9
まったく。調子が狂う。
なんだか自分が自分でなくなりそうな気がする。
「智美はやっぱり嫌いだ」
小声で呟いて、小石を思いっきり蹴飛ばした。
「わっ」
驚いた男の人の声が前からする。
「す、すいません!」
咄嗟に声を上げてから、声の主を見る。
「……あ、貴方は」
「木島さんだったかな」
この前と同じスーツを着た、明空トータが微笑んだ。
「はい。先日はお邪魔しました」
あんな自然に微笑むのは私には難しい気がしたけど、真似をするように、口元を上げて軽く礼をした。
「何もお構いできずに申し訳なかったね。家の手入れも行き届いてなくて」
「いえ、本当に立派なお宅で。他の智美さんの友達も、きっと皆さんびっくりされたんじゃないですか?」
何気なく言った軽口に、明空トータは不思議そうな顔をした。
「いや、智美が友達を連れてきたのは君が初めてだが……」
そう言って少し黙ってから、表情を変えて少し笑った。
「またいつでも来て下さい。智美も喜んでいたよ」
「そう言っていただけるとありがたいです」
話題を変えたいのは分かった。だから私もそうする。
「今日はお仕事は終わられたんですか」
「いや、これからまた出かけるよ」
「大変ですね」
口にしてはみたものの、正直予想していた答えだった。
「また智美が寂しがるかな」
実業家ではない、父親の顔をする。
「かもしれませんね。……智美さんはお父さんのことが大好きなんだなと思います」
「ちょっと過剰な気もするがね」
「まぁ、確かに」
だけど、私はちょっと羨ましいのかもしれないな、と思った。
私にはもう、ああいう顔をする相手はいない。
「いつまでああいう顔をしてくれるか分からないがね」
随分と平凡なことを言うな、と思った。
だけどそれが親というものなのかもと思って、嫌な感じはなかった。
「私だって、いつかは過去の人になっていくんだよ。忘れられていくんだと思う」
少し寂しそうに言う。
自分の心臓の音が、ひとつ大きく聞こえた気がして。私はトータさんの目を見た。
「……忘れませんよ」
私はトータさんに言った。
「テレビの向こうの一発屋芸人とか、新聞記事で知った交通事故の被害者とか、そういうものはそのうち忘れていくかもしれませんけど、でも」
そこで目線を外すと、川の方を見て、数歩歩く。
「自分が生で接して来た人のことは、自分の何かを変えた人のことは、何年経っても、何十年経っても、絶対に忘れないと思います」
小石が一つ、川の方へぱらぱらと小さな音を立てて落ちていった。
「私はそうです。そうありたいと思ってます。助けてくれた人のことはいつまでも覚えてるし、正直嫌な思いをした人のことも覚えてるし」
小さく息を吐いた。
「うんと小さな頃のことは正直、朧気になったりもしますけど、でも完全に忘れることはないと思います。記憶の底からたまに浮かび上がってきたりして」
それから少し考えて、言葉を続ける。
「たとえ相手に忘れられそうになっても、私だけは忘れちゃいけないと思います」
そしてもう一度、目の前の男性に向き直る。
しばらく無言でいてから、明空トータはゆっくりとため息を吐いた。
「娘の友達に諭されるとはな」
苦笑いしながら言う。
「諭したつもりはないです。自分の話をしただけですから」
「君は強いな」
「弱いから強くあろうとするんです」
「そうかもしれんな」
その言葉は私にというより、自分に話しかけているようにも見えた。
しかしそのような表情を見せたのも一瞬で、すぐに笑顔を見せる。
「恥ずかしいところを見せたね。……そろそろ行くか」
「帰りは遅いんですか」
「いや、今日は日付が変わる前には帰れるかな」
そう言うと、手を少し上げて足早に歩き去っていった。
「……忘れません、よ」
もう一度繰り返す。
私は不器用なんだろうな、と思った。
多分後輩たちみたいに馬鹿話で盛り上がることもできないし、バニラシェイクは多分いつまでも苦手だと思うし。
オニとかずっと言われるのかもしれない。
だけど、迷いそうになった時は自分を変えられずに、信じていた自分の歩き方で歩いていくしかないのだろうと思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます