11.灰色の雲は空を羨む
リナリアのお買い物回
――――――
我らが母の元に力をお借りする。
魔術は女神から授かったものの副産物として浸透したという解釈がある。
万物の魔法全て我が物にした女神のように己の魔力をリソースにして自身の属性を捻じ曲げる形で生み出すそれは想像力が不可欠。なので一節目の詠唱は自分の想像力に合った言葉でなければならない。
つまり詠唱は想像しやすくするものであるため、詠唱自体理論上必要ない。だが詠唱なしで魔術を扱えるものはこの国でも五本指にも満たない限られた人間しかいない。
「いつもの詠唱で魔術が使えない?」
「上手くいかないの」
今も尚ロイクに教えを乞うフィラデルフィアは魔術学院に向かうために勉強中である。
昨年まで全く読み書きができなかったのに、幼少期の物事の吸収力はすさまじいいもので、十歳のフィラデルフィアはもう既にロイクが教えた魔術の基礎を自身の体に叩き込んでいた。
『学院に行って、ロイクから離れろ……俺は、強くなって、お前を迎えに行くから』
その言葉を信じ、彼女はウォルが軍に行くことを飲み込んだ。
ウォルが軍に行くのは春風が吹く四月。彼は更に鍛錬に力を注ぐようになり、成長期が迎えつつあるのか普段そこそこ多い食事量も一層増えた。
ロイクの旧友であるターゲスは十歳で従軍したがるウォルに感銘を受けたのか四月に迎え入れる準備を進めているとか。
「お前の今の魔術の使うイメージはどうなっている」
「……分かんない」
「あまり煮詰めるな。直感で動けるのがお前のいい所なんだから」
「うん……」
今はただ全て自分の思う通りに上手くいかない自分が悲しい。
そして慰めるように頭を撫でるロイクの手が、心地よく感じるのに自分の胸は苦しかった。
「……フィア。魔法にはいくつかの思想があるというのは教えたな」
「うん」
「その中に【比和】というものがある」
「良いことが起きればますます良くなって、悪いとますます悪くなる?」
その理論は術者や環境の影響で限度もあるので『ある一定まで』はということになっている。
段々その意味が理解してきたのかフィーの表情は曇り始めた。
「今日、魔術は金輪際使うな」
「えー……」
魔術が使えないのに、妙に安堵したのはなぜだろう。矛盾している心に少々戸惑ったが未だ見ているだけでめまいがする魔術書を読む気にもなれず、フィーは書斎から出ていく。
離から本邸をつなぐ廊下の窓から見える弟分の姿を眺めた。北側に面する建物の裏側も雪が解け始め、フィーが暴れた形跡もとっくに消えている。
この前、抱きしめたウォルの体はまだ小さかったけれど、村にいた頃よりもずいぶんと逞しくなっていた。
もうずいぶん前から彼は姉貴分の為に行動しており、真っ先に燃えて逝った彼の父の背中を追うように上を目指している。ウォルにとって自分の父は憧れの存在だったようだ。
フィーは両親の力が宿る心臓を握りしめるように衣服を握る。フィーの母親は病で伏せてばかりで記憶が少ない。父親も病に伏せる母親に付きっ切りでフィーはいつもウォルファングの家の世話になることがほとんどだった。
だが母も自分も月に一度だけ静かに家に籠る日があった。きっと自分たちの存在を外部の人間に知られないようにするためだったのだろうと思うが、その日は母親を占領できる特別な日だと喜んだ。
その反面ウォルは酷く怯えたような顔をしていたがもしかしたら自分の生まれた村を統治していた領主か、その使いが税の徴収などでやって来る日だったのだろう。
だが自分達の住まう村が丸ごと焼かれた理由は知らない。
――おもちゃはあした、とりにいこう。
村が燃やされる前。夕刻の時間に交わした約束は未だ果たされていない。
未だフィーの中に二人で遊んだあのおもちゃが残ったままなら、前に進むウォルの中には一体何が残っているのだろう。
―――
その様子を遠目で見つめる黒髪がいる。まだ十歳なのに孤児院を出ることを決めた二人を見てリナリアは本当にそれでいいのかと二人に問うた。だが二人の意思は固いようで揃って首を縦に振る。
別にリナリア自身、フィーが学院に行くことも、ウォルが軍に行くことにも反対しない。
実はリナリアは二人の様子が気になって、話している所を窓越しに覗き見ていた。
リナリアが覗いた時には既にフィラデルフィアは何かに恐れて泣いていた。
「……俺は、フィーを守りたい。強くなりたいから軍に行くんだ」
「ウォ、ル?」
「学院に行って、ロイクから離れろ……俺は、強くなって、お前を迎えに行くから」
そのわずかな会話でフィーがロイクへの恋を自覚したのだと察した。
同郷の幼なじみ。二人の仲に割り込めるほどリナリアは野暮な人間ではない。だがウォルと自分はお互い哀れだなと思った。だって
どの童話もお姫様と王子様が仲良く暮らしてハッピーエンドになる。フィーとウォル、どちらかが王子様になるのならそれはきっとフィラデルフィアのほうだと思っていたのに、フィーはか弱いお姫様だった。
『でもフィラデルフィアは灰被り姫じゃない』
『長い塔に閉じ込められた髪の毛の長いお姫様でもない』
『父さんは心を閉ざしているけど、獣じゃないし、フィラデルフィアに父さんの閉じた心を開けることはできない』
『フィラデルフィアは眠り姫でもないし、親指姫でもないし、人魚姫でもない』
『もう一人の私』の声が聞こえる。リナリアは無意識に「そうね」と同意した。
二人の全ての事情を知ったわけじゃないけど、暴走してロイクを殺すことを恐れたフィーをロイクと引き離す。それは根本的な解決にはならないだろう。
彼女にはきっと何か秘密がある。実際にそれについてロイクもわざわざ学院から書物を取り寄せて調べている。だがそれについてリナリアは踏み込むことはできなかった。
「フィーのこと気になるか」
「……お兄ちゃん」
うしろから自分の兄貴分が声をかける。兄妹仲は元に戻り、突然リナリアの人格が変わっても臆せず接してくれるようになった。
それでも大人になりつつあるルークは並行してリナリアにとって恐怖対象になりつつあるから、直接触れることは憚られるようになってきた。そのことにルークは寂しさを感じるし、リナリアも申し訳なく思う。
リナリアのフィーに対する想いはルークも知らない。だがリナリアが二人に異議を問うことが珍しく、何か気掛かりがあることについては察していた。
「大体あいつら見たいな途中加入組はすぐにここを出たがる奴が多いんだよ」
それでもこれまではロイクがどうやって生活するのかと諭して十三歳になるまでここで生活させて卒業まで待たせた。だがこの二人の場合はロイクがカレンデュラ家当主になってから異例のことだった。
「……意味が分からないわ」
「だよな。俺は生ぬるい生き方しか知らないから、アイツらの気持ちは分からん」
「……」
実はリナリア宛に一度だけ実父から手紙が来ている。
当時自分の全てだった父と引き離された時は絶望したが、新しい父と母に巡り合ってから自然とその二人が自分の両親だと、本当の家族を知ることが出来てからだったためにその手紙は読んでいない。
ロイクは自分が実父と共に暮らすことも顔を合わせることも絶対に許さないが、手紙のやり取りだけは許してくれている。
きっと自分が悪い子であることを否定しなかった時の罪滅ぼしなのかもしれない。もうあの人の顔は覚えてないし、今更会いたいなんて思ってないのに何を返事すればいいのか。
「私も、頑張らなきゃ……」
「……無理すんなよ。父さんもきっと考えてくれてると思うし」
「証拠は?」
「ガーベラ姉さん」
ロイクとガーベラは主人と従者であるが、それ以前は寝食を共にした姉弟であり友であるということは孤児院の子供たちも周知の事実である。
実際ややひねくれたことを言うロイクを叱咤するのはガーベラの役目だし、現在は今は亡き
ロイクは強いのでガーベラはロイクに勝てたことはないらしいが、魔力量はガーベラの方が多いらしい。絶妙なバランスである。
「ガーベラ姉さんみたいにできる自信はないなあ……」
「ならどうするんだよ。薬師にでもなる気か?それとも医者?」
「……どうだろう」
自分の魔法を職業に活かす人間は多い。目の前のルークについても大工のアルバイトでその魔法はかなり役に立っているらしく、十三歳になったらその雇い主に弟子入りするつもりだそうだ。
真っ当に生き、真っ当に学び、真っ当な将来へ進む術を持たせる。
時には薄汚い大人の世界をロイクの口から教えられることもあるが、それでもこの孤児院を出た子供のほとんどは平民出身でも商業で成功したり、魔術師として魔術の研究に進んだりと、悪の手に染まるものは少ないと聞いている。
だがリナリアは自分のもう一つの側面を恐れている。水色の瞳の人格は薄らとそのことについて自覚を持ち始めているようで、時折灰色の瞳に問いかける素振りを見せている。(それでも灰色のほうは無視しているのだけれど)
だがリナリアは強くなりたい。その意思は強い。それは自分の奥底に秘めた恋心のためなのだけれど。
「……私、悪い子になっちゃうかなあ」
「ならない。絶対。俺が保証する」
「ありがとう。お兄ちゃん」
―――
「リナリアを買い物に行かせる?」
「あぁ、彼女もコントロールがうまくいっているし、魔法を受け入れつつある。それにそろそろ彼女にアイーシュ街だけでもいいから普通の街を知ってもらわなければ」
彼女の世間知らずに拍車がかかる。とロイクは言う。
ロイクは基本的に初めての買い物の付き添いにはマーガレットとガーベラとの相談をするようにしている。しかし彼女の精神状態もあってほぼ軟禁状態でこの五年間過ごさせていた。
彼女は屋台の食べ物を知らないし、どのように物が売り買いされているのかも見たことがない。年上の子供達がアルバイトでどれくらい稼いでいるのか、物の価値観も理解していないだろう。彼女はそれくらい視野が狭い。彼女自身が引きこもり体質であることも相まって長いこと閉じ込めすぎた。
マーガレットとガーベラは二人顔を合わせ、笑顔で快諾した。
当日。孤児院には引きこもりのリナリアが孤児院の外に出るということで子供たち全員が見送った。
正直大袈裟だろうとウォルは思っていたが、リナリアが孤児院に来てから五年間一度も外に出ることがないらしい。
知っているとすれば街の医者とリナリアがいる頃に孤児院を卒業した人間くらいである。皆は口をそろえて「読書が好きな内気な子」と言っているが本当にリナリアは昔から幽霊みたいな存在だった。
「本当に大丈夫なんだよな」
「が、頑張る……」
「ルーク心配性だな。アタシが居るんだから安心しろって!」
それでもリナリアの手は震えており、付き添い約のガーベラに彼女のかつてない緊張が伝わり、ガーベラも逆に心配になってきた。ロイクはリナリアの頭を撫でる。
「別に今日の買い物はすぐに必要なものではない。失敗しても気にするな」
「は、はい!!」
「いってらっしゃーい」
皆に盛大に見送られ、リナリアは初めて門の向こう側に足を踏み出す。こんなはじめてのおつかいは中々ない。
この森一帯はカレンデュラ家の私有地である。その森を抜けると街が見えると聞いている。
「懐かしいな。リナリアがこの邸に来た時、転移魔術でロイクが抱えてきたんだから」
「そうなの?」
本人はあまり覚えてないがリナリアは南方地域出身だ。ちなみにこの孤児院は島の北側にある。
本来ならば馬車でも十日程必要な距離だった。ロイクもリナリアのいる場所までは馬で向かったのだ。だけどリナリアの容態が急変したため、本来は手紙などの小さいものを送るために使われる転移魔術陣をリナリアを抱えたロイクごと孤児院にある転移魔術陣に向けて飛ばしたのだった。
希少である空間魔法を魔術として具現化したものらしいが、人間を飛ばすにはリソースである魔力も必要で、魔術陣も人間を飛ばすことを考えてある設計ではなかったためその魔術陣も大量の魔力に耐えられずすぐにダメになってしまったらしい。
「それ以降ウチで扱う転送魔術は人間も運べるようなに代わったんだよ。魔力に耐えられるようになっただけだから魔力はたくさん必要なんだけどさ」
「もう一回やってみたいな……」
「マジか、リナリア意外と度胸あるね。でもアタシはパス。ロイクしんどそうだったし。『あれは人間を飛ばすものじゃない』って。じゃあなんで改良したんだよってな」
しかし二人は人間を転移できる魔術がどれほどの技術が必要なモノなのかを知らない。
ロイクはダリア亡き今も研究熱心である。元はダリアの為に始めた魔術と呪術の研究であるらしいが、今は誰の為に魔術を研究しているのだろうか。
二人を幼い頃から見ているガーベラもその真意を知らないらしい。分かるのはようやくダリアが亡くなった悲しみを乗り越えつつあるということだけ。
「フィーとウォルが来てから、ロイクは変わったよ。リナリアも」
「……そうかな」
確かにリナリアは小さな子供たちの世話をすることはあっても、歳の近い子供と遊ぶことはなかったし、男子と口を交わすことなんてなかった。ダリアが亡くなってから引きこもってしまっていた。その代わりもう一人の自分が表に出るようになり、その存在を知ってからもっと自分を理解したくなったのに。
「街が見えてきたぞ」
「……!」
初めて見た街並みにリナリアは密かに心躍らせた。
アイーシュ街は別名【木蔦の守り城】と呼ばれている。
アイビーと要塞を混ぜてできた名前らしいが、この町にはたくさんの種類のアイビーが街中に張り巡らされていた。新しい家にもアイビーに守られるようにと周辺に植えられている。きちんと手入れをされているので鬱陶しさはない。
要塞と言われているのはアイビーがあるからではない。街が魔術陣による筒状のシールドが高く囲まれているからだ。その為の魔力は木炭をゆっくりと燃やしてその熱量を魔力の代わりにする仕組みらしい。この国は魔石が枯渇しているから代用するものが必要なのだとロイクが言っていた。
「今夜のご飯はなに?」
「巨大猪を駆除したらしいからその肉を消費しないとなんだよなあ……」
「イノシシ……」
魔法が生まれてからというもの、女神の魔力の影響か魔力を持っている魔物と呼ばれる生物が大量に生まれたという。竜はもういないけれど、
その生態系は魔物が狩りつくされたこの国でも元に戻ることはなく、魔法が生まれる前から存在している動物が魔力の影響で大きくなったり小さくなっている。流石に高さ三メートルを超える巨大猪は稀なのだけれど。
「猪たまに食べると美味いんだけどね」
「う、うん」
その巨大猪は街の皆に配っても余るくらいで、ガーベラは客のいない精肉店を指さしてはあれが閑古鳥が鳴いているという状態だと言った。ガーベラもたまに酷いことを言う。
授業で使うチョークと、ロイク専用のノート。シマウマ族のウラウラが欲しがっていた便箋。人族のラキからはスケッチブック。猫族のネネからは細いリボンと欲しいものがメモに書かれていた。どれもロイク達から承認してもらったものである。買い物は食材だけではなく日用品もあることは知っていたが、こうして買い物をすると一緒に住んでいる皆が欲しがっているものが知れるのかと関心もあった。
街の中は人が多く、たくさんの人々が行き交っていた。すれ違いざまにメイド服を着たガーベラに視線が向き、そこからそのガーベラが連れているリナリアにも視線が集中する。
ガーベラの服装が珍しいということもあるせいでもあるが、リナリアの容姿が整っているからという自覚は本人にない。リナリアは目の合う人々。特に男性には物凄く恐怖し、終始ガーベラの陰に隠れた。
掃除用具を扱う店に入り、ひとまず視線がなくなったことにリナリアは安堵する。
「ガーベラちゃん。いつもご贔屓ありがとうね」
「いやいや~おば様がお綺麗だから!!」
初めての人には挨拶しなければならないとロイクからの言いつけを守ろうと、黒いワンピースをたくし上げてリナリアは一例する。だがその様子を主人の女性は全く見向きもしない。
「そんなこと言っちゃって~もう!!ところでこの子は新しい子?どうしてお洋服は黒なのかしら。もったいない」
「……あっ、わたしは……」
突然自分に話を向けられ、思わずリナリアはまたガーベラの陰に隠れた。見たことないタイプの女性なので恐怖を抱いた。
それを察知したガーベラは彼女を片手で抱き寄せた。
「ごめんねおば様。この子買い物デビューだから」
「あらそう?気を付けてね」
ガーベラは手早く会計を済ませ、店の外に出る。持つと言ってきかなかった買ったものを抱えてリナリアはガーベラの服の裾を掴んだ。
「ごめんなリナリア。怖かった?」
「……こ、怖くないよ」
意地を張るリナリアにガーベラは思わず頬を緩ませるが、笑わないでとリナリアは灰色の目で訴える。ガーベラ自身もリナリアの人格については理解しているつもりだったが、まさか灰色の目がこのタイミングで表に出るなんて思わなかったのか一瞬目を見開く。
「よーく頑張ったよ。次いけそうか?」
無言でリナリアは頷いた。ガーベラはそんな丁寧にお辞儀しなくていいからなと頭を撫で、リナリアは終始ガーベラの元から離れなかった。
「よし。ご褒美タイムだ!」
「お菓子!」
「そ、それだけは元気だな。だけどその前にロイクからの頼まれごとを済ませてからな」
リナリアはやたら楽しそうなガーベラに連れられて、付いたのは洋服店だったことに顔が青ざめた。
ガーベラは基本的に本人が可愛いと思ったものが好きだ。
孤児院の子供たちの洋服を縫っているのは彼女なのだが、どうしても彼女好みに仕立てられるので、特に男子たちからクレームが来る。ちなみにウォルの耳ポケットの付いたパーカーはガーベラのお手製だ。
呆れたロイクはそれ以降初めての買い物に関しては洋服店で扱っているものを選ばせるようにした。子供たちのイメージが付きやすくするため、細かい要望が出せるのだ。
「いーやー!!」
「いや、流石にリナリアの好きなのにするから!そうロイクから言われてるし!ていうかリナリアそこまで嫌がるの初めてだな!?」
ガーベラはリナリアのわがままを言うことに驚きつつも羽交い絞めにし、店員に採寸を要望する。
「お嬢様のお体採寸しますねー!!」
数分後リナリアはぐったりしらしくもなく地面にへばりついた。彼女のサイズに合った服を店員が吟味している間、リナリアは店の外に出た。
この街は賑やかで、綺麗だ。リナリアの知っている街と全く違う。
だが行き交う人々が自分のことを見てくる。あのやたら綺麗な布を身体に巻いて実父の言われた通りに魔法を使ったあの時とは違う。だけどその時のことを思い出し息が苦しくなる。
「あれリナリア!?」
ガーベラが気付いた時には既に時遅く、リナリアは店の前から消えていた。
こんなに走ったのは生まれて初めてだった。人並をかき分け、視線を感じない場所を探した。人にぶつかっても謝る余裕もなく、その場から逃げるように路地裏に駆け込む。
「……こわいよ……」
その場にリナリアはしゃがみ込んだ。街に出てから今日一日リナリアはずっと灰色の瞳で過ごしている。強くなろうと決心し、初めてのお使いを任されたときもとても嬉しかったから、全部自分で頑張ろうと意気込んでいた。
フィラデルフィアや他の子供達から街の話を聞くたびに何度心躍らせたことか。きっと彼女もその見た目だから奇異な目を向けられることもあったはずなのに、どうしてあんなに楽しくなれるのか分からない。
強くなろうと思ったのに、こんな自分ではフィーを守ることは出来ないではないか。
「お嬢さん。どうしたの?」
足音もなく、目の前に軍靴二つがリナリアの視界に入る。上を見上げればぴょこっと白い兎の耳が生えた魔族がいた。年齢はルークより少し年上といったところだろうか。
その三つ編みに結い上げた長い白い髪はロイクを連想させたが、彼の場合は白い肌にピンク色の瞳と何もかもが透明だった。
それにその容姿は男性恐怖症で男性には敏感であるリナリアも判別しづらいくらい中性的な顔立ちだった。
「誰……?」
「アリックス・ロータス。アリスでいい。……立てるかな。お嬢さんの名前は?」
差し出された手を取り、リナリアは立ち上がった。その後子供をあやすようにハンカチでリナリアの顔をぬぐう。
名前で男だと分かったのに、差し出された手に恐怖もなく取れる自分に驚いた。だが平然を装うととっさに自分の名を名乗った。
「り、リナリア。父は……」
リナリアは思わず口をつぐむ。挨拶をする時自分の父の名前を名乗らなければいけないとマーガレットから教わった。だが彼女の父は本当の父ではない。
「カレンデュラ家の子か」
「ち、違うわ……私は、本当の父さんの子供じゃない」
「それでも彼に育てられたなら、彼の子供に変わりはないさ。カレンデュラ伯爵もそう思っていると僕は思うよ」
アリックスと名乗る少年はリナリアの手を引いてそのまま路地裏を進む。
微かに感じる硝煙と血の匂い。その服装を見れば世間知らずのリナリアでもアリックスが軍の騎士であることは一目で分かった。帯剣が認められ、今は国の政治を担っているという存在。そんな人物が何故この地を訪れているのだろう。
「父さんのこと知ってるの?」
「カレンデュラ伯爵は子煩悩であることで有名だ。ここはいい街だよ。僕は戦場で嫌というほど国中の街や村を見たけど、子どもがちゃんと労働者としての権利を持っているなんて初めて見た」
「みんな奴隷なんかじゃないわ」
アルバイトに向かう年上の子供たちはしっかりと金銭をもらっている。その金銭の使い道は卒業後の資金だったり、自分の趣味だったりと色々だったが、皆は必ずそのお金の半分はロイクに渡していた。
「奴隷を知っているなんて物知りだね。……もうすぐ大通りだ。そこに行けば君の連れの人も見つけてくれるんじゃないかな」
「……行きたくない。人の目が怖い」
奇異な目で見る視線。以前は眼鏡をかけていなくてもわかったそれは眼鏡をかけている今のほうがかなり苦痛だ。アリックは困った顔をした。彼女の眼鏡は魔力でレンズの度が変化する魔術道具だ。度もしっかりと彼女に合わせて調節されている。
「でもそのメガネは外さない。そんなに大切なものなんだ。ならしっかりと見なくちゃ」
彼の手がリナリアの髪を撫で前髪を梳いた。彼女の顔を見ては「美しい顔だ」と呟いたのでリナリアはぼっと赤くなる。遠くから騎士様と呼ぶ声が聞こえる。きっと彼を探しているのだろう。彼の手が離れた。
「もう行かなきゃ」
「ちょっと、騎士様!!」
「またねリナリア!君の将来に幸あれ!」
アリックは手を振ってその場を去る。不思議な軍人だったなとリナリアは思った。
その後リナリアはガーベラと合流し心配したと泣きつかれた。あの軍人がガーベラを見つけて案内してくれたらしい。そしてガーベラは思ったよりもよく泣くのだということを知った。
そしてまたあの洋服屋に戻り、カラフルな服の中から一着選ばされた。
「リナリアにしては珍しいね。桃色なんて」
「……なんとなく」
選んだのはすくんだピンクのワンピースだった。胸元のリボンは黒だが、案外似合うものだなとガーベラは思った。
正直リナリアの中では妥協案だった。彼のそのピンクの瞳が何となく印象に残っていたというのもあるのかもしれないが、リナリアは否定することにした。
孤児院に戻り、黒い服のポケットに残っていた彼のハンカチを返していなかったことを思い出す。ロイクに名前を教えれば返してくれる思ったが、洗って持っておくことにした。彼とはまた会えそうな気がしたので。
――――――
【補足】
軍人:メイラ国の軍に仕える兵士。それ以外は傭兵だったり私兵と呼ばれたりします。
騎士:軍人の中でも功績で勲章を貰えた人のことを指す。家名がない人は皇帝から苗字をくれるので、貴族と同等の扱いを受けることが出来ます。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます