの編入という形になる」ということなので、フィーが受けるのは入学試験ではなく編入試験らしい。

 振り返るとリナリアは今にも泣きそうな顔でこちらを見ている。


「やっぱり私は寂しいわ!フィーはなんで出ていかなきゃいけないの!?ここに居た方がみんな幸せよ!誰かがフィーのことを嫌っていても私が守れるわ!フィーが父さんより強くても私が魔法で守れるわ!」


 大人しいリナリアが駄々をこねるのは初めて見た。

 フィーはリナリアをぎゅっと抱き締めた。黒髪を撫でる。


「それはできない。私はやりたいことを見つけたの」


 それでもリナリアはぐりぐりとフィーの腕の中で首を振る。

 今まで大人ぶっていたリナリアが年相応の女の子になっている。ドアの隙間から覗き見る子供達がいたのでフィーは視線で助けを求めたが逃げられてしまった。


「ここでやりたいことすればいいじゃない!」


 できないから学院に進むのだけど。と内心突っ込みを入れるがそれを言って聞かせても聞かないかもしれない。


「また会えるよ。休みの日にはここに帰って来れるようにするから……」


 フィーは初めて優しい嘘を吐いた。



―――



「久しぶりに採寸したけど、若干大きくなってるね」

「そうかな?ロイクの背を抜かせる?」

「それは難しいな〜」


 子供の成長は著しい。フィーも孤児院に入ってから背丈が十五センチも伸びた。だがガーベラの見立てではフィーはあと三年くらいでこの成長も止まるだろう。

 ガーベラは昔にも同じやり取りをしたことを思い出して目を細める。


「どうしたの?」

「ちょっと昔を思い出してね」


 ガーベラはフィーの頭を撫でぎゅっと抱き締めた。その手はいつも暖かいのに今は冷たくて、少し怯えているようにも思える。


「姐さん?」

孤児院ここを出ても、ご飯もちゃんと食べて、しっかり休む時には休んでね。遊んでもいいけど、お酒は二十歳になるまで飲んじゃダメ。フィーは可愛い自慢の妹なんだから。ウォルには言えなかったから、王都で会えたらちゃんと見てあげてね」

「……うん」


 フィーの顔を見れば、ぽかんとした顔でこちらを見ていた。自分の言ったこと分かってくれたのだろうか。王都でもウォルにべったりにならないだろうか。

 親の心子知らずというのはこう言うことなのだろう。ガーベラは自分に呆れながらも愛おしくフィーの頭を撫でる。


『生きて。生きて……自分の【核】を守りなさい』


 フィーの顔につうと一筋涙が流れた。


「ど、どうした!?なにか良くないものでも」

「……姐さんが、お母さんに見えるから、お母さんのこと思い出して……ごめんなさい……どうしよ。涙が止まんない」


 ガーベラはそんなフィーの感情に破顔する。涙を流す彼女をまた抱きしめては仕方ない子ねと背中を撫でた。


「出立おめでとう。元気でね。フィラデルフィア」



―――



 フィーがロイクに勝ってから一ヶ月後。試験は無事合格した。

 その後は入学手続きの為に必要な書類にたくさん自分の名前を書いた。

 その際真っ先にターゲスとの養子縁組に関する申請書を渡されたことにフィーは驚き、それをロイクに問い詰めたが、その様子を見ていたマーガレットから「何も聞かされなかったの?」と問われたので頷けば、ロイクはガーベラから制裁を受けた。

 こうしてフィーはめでたく(?)フィラデルフィア・ヴィスコになったのだった。


 出立前夜。書斎にまで足を運ぶと、ロイクは蝋燭の明かりを頼りに書類に目を通していた。


「どうした?もう寝る時間だろう」


 姿こそ寝巻であるが、彼女の腕にはなぜか魔族であることを隠す魔術がかけられたリボンを手首に巻き付けている。

 リボンなので基本的には髪飾りとして使用するはずだが、角を隠した彼女の姿はかの女神によく似ていた。


「『アセビ』、髪を切ってほしい」


 一瞬彼女の両目が赤くなる。そして重なる面影にロイクは立ち上がる。


「…………『アイビー』」


 一生その名前を呼ぶことが叶わないと思っていた。


「……お前は、アイビーなのか?」

「違うよ」


 女神の記憶があるだけ。そう言ってリボンを外そうとしたがそれは出来なかった。

 ロイクがすぐに彼女のことを抱きしめてきたから。


「……ずっと、そうなのではないかと俺は……ずっと……」


 「気付いてやれずすまない」とフィーの幼体を抱きしめるロイクのそれは夢に見ていた【女神の夫】そのものだ。思わず女神の感情に心が呑み込まれそうになる。

 ずっと会いたかった。待たせてごめんなさい。愛してる。憎い。殺したい。殺したくない。お願いだから離れて。

 感情が入り交じる中フィーは顔を歪ませながらも、ロイクから離れた。


「それは違うよ……私はフィラデルフィア。アイビーの記憶はあるけど、人間を憎みながら愛した女神じゃない。私には人を憎んでも、全ての人間を愛することなんてできない」


 いつからこんなに饒舌になったのだろう。自分はまだ十歳の子供なのに知らない間に自分の心は年齢にそぐわない性格になってしまった。

 何かを察したロイクはどこか落胆したような、気が抜けたような表情をしたものの納得したらしく腕を離した。


「そうか……」

「ごめんなさい。伝える方法がこれしか思いつかなくて」

「わかってるよ。フィア」


 ロイクはフィーの腕にあるリボンを解き、元の竜族の姿に戻ったフィーの頬を撫でた。それにフィーは緊張していた心もほぐれた。


 女神の名前はアイビー。その夫はアセビ。似た名前だが名前の元になった植物の名前は全く違う。

 アイビーの花言葉の通り、【死んでも離れない】なんて女神の夫に対する執着は凄いものだった。巻き込まれたこちらの身にもなって欲しい。


「……私が女神の記憶を思い出したのはここに来てから。ずっと魘されてたのは、あなたに出会う前の記憶が残酷だったからだよ」

「……俺ではない。アセビだ」

「……?」

亡き妻ダリアに否定されたんだよ。貴方は女神の夫としての記憶があるだけだと。確かに、俺が女神を見つけた所で孤児院ここを放ったらかしにする訳にもいかないからな」

「それもそうだね」


 ふふと2人は笑った。



―――



 燃えるような紅い髪に大きな琥珀色の瞳。目の前の少女はかの女神と顔立ちがよく似ている。だが本人の言う通り彼女は女神ではない。

 それでも正体不明の魔術師に炎で焙られて暴走した時の言動からもしかしたらと疑ったこともあった。

 だからフィアに自分の妻のことを話した時、彼女に心からの感謝を告げるだけではなく、その時の彼女の反応を見て探っていたのだ。

 その時の何か自分の中から込みあがる感情を抑え込む姿に、彼女は自分を好いていることを知り話したことを後悔をした。


「私はその呪いを解くよ。ロイクはロイクとして、私は私としていられるように」


 彼女はともかく自分の魂にかかっている呪いなぞどうでもいいのに。どうしてお前は自分以外の誰かの為に動こうとするのか。


「……かの女神との記憶を忘れるということか。そんなことをすれば」


 フィアは首を横に振る。自分に植え付けられた記憶はきっと忘れてはいけない。女神が人間を憎くも愛した理由がそこにあるのだ。

 カレンデュラ家が孤児を育てる使命を持ったのはこの記憶があったからだ。孤児院ここで彼女の帰りを待つ。待ったおかげで女神本人ではなくとも女神の記憶を持ったフィアに出会うことができた。


「私の中にいる女神に安心して眠って欲しいの。大丈夫だよ、もう安心していいよって。ロイクも、もう女神を待たなくてもいいの。女神はこの中にいるもの。だけど……」


 フィアはそっとロイクの胸に手を当てた。とくとくと脈が打つ自分の心臓は純血であるが故に、女神が魔法を与える前の体に近いために魔力の器がとても小さい魔力核。

 女神の肉体と結びつけられた時間の概念そのもの。


「呪いが残ったままなら、ロイクが死んだら女神も死んじゃうってことでしょう?」

「……!」

 

 フィアは自分の胸に手を当てる。女神の一部である魔力核。女神が与えた力であり、女神の一部が眠っている心臓。

 今自分が死んだらどうなるのだろう。彼女が言った通り女神が死んでしまうのなら、この世界の魔法は失われてしまうか、最悪人類が滅亡するのではないだろうか。

 それに本人は言わないが、きっと彼女は今も人間に対する憎しみに耐えている。


「そんな鎖はもう必要ない。女神が魔法をくれただけで世界はとても豊かになった。ロイクが教えてくれたことだよ。それだけで充分。後は私たち子供が争いの起きない世界を作る」

「お前の呪いを解くならまだしも俺のまで解く必要はない!」


 ロイクは顔を歪ませる。そんな使命、こんな小さい女の子が背負っていいことじゃない。なぜ一年前までは字も書けなかったはずなのに、こんなにも達観した性格になってしてしまったのか。それは彼女に何百年もの長い記憶が刷り込まれていたからだったのだろう。ますます彼女は女神に近付いている。


『お前が知りもしない悪夢を見て、どれくらい辛い気持ちなのか俺には分からないし、思い出したくないなら言わなくてもいい。それはお前個人の自由だ』


 彼女の気に障ることはしまいと言い訳をして放置していた自分の所為だ。

 もっと年相応にわがままになってもいい。こんな苦痛を味わうのは大人になってからでもいい。そして寄り添える相手を見つけて、醜い争いと無縁な生活を一生過ごしてほしい。きっとそれは彼女の弟ウォルファングも願っていることで。


「でも、ロイクは次のお嫁さんを選ぶ気はないんでしょう?」

「そんな者、適当な人間と契れば」

「ダメだよ」


 「ダメだよ」とフィアは諭すように繰り返す。その懇願の目を見て、あぁ彼女も自分の幸せを願っているのかと悟った。

 自分を愛してくれているなら当たり前のこと。かつて自分がダリアの幸せを願ったように、自分も子供達や目の前に居る彼女の幸せを願うくらいには孤児院にいる家族たちを愛しているから。


「ならば待とう」

「……え?」


 彼女のその思いを受けてやろう。彼女が自分たちの鎖を解く日が来るまで。これまで長いこと待たされたのだ。待つのは慣れている。


「いつでも孤児院ここに帰ってきていい。だが、もしその呪いが解けたなら、今度は俺の元に来てくれるか?」

「ロイク?」


 そこで俺から彼女に想いを告げよう。

 フィアの指先に唇を落とす。


「愛してるよ。フィラデルフィア」


 いつかその嘘が本当になりますように。自分の初恋だった乙女の写し影へ。

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