CHUBBY BUNNY

 悪魔は決して空想の産物ではありません。それは思いもかけない所に潜んでいるものです。電柱の影や大路の角で息を殺して待ち構えていることもあれば、廃墟はいきょとなり果てた幽霊屋敷で跳梁跋扈ちょうりょうばっこしていることもあります。

 今さら、あの館に隠された秘密を暴き立てても仕方がありませんが、或いは、僕の体験が警句けいくとなるかもしれません。ただし、誓ってください。取材には応じますが、無闇に扇動せんどうするような記事を書かないと。

 神奈川県某所にくだんの館――貧血屋敷ひんけつやしきはあります。あの辺には珍しい西洋風の立派な建物で、廃墟はいきょとなる以前は裕福な老人が隠居していたらしいと聞いています。その老人は名家の出身ではありましたが、何かと暗い評判が尽きない方で、精神を病んだ末に自らの肉体を切りさいなんで謎の死を遂げたとか。

 僕たちの間では、深夜に館を訪ねると老人の幽霊に血を吸われるともっぱらの噂でした。貧血屋敷ひんけつやしきは若者に人気の肝試きもだめしとしてもてあそばれていました。実際、あの場所は退廃的な雰囲気に満ちていて、ちょっと背筋が冷たくなるものがあります。あらゆる意味で優秀な心霊スポットだったのです。思慮分別しりょぶんべつのない人間にとっては格好の遊び場だったのです。

 う僕も他愛たあいのない若者の一人でした。全く、暇を持て余した学生ほど無鉄砲むてっぽうな存在はありません。平成十年の夏の夜に懐中電灯を片手に握り締めて貧血屋敷ひんけつやしきを訪ねました。血が凍るほどの恐怖とは、あのような体験を指すのでしょう。いまだに、浅はかな自分を許せないでいます。

 貧血屋敷ひんけつやしき肝試きもだめしにはルールが幾つかあります。先ずは屋敷の調度品をいじらないこと。次にクスクスという笑い声のような音を聞いたら光を消すこと。そして暗闇の中で「チャビーバニー」と五回唱え、貧血ひんけつのような症状が出たら「ゲームセット」と叫ぶこと。

 この規則さえ遵守じゅんしゅすれば、老人の幽霊に呪われることはない、というお話でした。正直に言ってしまうと、僕はこの遊戯ゆうぎじみた慣例をあなどっていました。都市伝説にまとう無意味なオマジナイぐらいにしか考えていなかったのです。しかし、貧血屋敷ひんけつやしきの場合においては一定の意味を持つ儀式のようなものだったのかもしれません。お察しの通り、僕はこのルールを破りました。老人の幽霊を目の当たりにしないと満足できなかったのです。

 貧血屋敷ひんけつやしきの内装はルネサンス様式を思わせる気品あるもので、住人を失って久しい月日が流れているとはいえ、何処どこか整然とした美しさをかすかに残していました。多くの無法者によって踏み荒らされているとは思えないほど、調度品は綺麗に保たれていましたし、廃墟はいきょにありがちな下劣な落書きの類は一切ありません。完成された美術をそこなうには、ある種の勇気が必要となります。便所の壁に落書きはできても、モナリザの微笑みをペンキで塗り潰すことは難しいように――。

 しばらくの間、僕は幽霊屋敷に踏み込んでいることを忘れて、純粋に格調高い館の造形を観覧して楽しんでいました。しかし、老人の書斎しょさいおぼしき部屋に入った途端とたんに、自分がまぎれもない闖入者ちんにゅうしゃであることを思い知らされました。クスクス、という耳朶みみたぶくすぐるような笑い声が聞こえたのです。

 僕は懐中電灯の光を消して、「チャビーバニー」という奇妙なオマジナイを唱えながら、老人の幽霊が忍び寄ってくるのを待ちました。噂話の真相を確かめてやろうという意地悪な好奇心が恐怖を鈍麻どんまさせていたのだと思います。じきに目眩めまいに似た感覚に襲われ、僕は未知なる存在と接触したことを確信しました。虚空に向かって懐中電灯を向けると、止せばいいのに、再びスイッチを押してしまったのです。

 ああ、思い出しただけでも怖気おぞけが立ちます。そこには明確な輪郭りんかくを持たない生き物がうごめいていました。それは懐中電灯の光を屈折させることによって外貌を覆い隠しているようでした。波打つ無数の触手を持った深紅しんくかたまりのような不定形な怪物が、いやらしくねばつく一本の長い管を僕の首筋に吸い付かせて、まるでひるのように血液をすすっているのです。やがて、それは僕の血に染まることで不気味な肉体を浮かび上がらせているのだと気が付きました。

 僕は首筋に張り付いた触手を振り払うと、ほとんど半狂乱になって書斎しょさいから飛び出しました。血を失ったせいで思うように動かない足を懸命に走らせて、けつまろびつしながらも屋敷から逃げ出しました。どのような道程みちのりを辿って帰ったかは記憶が定かではありません。夜が白々と明ける頃になってようやく正体を取り戻し、自分が寄宿している学生寮の自室に落ち延びたことを知りました。

 あれから、もうすぐ三年が経ちますが、安堵あんどするばかりか不安はつのる一方です。僕は貧血屋敷ひんけつやしきにおける儀式を破って逃げ出しました。そのせいで、あの不可視の悪魔を解き放ってしまったのではないか、という疑念を払拭ふっしょくできないでいるのです。今にも、あのクスクスという笑い声が聞こえてきそうで、たまらなく恐ろしいのです――。

 

(了)


                                               














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