訶梨帝母

 五十嵐いがらし美玖みくは二人の子供を連れて、けやき通りと呼ばれている緩やかな坂道を、ゆらりゆらりと歩いていた。ふところに産まれて間もない嬰児みどりごを抱いているから、今年で三歳半になるはずの長男には母親が着ているシャツのすそを握らせている。手を繋いでやりたい気持ちはあったが、火がついたように夜泣きする長女の機嫌を伺うので手一杯だった。

 深夜の幹線道路を走る自動車のライトが母子おやこの横顔を照らしたが、彼女らの表情に満ち足りた様子は一切ない。実際、美玖は育児に疲れていた。一人目の子を授かった時に感じた冒険心はとっくの昔に雲散霧消うんさんむしょうし、今は半ば義務と化した日々の仕事を惰性だせいで乗り越えているに過ぎない。闘志にも似た燃えるような感情は、旦那や近隣住民の冷ややかな視線や態度によって踏みにじられ、最後には無惨にも揉み消されてしまった。

「母親なんだから」と言われる度に、次第に美玖の中の孤独は肥大していった。自分の味方であると信じていた旦那の口から、その残酷な宣言が飛び出した時、美玖は誰かに期待を掛けることの愚かしさを知った。足場を失ったような奇妙な浮遊感を覚え、次いで、美玖は腹の底で脈動するはらわたを絞られたような不思議な痛みを感じずにはいられなかった。「母親としての責任を果たせ」

 母親の言いつけ通りにシャツのすそを握りしめている長男の姿を一瞥いちべつすると、美玖はこれまでにも何度も考えてきたことを反芻はんすうする。自分は何を失って、何を得たのだろうかーーそれを数え上げることは容易だったが、美玖は誘惑を払うように頭を振るうことで耐えた。それを明確にしたところで、どうにかなるとは思えなかったし、未練を噛み締めることの苦々しさを彼女は知っていた。

 いつしか、鏡の前に立つ度に、五十嵐美玖は小さな失望を味わうようになっていた。かつては引き締まっていた肉体も二度の出産を経験して目も当てられないほどにだらしなく緩んでいる。美玖は今年で二十八歳を迎えるはずだが、未だに女盛りだった頃の記憶を捨てきれないでいた。彼女は独身を保っている同窓生の姿を見掛ける度に、言いしれない悔しさを感じてしまうのである。美玖は最近めっきり衰え始めた自身の容姿を密かに嘆いていた。

 夜の散歩の到着点は新守谷しんもりや駅前に架かる連絡橋れんらくきょうである。陸橋りっきょうの下では、けやき通りと国道二九四号線が交わり、色とりどりの自動車が忙しなく行き来している。ここでなら、人目を気にせずに夜泣きする幼子おさなごをあやすことができた。美玖は弛緩しかんした肉体を小さく揺すりながら、激しく泣き叫ぶ赤ちゃんのご機嫌取りに専念するが、小さなお姫様は依然として不快を全力で主張し続けている。美玖の後ろを追っていた長男は目下もっかを駆け抜ける自動車の観察に夢中になっていた。「キャッキャ」という笑い声と「オギャアオギャア」という泣き声が二重奏となって美玖を翻弄ほんろうする。

 どれほどの時間が経ったのだろう。ようやく、美玖の懸命な世話が実を結んだ。ふところに抱きついた嬰児みどりごは泣き止み、今では長男と一緒に黄色い笑い声を上げている。その掌を返したような様子を見る度に、美玖は小さな苛立いらだちを覚えずにはいられない。

 

「私は何を失って、何を得たのだろうか?」

 

 それを考えようとすると胸の内がうつろになったような感じがする。美玖の中で燃えていたはずの感情が急激に温度を落とす。隙間を埋め尽くすような勢いで、ブヨブヨとしたつかどころのない感情が腹の底から湧き出てくる。それは、嫌悪であり、憎悪であり、後悔であり、不安でもある。あらゆる負の情念が美玖の中で膨張してゆく。それを止めるすべを彼女は知らない。

 美玖は涙を手の甲で拭うと、陸橋りっきょう欄干らんかんにむしゃぶりついて自動車を見下ろしている長男の肩に手を掛けた。彼の背中には黒い小さな羽が生えており、臀部でんぶからは長い尻尾しっぽが伸びていた。それらは幾度となく悩まされてきた美玖の妄想の産物であった。最早もはや、子供たちの顔さえ美玖は思い出せなくなってきているらしい。

 腹の底で煮えたぎる情念を押し殺して、母親は子供たちを強く抱き締めた。そうしないと、夜鬼やきとなった子供たちが、自分の元から羽ばたいて逃げて行ってしまいそうに感じたからだ。美玖にとって子供たちは、自身がこの世に存在していることを証し立てる最後のとりでであった。言いしれない負の感情に飲み込まれて、沈んでゆくだけの人生は送りたくなかった。

 

 「愛とかじゃなくてごめんね」

 

 美玖は言葉が通じないと分かっていても、そう呟かずにはいられなかった。偽物にせものめいた満月の下で美玖は涙を流しながら子供たちを強く抱き締めた。

 悲しくも優しい空白の時間が、母子おやこの元に訪れていた。しかし、彼らは母親の涙の理由を知らない。ただ、夜鬼やきたちは母親の腕の中で身をよじって笑い続けていた。母親の脇腹をくすぐりながら二人の夜鬼やきたちはたわむれ続けていた。

 夜は深々しんしんけてゆく。一台の自動車がクラクションを鳴らして、連絡橋れんらくきょうの下を駆け抜けたが、誰も関心を示す者はいなかった。

 

                                                      (了)

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