2
アーケードの奥の方から西日が差し込んで、通りの片方だけを少しだけ朱に染める。
部活が終わった夕方、参考書を買おうと、私は駅前の商店街を歩いていた。
「どうしよう……どうしよう……」
どこかで聞いたような幼い声。
「帰るしかないかな……」
俯いて一人呟いていた顔を不意に上げて、私と目が合う。見た目に加えて、ツインテールがますます子供っぽさを出していて、今でも子供料金で電車に乗れそうだ。
「あ、先輩!」
急にほっとしたような声が刺さってくる。
「……
さっき一喝したばかりなので少し気まずい気もしたが、向こうは特に気にしてもいないような感じだった。
明空智美、と名前だけは覚えている。正直陸上部員としては特に目立つ印象がない……種目は確か中距離だった気がするが、長距離だとバテるし、短距離を走るには瞬発力がない、という消極的な理由だったはず。
印象はハムスターだ。とことこと走って、たまに転ける。
「こんな時間にどうしたんだ」
「せ、せんぱい、どうしましょう……」
また俯く。
「突然、どうしたんだ」
「困ったです……困ったです……」
「まず落ち着け」
背中を軽くはたく。
「……はい」
やっと落ち着いた様子で、息を吸い込む。
「すいません、定期券を落としちゃったみたいで」
「……は?」
思わず変な声を上げた。
「警察に届いてるかな……」
泣きそうな顔をする。
「届いてるといいんだが……」
『きっと優しい人が拾ってくれてるよ』とか言うのがセオリーかもしれないが、そこまでの優しい言葉は出てこなかった。
「……誰かが拾ってくれると信じます」
俯いたままの智美の表情に、取り敢えず放ってもおけず声を掛ける。
「探そうか?」
「お、お願いします」
*
取り敢えず少し探してはみたものの、予想通り見つからなかった。
「隣の駅だし、家まで歩いてもそんなに掛からないので歩いて帰りますよ」
そう言っててくてくと歩き出したので、私は引き留めた。
「切符を買った方が良くないか?」
「……大丈夫です」
歩き出そうとするのをもう1回引き留める。
「待て。家まで送る」
「いや、申し訳ないです、大丈夫です」
「どうせ自転車だからすぐ帰れるし」
「いや、本当に大丈夫ですから」
「正直、明空の場合特に心配なんだよ」
「先輩ひどいです、そんなことは……」
言いかけて途中で黙る。
「……分かりました、お願いします」
否定できなかったのだろう。どういう逡巡があったのかは聞かないのが武士の情けだろう。
*
走る速さと歩く速さは多分必ずしも比例しない。
そうは思うが、智美の場合は走るのと同じように、歩くのも少し遅い。
私が少しせっかちなのかもしれないが、普通に歩いていると距離が開いてしまって、時々足を止めることになる。
自転車を押す音と、川の流れの音と。あとは何の匂いか分からないけど日暮れ時の匂いと。
無言に耐えかねたのか智美が話しかけてくる。
「つ、月が綺麗ですね」
「……告白か」
「なんでですか!」
智美が赤面する。
「……智美には文学的素養は無い、と」
夏目漱石は知らないらしい。
「先輩、訳が分からないです……」
困った顔で呟いて、智美は少しだけ足を速めた。
*
「あ、ここです」
……お屋敷だなぁ、と。
我ながら稚拙だと思ったが、それが私の第一印象だった。
「ここが私の家です」
二度も言わなくていい。
見覚えのある家だった。道路沿いのレンガ積みの長い壁の奥の木陰に、出窓が印象的な洋館が建っている。――「洋館」という単語はあまり使う機会がないが、それがぴったりと来る建物だ。
この辺は他にも大きな家が多いが、その中でもひときわ目立つ建物で。
我が陸上部のランニングコースによく使う通り道でもある。自分の中ではここの門の前をチェックポイントの一つにしていた。……お前だったのか。
「凄いな」
「あはは……でも、これを建てたのは昔の別の人ですし。私は後からここに引っ越して来ただけです」
今住んでることがすごいんだよ。
私が母親と住んでたアパートの何倍の広さだろう、とか考えて馬鹿らしくなってやめて、門を入ろうとする智美の背中に短く声を掛けた。
「じゃ」
「ありがとうございました」
門の奥で鳴き声が聞こえた。
「ただいまー、ポチ」
ポチかよ、と小さく呟いた。
定番だけど、その名前を付けてるのを実際に聞いたのは初めてのような気がする。
……そもそもポチってどういう意味だろう。
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