部活もない日だったので、終礼が終わったら私はすぐに寮に帰って、着替えて智美と合流した。


 家の前から洋館を見ると、お屋敷だなぁ、と前と同じ語彙力が貧弱な言葉が出てくる。


「先輩、どうぞ」


 ……まさかこんなところに堂々と入ることになるとは思わなかった。


「お邪魔します」


 なんとなく声を出して門をくぐる。この挨拶って門じゃなく洋館に入った時に言うものじゃないのか、と口にしてから思ったものの、黙って門を潜るのも憚られる。


 わん、と犬が一つ鳴いてこちらに駆け寄ってきた。


「ポチ、吠えちゃダメ、この人は私のお友達だから」


 駆け寄ってきた犬に智美が声を掛ける。


 犬の種類とかは詳しくないが、いわゆる日本犬だと言うことは分かる。肌や毛の雰囲気は見ただけでかなり老いているのが分かるが、それでもぴんと張ったしっぽは、強い獣の雰囲気が漂っている。


 どうでもいいけどこのポチの犬小屋もかなりでかいよな。アパートの私のスペースより……いやだからそんなことどうでもいいから私。


「ポチ、お邪魔するよ」

 今度は多分正しいタイミングだと思う。


 ポチは尻尾を大きく振っている。智美の顔を見て安心して、私も信頼してもらえたようだ。


「それにしても」


 おともだち、か。

 なんとなく不思議な気がした。


    *

 

 洋館に入ると、まず大きなエントランスが待っている。

 天井が吹き抜けになってシャンデリアがぶらさがっていて、階段が踊り場に向かって伸びていて、左右には廊下が伸びている。

 華やかなはずなのに、だけど何となく静まり返ったような、寂しい雰囲気を感じた。ホコリを被っているとかそういうわけではない、むしろ掃除は行き届いているんだが。生活感が少ない。


「今は誰もいないのか?」

「お父さんは帰ってるかな……お母さんはずっといないです」

「え、ずっと?」


 驚いた声をあげると、智美は淡々と言った。


「お母さんはほとんど海外なんですよ」


 ちょっと寂しそうな顔をするので、黙って後をついて行く。


 食堂なのか応接間なのか分からないような部屋。やっぱりがらんと広く、薄暗い。


 思わずもう一度訊いてしまう。


「……こんなに広いのに、一人なのか?」


「いや、メイドさんと」

「めいど」


 思わずオウム返しに呟く。カフェ以外に日本でメイドって生息してたのか。


「あ、先輩、残念ながらおばさんですよ」


 私は無言で智美の頭に軽く拳骨を落とす。


「痛っ」


 智美が顔をしかめる。


「先輩をからかうなっ」

「す、すいません……」


 と、その時、金属音とともにドアが開いた。


「誰か来てるのかい?」

「あ、パパ」


 智美の反応で、思わず私は立ち上がって気をつけする。


「こんにちは」

 濃い茶色のスーツを着た、短い髪の男の人。ダンディ、というには若く見えて、ちょっといたずらっ子のような雰囲気もある。

 テレビとかでは見たことがある人が目の前にいる。明空トータは、自分の娘と変わらないくらいの私に対して、軽く礼をした。


「はじめまして、木島衣乃と申します」


 背筋を伸ばしたまま、礼。膝がほんの少し震えた。

 テレビに出ているような人間は、実際に会うと何とも言えないオーラがある、ということを初めて知った。


「こんにちは。ゆっくりしていって下さい」


 少し口元を上げる仕草は、最初に受けた印象より幾分か柔らかだった。


「パパ、今日は仕事終わったの?」

「いや、一度寄っただけだ。これからもう一度出かける」


「……じゃ、また帰り遅いのかな」

 寂しそうな表情を浮かべる智美。


「早く帰れればいいんだが……多分夜中までかかりそうだな」


 そう言うと早足で歩いていく。


「……分かった。気を付けてね、いってらっしゃい」

「おやすみ」


 そう言うと早足で部屋を出ていく。


「すみません、慌ただしくて」

「謝ることでもないだろ」


 緊張した照れ隠しもあって、トーンを抑えて言って。それからちょっとだけ皮肉を足す。


「……高校生にもなってパパはなくないか」


「いいじゃないですか」

 不満そうに少し頬を膨らませる。


「ちょっと子供っぽすぎるだろ」


 あと、正直わりと若く見えるので、人前でパパと言うと本当の父親じゃなくて別の意味に取られかねないぞ……というのはさすがに言わない。


「じゃ、先輩はどう呼ぶんですか、父親のことを」


「え」

 智美の無邪気な質問に、私は思わず言葉を失った。


 母親については簡単に答えられる。家に帰れば普通に「お母さん」と言うし、友達と話している時なら「母親」とか突き放したように言うこともある。


 だけど、父親については……小さい頃の呼び方で止まっていた。すなわち、「パパ」。それ以外の呼び方が思いつかなかった。


「……御父上」


「絶対嘘です」


「おとん」


「本当ですか?」


 誤魔化しきれない。コイツにはこういうこと言いたくなかったんだが。


「……父親、いないんだよ」

「あ」


 口を開けたまま智美が凍り付く。


「す、すいません」


 そう言うと急にあたふたと席を立つ。


「まぁ、男女関係って上手くいかないことだってありますよね。ちょっとお菓子でも持ってきます」


 慌てたように早足で奥のドアの向こうに消える。置いていけばいいのにポットも持ったまま。


 ……ああ、そっちの方向に誤解される可能性もあるのか。気付いてなかった。


 誰もいなくなった食堂で、私はひとり溜め息をついて、紅茶に少し口を付けた。

 あのお嬢様には想像もつかなかったのだろう。

 私も、私の母も、父のことが今でも大好きだ。


 いないというのはそういうことじゃない。




 ……私の父は、この世にはもういない。




 私が生まれたのは、瀬戸内の小さな島だった。


 細長い形をして、だけど小さい割には岩が多くて背の高いその島のことを、まだ小さかった私はそれほど多く覚えているわけではない。だけど断片的に、そしてはっきりと覚えているのは、荒っぽい声が飛び交う賑やかな港の光景と、父親の腕に抱かれた私の頭をなでる、たくさんの大きくてざらざらとした手の記憶。


 どちらかと言えば強面の男たちの顔が、私を見る時だけはとても優しい顔になった。それはとても心地よいもので、五感の他の何よりも、その温かさの触覚が肌に焼き付いていた。



 率直に言おう。


 大きくなった今の私は知っている。私の周りにいた人たちは――もちろん私の父親も含めて――決して社会的に真っ当と看做されているような生業だったわけではない。いやむしろ、アウトローと呼ばれるような、そういう仕事をしていた。

 それを必ずしも肯定するわけではない。社会的に指弾されても仕方がないと思う。それが通用する時代でもない。


 だけど、それを承知で、私にとっての父は、私のことをとても可愛がってくれた優しい父だった。あまり荒事が得意じゃなかったと聞いたこともある。どっちかと言えば周りからはいじられるような存在だったとか、だけど皆を裏で色々と助けて愛される存在であったとか。


 負わなければならない罪もあったのかもしれない。

 だけど、少なくともその罪は――父の命を以て贖わねばならないような、そんな罪ではなかったはずだ。


「先輩、お待たせしました」


 おそるおそる言う智美の声で、私は我に返った。

 いつの間にか目の前には紅茶とクッキーが置かれている。


「この紅茶も結構美味しいですよ」


 まずは一口、口に含む。……私の舌でも、普段の安売りティーバッグとは雲泥の差なのは分かる。


「その……怒ってます?」


 黙って智美の顔を見ると、右手を振り上げる。


「てい」


 思わず目を瞑った智美の額に、私は軽く手刀を入れた。


「ひゃ」


 智美が痛いのか驚いたのか分からないような変な声を上げる。


「そういうことは訊かなくてもいいんだよ」


 言いながら、前に置かれたお菓子の盆に手を伸ばす。その辺のスーパーで売ってる量産品じゃないことがすぐに分かる、優しい甘さのチョコチップクッキーだった。

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