「A=B、B=C、すなわちA=Cである」私は幾度いくどとなく患者達に教えさとしてきた思考法を言葉にして呟いてみた。三段論法と呼ばれる思考の基礎であるが、患者達の多くがこれを理解できないでいる。彼らを非難するつもりはないが、それでも苛立つことは屡々しばしばある。思考することを放棄しているように見えるからだ。「彼らが何に脅かされているのか分からない」

 ある種の人生の滞留たいりゅうを感じる度に、ちょっとした気分転換をねて医院の近所を散歩することにしている。午前の診察を終えると二時間ばかりの昼休みが訪れる。急務の仕事がない限りは、束の間の休息時間なのだが、もとより食事に対する関心が薄いため、もっぱら運動に当てることにしている。行先はいつも決まっていた。

 閑静かんせいな住宅街の中に取り残された古びた神社のベンチに腰掛けて、私は日光を浴びながら煙草たばこくゆらせた。紫煙しえんを吹かしつつ、「A=C」について考えを巡らせる。八月の盛りに至って、ウァンウァンという蝉の合唱がひなびた神社に響き渡っている。入道雲の下で桜の木が青葉を風に揺らしている。その様子を眺めていると、不意に一人の患者の顔を思い出した。

 ――A=Cか。あの患者はそれを理解していたな。平行世界からやって来たという誇大妄想さえ除けば、立派な頭脳の持ち主であることは明白だった。確か、とある偉大なる種族に導かれて、この世界線を訪れることになったとか言っていたな――

 私はY氏が神妙な面持ちで語ってみせた壮大な物語を思い起こし、そのさい穿うがつような内容に感心した。時空連続体の歪曲わいきょく位相いそうの一致、世界線を超えた精神の転移てんい、そして事件の裏側で暗躍あんやくする偉大なる種族の存在など、彼は滔々とうとうと訴えたのちにどうなったのか。

 Y氏は両親を金槌かなづちで殴り倒そうとして失敗し、病院に保護された身であった。私は行政から委託いたくされて彼の精神鑑定を行ったのだが、患者が誇大妄想に取り憑かれていることは明らかだった。私は長期にわたる入院の必要があると通告したのち御役御免おやくごめんとなって舞台を早々そうそうに降りた名もない医師役に過ぎない。あれから数年が経ったが、Y氏とは一度も会っていない。

「あれはまぎれもなく、A=Cの妄想だったな」私の人生に突如とつじょとして現れて消えていった患者の物語を反芻はんすうする。ある意味では、私が彼の人生に終止符ピリオドを打ったのである。ちょっと通り掛かっただけの医者に異常を通告された。その時、Y氏は何を思ったのだろう。「罪深いことをしてしまった」

 蝉の声を聞きながら考え事にふけっていたため、自然と注意が散漫さんまんになっていたのだろう。ポンと肩に手を掛けられるまで、私は背後に人が忍び寄っていたことに全く気が付かなかった。吃驚びっくりして振り返ると作務衣さむえを身にまとった青年がにこやかな笑みを浮かべて立っていた。

「最近、よくお見掛けしますね」と軽やかに言いながら、作務衣さむえの青年はベンチに腰掛けた。無論、私は闖入者ちんにゅうしゃ戸惑とまどったが青年が神職者であるかもしれないと考え直して、腰を浮かせて席を譲った。青年と私は隣合う形でベンチを共有することになった。居心地の悪さを感じて黙っていると、青年は内緒話ないしょばなしをするかのように小さく言った。「あの方のことなら心配には及びません」

 私は思わず息を呑んで青年をけずにはいられなかった。作務衣さむえの青年は可愛いらしい微笑びしょうを浮かべて、果てしなく広がる蒼空あおぞらあおぎ見ていたが、私がただすのを制するかのように、ポツリポツリと話し始めた。彼はこのやしろ神木しんぼくを指さして言う。それは蝉に関する白昼夢めいた物語だった。

「あの神木しんぼくむらがるおびただしいまでの蝉の姿をご覧なさい。あの桜の木の下には死体が埋まっています。蝉の幼虫は七年間という月日を掛けて大樹の根から蜜液みつえきを吸い続けて育ちます。大樹は死体から養分をもらい、蝉は大樹から蜜液みつえきすすって生きているのです。つまり、A=B、B=C、すなわちA=Cとなります。

 あの一匹ずつが死体から養分を吸い上げていると考えるとゾッとするでしょう。しかし、これはまぎれもない真実なのです。貴方あなたはイスの偉大なる種族を知っていますね。ほら、患者が打ち明けた話に出てきた生命体のことですよ。あの大樹に群がる蝉の全ての正体が、イスの偉大なる種族のれのてと言ったら驚きますかね。

 は遠い昔に起きた戦争に敗北しました。宇宙の果てから飛来した、おぞましい怪物と戦い、ほとんど壊滅寸前まで追い詰められてしまったのです。は精神を未来へと送り込むことでなんのがれましたが、その宿主しゅくしゅとして選ばれた生物が蝉でした。は人知れず繁栄はんえい謳歌おうかしています。あの嫌らしくとがった口吻こうふんをご覧なさい。いずれ、あの針が人間の肉に突き立てられる時が訪れるのです」

 青年はそう言うとケタケタと嘲笑あざわらい始めた。私は人間の肉体に口吻こうふんを突き立てる蝉の姿を想像して、ひそかに戦慄せんりつせずにはいられなかった。狂ったような青年の笑い声と蝉の鳴き声だけが、閑散かんさんとした境内けいだいにいつまでも響き続けていた。

 

                  (了)

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