10

 女の子には勝負パンツがある、と母親は言っていた。


 真面目な母親でもたまにはそういうことを言うんだと本音少し驚きながら、「お母さん、ちょっとー!」と私は笑いながら言った。


 だけど母親は真面目な顔を崩さずに言った。


 パンツなんて人に見せるものじゃない、むしろ見えたら問題だ。だけど、そういう場所に良いものを使うのが大切なんだと。表に出さなくてもそこに自分の矜恃を、覚悟を、本気を込めるものだと。


 ――そんなことを何故急に思い出したのは分からない。


 頭上のシャワーから降ってくるお湯は何故か少しぬるい気がして、私はほんの少しだけ温度を上げる。


 良くない。何を取り留めも無く考えてしまっているんだろう。どうも智美のペースに自分が巻き込まれ掛けている気がする。

 私は先輩で智美は後輩で。それ以上でもそれ以下でもない。余計な情けを掛けてしまうと良くない、そこはきちんと線引きしないと。


 自分の頬を軽く叩いてから、外を見る。


 ユニットバスの端の小さな窓。その切り取ったようなガラスの向こうはすっかり暗くなっていた。


 私はシャワーを止めると体を拭いて――服を着ようとして、手を止めた。


 裸のまま部屋に戻ると、いちばんいいパンツを取り出して身につける。決して新しい訳では無いのだが、シンプルで丈夫で、何より履き心地がいい。

 その上から制服を身につけ直すと、私は外に出る準備をした。


 私には私のやるべきことをやる必要がある。


    *


 今日は練習はないと思っていたのに、夕方の部室を覗くと、一人だけ姿があった。


「沙織」


 背もたれの壊れかけた回転椅子に座っていた女の子が、自分の方を見る。


「これ」


 封筒を差し出す。


 沙織は封筒の表に書かれた文字を見て、一瞬少し目を見開いた。

 それから封筒を受け取ると、黙って中の紙を取り出した。

 机の上に広げて、「うん」と小さく呟いて、それから紙を元通りに畳んで封筒に入れて、また机の上に置き直した。


「退部届け、ね」


 自分に言い聞かせるように小さく呟いて。


「分かった」

 沙織は理由を聞かなかった。


「退部届、受け取ります」


 そう言うと沙織は椅子を引いて、引き出しを開けた。


「受け取ったけど、これはこのまま預かっておくよ」


 ピンク色の付箋を取り出して、少し考えてから『沙織個人管理』と書いて封筒の文字の上に貼り付ける。

 それから席を立って、部室の片隅の小さな金庫を開けてそこに入れた。


「ごめん」


 私が頭を下げようとすると、沙織はそれを手で制した。


「やめて。……謝られたら、私も理由を聞かないといけないからね」


 そう言いながらまた自席に戻る。


「他の子ならわけを聞くけど、衣乃がそんなことを言い出すからにはそれ相応の事情があるんだよね」


 机に肘をついて、目を逸らして小さく溜め息を吐いた。


「他のみんなには、なんか家の事情で少し忙しいみたい、とでも言っておくよ」


 そして私の方に向き直って。


「……誰を病気にするのがいい? 両親はさすがに気が引けるから、叔母さんとか? 叔父さんとか?」


 冗談を言って、ふわっといつも通りの微笑を浮かべる。


 ああ。

 沙織が何故部長をしているのか改めて思い出した。


「叔父さんの方がいいかな」


 私も少し笑ってから、踵を返して部室を出る。


 出口で振り返って、短く言う。


「ありがと」

「また今度」


 閉めかけたドアの向こうで、沙織が軽く手を振るのが見えた。

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