夕方の部室というのはだいたいにおいて人が多く雑然としている。

 それぞれの練習が終わった部員が帰ってきて、ただでさえ人数は多くて。

 しかもその後すぐ家路につくかというと、そのまま下校時刻まで雑談をして帰る子が多くて。

 汗くさい臭いが充満して、それにシャワーの後のほんのりとした温かみが混ざって。音と匂いと体温とが充満する。


 そんな中で私は、黙ってその日の反省をしたり、色々と考え事をしたりするのが日課となっていた。


 その日も後輩たちががやがやと話している。


「でも、今日は智美なんで休んだんだろう」


 誰かが話題にしているのがふと耳に入ってきて、会話に割り込む。


「――多分、定期の再発行かな」


「え、智美また定期落としたんですか」

「また、って前にもあったのか」


 智美って1年生だよな。まだ1学期だよな。


「前にぼやいてました。何度も落とすので1か月定期しか買わせてくれないそうです」

「……ひどいというのか、何と言うのか……」

「でも、なんとなく納得しません?」


 まぁ、確かに明空らしいと言えば明空らしいが。


「そう言えば、困ってた明空を家まで送っていったんだが、大きな家だな……」


「……あー、あの屋敷ですか」


「それ。すごい立派な屋敷だが、明空の家って何をやってるんだろうな」


「あれ? 先輩、知らなかったんですか?」

「何がだ」

「智美の父親、明空トータですよ」


「え」


 私は思わず立ち上がった。


 部室にいた部員たちが一斉に私の顔を見る。


「明空って、あの明空トータの子供なのか」

「『あの』かは分からないですけど、テレビによく出ている明空トータです」


「……本当に」

 驚きの余り立ち尽くす。


 明空グループと言えば日本を代表する大企業。その社長である明空トータは一代でグループを築いた立志伝中の人物だ。若い頃のエピソードから子供たちのヒーローだったりもする。


 その印象の反面、テレビのバラエティー番組にも時々出て、庶民的だったり天然ボケの入ったような発言をしたりする姿は、好感度ランキングにも時折顔を出すような親しみやすさがある。

 私にとってはある意味ではとても馴染みの人間で――だからこそ、どこか遠い世界の人間だと思っていた。


「沙織は知ってたのか?」


 小声で言うと、沙織はにこっと笑った。


「まぁ一応はね。特に言いふらすことでもないし」

「……それはそうだが」


 何だか自分だけが仲間はずれにされてたような複雑な気分になる。


    *


 帰り道、駅前の商店街を歩いていると、前から智美が駆け寄ってきた。


「先輩!」


 その明るい口調でなんとなく結果は察したけど、一応訊いる。


「定期はあったのか」


「無事見つかりました。駅への横断歩道の手前に落ちていて、拾った人が警察に届けてくれてたみたいです」


「……そうか、良かった」

 他人事とはいえほっとする。


「はい!」

 何か言おうと思ったが、嬉しそうな顔に結局何も言わないことにする。


「で、先輩。先日のお礼を何か出来ませんか」

「そういうのはいい」

「でも、何かしたいんです」


 まっすぐじっと見られるとどうも苦手だ。


「まぁ、飲み物ぐらいなら」


「分かりました!」

 嬉しそうに言うと、アーケード街をてくてくと歩いて行く。


 智美に連れられるように、ファーストフード店に入る。よく見かけるチェーン店だが、正直あまり入ったことはない。


「ブラック……」


 そう言いかけたところで、智美が割り込んできた。


「私はバニラシェイクで。先輩も同じでいいですか?」


 おごってもらうのに反論する気にもならず。


「……じゃあ、私も同じで」

「バニラシェイク2つ!」

「はい、バニラシェイク2つですね。ご一緒にポテトはいかがですか?」


 店員さんが繰り返すのを、何故か智美はにこにこと、私は妙な顔で見ていた。


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