地下壕の怪物

 真夏の盛りに至って、油蝉の死骸に蟻が群がっている。僕はシャツのボタンを外してえりを開いたが、ちょっとの風も吹かない夜のため、汗の露がしずくとなって滴り落ちるばかりだった。

「こんな深夜なのだから、誰かと鉢合はちあわせするはずがない」僕はそう考えながら墓石はかいしの前に線香をべた。月光の下で御影石みかげいしの墓が白々と輝いているようだった。墓石はかいしに彫られた友人の名前を指でぜてみたが、彼にまつわる記憶はもやに包まれたようで一向に判然としない。「薄情者だとなじってくれても構わないよ」

 数年前に母親を亡くした時も涙は流れなかった。肉親を失った悲愴ひそうよりも、鬼畜から解放された安楽あんらくまさっていたからだ。ひつぎに収められた母親の身体は想像していたよりも小さかった。だが、それを見た所で彼女が犯した罪を許す気には到底なれなかった。僕の心身に刻まれた傷が癒えることはない。

 

          ※

 

 人目を忍ぶように墓参りを済ませたのち、量販店で安酒を買って家路に着いた。間借りしているアパートの自室は伽藍堂がらんどうとしており、快適な暮らしとは縁遠い日々を送っていることは一目瞭然いちもくりょうぜんである。財産と呼べる物はほとんどないが、雨風をしのげるだけで充分だった。少なくとも、ここには僕の生活をおびやかす存在はいない。

 薄っぺらな座布団に腰を下ろすと、さして強くもないくせに酒をあおり続けた。僕は鈍麻どんました脳髄で故人との思い出を反芻はんすうする。成人してからのち、彼とは数える程しか顔を合わせていない。そのためか幼い頃の記憶ばかりがよみがえってくる。こんな時でさえ、母親の影におびえている自分が情けなかった。

 数少ない友達の一人だったK君は強い正義感の持ち主だった。彼は大学を卒業した後に警察官として市民を守る道を選んだ。たが、皮肉にもK君の正義は市民によって裏切られたようなものだった。

 K君は交番勤務に向かう途中にトラックに跳ねられて死んだ。運転手は長らくてんかんわずらっていたらしい。自動車の運転中に発作を起こしたことが争点となった。結局、裁判官はこれを偶発的な事故として判決をくだした。若い警察官が勤務中に命を落としたという事件は、ほとんど新聞にも取り上げられなかった。

 壮絶なまでの友人の生涯を思うと、自分の未練がましい生き様が浅ましく感じられた。世間に顔向けできないような後暗い暮らしを送っていることが恥ずかしい。社会に支えられることでようやく立っていることが情けない。僕は不安を拭い去るためにも酒を飲み続けた。

 朦朧もうろうとした意識の中で、K君の幻影を見た気がする。幼い頃に見せた溌剌はつらつとした笑顔で彼は何かを言っていた。だが、それを理解する前に深い眠りへと落ちていった。

 

          ※

 

 ピチョンピチョンというしずくが落ちる音が洞窟に響いている。僕は手に握っているカンテラをかざしながら、周囲をぐるりと見渡した。そこは僕とK君の思い出の場所――大戦の名残りである防空壕ぼうくうごうであった。幼い頃にK君と探検した秘密の洞窟であり、母親という暴君の手から逃れるためのとりででもあった。そこは介護施設建設のために閉鎖されて久しいはずだった。僕は程なくして自分が夢を見ていることに気が付いた。

 カンテラのとぼしい光から逃れるように、何かが暗がりの中を駆け抜けた。僕は水に濡れた壁を手で辿りながら、それの正体を確かめるために歩み寄った。

 暗闇にまぎれるようにして、それは宙に浮かんでいた。そいつはピンク色の肉塊にくかいのような形をした怪物だった。いやらしく蠕動ぜんどうする肉体にはおびただしい数の眼球が埋められている。縦に裂けたような器官は口なのだろう。剥き出しにした歯の隙間から、シューシューという細い息が漏れている。

 

 ――ああ、僕はこの不気味なものに喰い殺されるのか――

 

 その瞬間、何者かに手を思い切り引っ張られた。カンテラが地面に落ちてガラスが砕け散る。真っ暗闇の中で誰かがしきりに僕の手を引いている。握られた手の小ささから子供であることが分かった。その体躯たいくに似つかわしくない程の力で子供は僕を導いてゆく。地下壕ちかごうの外に近づいているのだろう。徐々に風景は色彩を取り戻しつつある。

 ついに洞窟の出口が見えた。肩で息する僕を押し出すように、子供がグイグイと小さな身体をぶつけてきた。僕は燦然さんぜんとした日光に目をしばたたかせながら、されるままに洞穴からまろび出た。

 窮地きゅうちから救ってくれた子供の正体なら分かっていた。だが、きちんと顔を見て別れを告げたかった。

 急いで振り返ったが、太陽の光に眼がくらみ、視界が明滅を繰り返す。ただ、小さな友達が溌溂はつらつとした笑顔を浮かべて、何かを言っているような気がした。残念ながら、その言葉は僕に届くことはない。


          ※

 

 目を覚ますと身体のあちこちがきしむように痛みだした。薄っぺらな座布団を枕にして寝ていたせいだろう。ふと手首を見やると小さな手の跡が赤く残っていた。腹の底から熱い湯が込み上げてくるような感覚に襲われた。枯れていたはずの涙腺るいせんに湯がにじみ出す。気が付いたら声を上げて泣いていた。死んでいたはずの感情がよみがえった――。

 

                                                    (了)


                                        


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