まったく。調子が狂う。


 なんだか自分が自分でなくなりそうな気がする。


「智美はやっぱり嫌いだ」


 小声で呟いて、小石を思いっきり蹴飛ばした。


「わっ」

 驚いた男の人の声が前からする。


「す、すいません!」

 咄嗟に声を上げてから、声の主を見る。


「……あ、貴方は」

「木島さんだったかな」


 この前と同じスーツを着た、明空トータが微笑んだ。


「はい。先日はお邪魔しました」

 あんな自然に微笑むのは私には難しい気がしたけど、真似をするように、口元を上げて軽く礼をした。 


「何もお構いできずに申し訳なかったね。家の手入れも行き届いてなくて」


「いえ、本当に立派なお宅で。他の智美さんの友達も、きっと皆さんびっくりされたんじゃないですか?」


 何気なく言った軽口に、明空トータは不思議そうな顔をした。


「いや、智美が友達を連れてきたのは君が初めてだが……」


 そう言って少し黙ってから、表情を変えて少し笑った。


「またいつでも来て下さい。智美も喜んでいたよ」

「そう言っていただけるとありがたいです」


 話題を変えたいのは分かった。だから私もそうする。


「今日はお仕事は終わられたんですか」


「いや、これからまた出かけるよ」


「大変ですね」

 口にしてはみたものの、正直予想していた答えだった。


「また智美が寂しがるかな」


 実業家ではない、父親の顔をする。


「かもしれませんね。……智美さんはお父さんのことが大好きなんだなと思います」

「ちょっと過剰な気もするがね」

「まぁ、確かに」


 だけど、私はちょっと羨ましいのかもしれないな、と思った。

 私にはもう、ああいう顔をする相手はいない。


「いつまでああいう顔をしてくれるか分からないがね」


 随分と平凡なことを言うな、と思った。

 だけどそれが親というものなのかもと思って、嫌な感じはなかった。


「私だって、いつかは過去の人になっていくんだよ。忘れられていくんだと思う」


 少し寂しそうに言う。

 自分の心臓の音が、ひとつ大きく聞こえた気がして。私はトータさんの目を見た。

 

「……忘れませんよ」

 私はトータさんに言った。


「テレビの向こうの一発屋芸人とか、新聞記事で知った交通事故の被害者とか、そういうものはそのうち忘れていくかもしれませんけど、でも」


 そこで目線を外すと、川の方を見て、数歩歩く。


「自分が生で接して来た人のことは、自分の何かを変えた人のことは、何年経っても、何十年経っても、絶対に忘れないと思います」


 小石が一つ、川の方へぱらぱらと小さな音を立てて落ちていった。


「私はそうです。そうありたいと思ってます。助けてくれた人のことはいつまでも覚えてるし、正直嫌な思いをした人のことも覚えてるし」


 小さく息を吐いた。


「うんと小さな頃のことは正直、朧気になったりもしますけど、でも完全に忘れることはないと思います。記憶の底からたまに浮かび上がってきたりして」


 それから少し考えて、言葉を続ける。


「たとえ相手に忘れられそうになっても、私だけは忘れちゃいけないと思います」


 そしてもう一度、目の前の男性に向き直る。

 しばらく無言でいてから、明空トータはゆっくりとため息を吐いた。


「娘の友達に諭されるとはな」


 苦笑いしながら言う。


「諭したつもりはないです。自分の話をしただけですから」


「君は強いな」


「弱いから強くあろうとするんです」


「そうかもしれんな」


 その言葉は私にというより、自分に話しかけているようにも見えた。


 しかしそのような表情を見せたのも一瞬で、すぐに笑顔を見せる。


「恥ずかしいところを見せたね。……そろそろ行くか」

「帰りは遅いんですか」

「いや、今日は日付が変わる前には帰れるかな」


 そう言うと、手を少し上げて足早に歩き去っていった。



「……忘れません、よ」


 もう一度繰り返す。


 私は不器用なんだろうな、と思った。

 多分後輩たちみたいに馬鹿話で盛り上がることもできないし、バニラシェイクは多分いつまでも苦手だと思うし。

 オニとかずっと言われるのかもしれない。


 だけど、迷いそうになった時は自分を変えられずに、信じていた自分の歩き方で歩いていくしかないのだろうと思う。

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