血胤

「昭和六十四年の夏の事は忘れないだろう。俺の人生史上、最低最悪の日だったからな。油蝉あぶらぜみ五月蝿うるさいくらいに鳴いていた。お前を見ていると、その日の事を思い出す。全く、鬱陶うっとうしい記憶だよ」

 そう言うと、生駒いこま修平しゅうへいはショットグラスに注がれたウィスキーを飲み干した。人払いをさせたせいで閑古鳥かんこどりが鳴いている。それなりの補償金を握らせないとバーの主人も納得しないだろう。何にせよ、金がいることだけは確かだ。そして、また横領おうりょうに手を染める。

金城かねしろ拓也たくや、お前がヤクザの事務局長として座に納まることができたのは、捜査四課の刑事である俺のおかげでもあるんだぜ」

 生駒いこま刑事は油断のない男である。数年間に及んでヤクザを脅してきただけの胆力はある。俺を破滅させることなど朝飯前だろう。飴色あめいろをしたカウンターに、金が包まれた封筒を置いた。いつかは上役うわやく露見ろけんするに違いない。

「これは俺の勝手な憶測だが、お前の親はろくでもない大人に違いない。かえるかえるというやつだ。いくらつくろっても血統までは誤魔化ごまかせねえ」

 生駒いこまがゲタゲタと笑い始めた。下品な哄笑こうしょうを聞きながら考える。この男に生きる価値など微塵みじんもない。この汚職刑事を殺さねばならない、と。

 

 腹一杯に殺意を抱えたまま家路に着いた。今夜は素面しらふでは眠れそうにない。脳髄を麻痺まひさせて情動を抑制する必要がありそうだった。以前に中国人と麻薬を取引した際に手に入れた遼丹リャオタンの存在を思い出した。冷蔵庫から缶ビールを取り出しながら、老いさらばえた中国人が言っていたことを反芻はんすうする。

「これは過去に遡行そこうできる薬だ。強い信念があれば、望み通りの時間に戻ることができるはずだ」

 にわかには信じられないが、老人の穏やかな微笑びしょうは確信に満ちたものだった。いずれにせよ、麻薬売買の際に渡された品物である以上は、神経に作用する効果を持っているのだろう。しばらくの間、ダイニングテーブルの上で遼丹リャオタンもてあそんでいたが、覚悟を決めて口に含んだ。ビールと共に胃に流し込む。今夜は正気で過ごしたくなかった。

 

「お客さん、大丈夫ですか?」タクシーの運転手に声を掛けられて目を覚ました。窓外そうがいでは油蝉あぶらぜみ五月蝿うるさいくらいに鳴いている。苛烈かれつ陽射ひざしがアスファルトを焼いて陽炎かげろうを起こしている。俺は目をしばたたかせながら運転手に訊ねた。「今年は何年だったっけ?」

 タクシーの運転手はため息を吐きながら答えた。「昭和六十四年ですよ」と。俺は思わず天井をあおいでしまった。信じ難いことに時間をさかのぼって来たらしい。あの老人の言ったことは真実だったようだ。

「それより、お客さん。ここが生駒いこま酒店さけてんです」

 運転手の言葉を聞いて驚いた。彼の言う通りなら、生駒いこま修平しゅうへいは十六歳の少年であるはずだ。俺は居ても立ってもいられずに車を飛び出した。もし、これが現実ならば千載一遇せんざいいちぐうの好機である。ゆがねじれた人生を修正できるかもしれない。タクシーの運転手が何かを叫んでいるが、構わずに酒店に向かって歩いて行く。

 砂埃すなぼこりまみれた引き戸に手を掛けようとした時、ベルの音を立てながらドアが先に開いた。俺は店から出てきた人物を見て、動揺のあまりに口を開けてしまった。そこには若かりし日の母親の金城かねしろ有里ゆりが立っていた。

「なんだよ。まだいたのか」店の奥から足音を鳴らして少年が出てきた。面皰面にきびづらみにくい少年だ。生駒いこま修平しゅうへいであることは明白だった。二人の男に挟まれるようにして立っている有里ゆりは目を白黒させている。「あんたが有里ゆり旦那だんなか?」

 生駒いこま少年はあざけるような口調で言った。突然、有里ゆりが泣き始めた。俺は何が起こっているのか分からずに、若き日の母親を見つめるばかりである。生駒いこま少年がズカズカと近寄って有里ゆりの腕を乱暴に引くと、ニヤリと下品な笑みを浮かべた。そして、俺に見せつけるように有里ゆりにキスをした。

 その瞬間、殺意が沸騰ふっとうした。俺は母親を突き飛ばして生駒いこま少年につかみかかった。握り締めた拳を振り下ろした。少年の悲鳴を聞きながら、夢中になって拳を振るい続けた。やがて、興奮のあまりに視界が明滅し始めた。徐々に意識が薄れてゆく。そして――。

 

 目が覚めるとソファの上に横たわっていた。おびただしいまでに汗をかいている。俺は生駒いこま少年が言ったことを思い出していた。あいつは俺のことを「有里ゆり旦那だんな」と思い込んでいた。それが真実ならば、母親の有里ゆり不貞ふていはたらいていたことになる。

 俺の精神は時間を超えて父親の肉体に宿ったのかもしれない。父親が妻の不貞ふていあばきに生駒いこま酒店さけてんに乗り込もうとしていたのだとすると、あの場に居合わせた理由にもなりそうだ。もしかしたら、俺の本当の父親は――、そこまで考えた瞬間、胃液がせり上がり、盛大に嘔吐おうとした。

 

「いくらつくろっても血統までは誤魔化ごまかせねえ」

 

 なるほど、確かに血は争えないはずだ。俺の肉体の内側には鬼畜きちくの血が流れている。俺はヨタヨタとした頼りない足取りでキッチンに向かい始めた。一刻も早く、瀉血しゃけつしなければならない。使っていない包丁が何本かあったはずだ。

 

             (了)


                             

 

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