「この絵には血が通（かよ）っていない」と今井（いまい）三紀夫（みきお）は思った。時刻は深夜二時を指している。蝋燭（ろうそく）の灯火（ともしび）に照らされた絵画は壮絶なものだった。

　多くの級友が東京に憧れて故郷（ふるさと）を後にしたが、三紀夫（みきお）だけは違った。油壺（あぶらつぼ）湾（わん）に程近い屋敷にアトリエを設（しつら）えて、故郷（ふるさと）の絵を描き続ける暮らしを送っている。彼は今年の春から取り掛かった仕事の出来栄えに満足していない。

　三浦一族が北条早雲（ほうじょうそううん）との戦いに敗れ、油壺（あぶらつぼ）湾（わん）に沈んでいく様を描いた絵なのだが、何故だか肉迫（にくはく）する凄みがない。三紀夫（みきお）は蝋燭（ろうそく）の灯火（ともしび）を受けて、怪しい陰を落とす絵を眺めていたが、やがて諦（あきら）めて床に着くことにした。

　三紀夫（みきお）が蝋燭（ろうそく）の火を消そうとした時だった。閉ざされていた窓がコツコツと小さくノックされた。三紀夫（みきお）はギョッとして様子を窺（うかが）っていたが、窓を叩く音は止まない。三紀夫（みきお）は燭台（しょくだい）をテーブルに置くと、足音を忍ばせて窓辺に近寄っていった。その合間にも、ノックは続いている。コツコツ、コツコツ――。

　三紀夫（みきお）は震える指で腰高窓（こしたかまど）の留（と）め金（がね）を外し、ちょっとだけガラスを押してみた。鳥や獣の仕業（しわざ）なら音は治まるはずだ。しかし、相変わらず窓を鳴らす音は止まない。三紀夫（みきお）にカーテンを開ける勇気はない。どうしたものかと考えていると、消え入りそうな声で話し掛けられた。

「三紀夫（みきお）くん、僕だ。金木（かねき）久弥（ひさや）だ。どうか、このままで聞いて欲しい。カーテンを開けないでくれ」

　確かに旧友の金木（かねき）久弥（ひさや）の声である。久弥（ひさや）は貿易を営んでいるという親戚に引き取られて、東京で不自由ない暮らしをしている。小さな町であるから、久弥（ひさや）が帰郷したならば、直（す）ぐに噂が耳に入るはずだ。隠棲（いんせい）しているとはいえ、三紀夫（みきお）は全く交流を断（た）っているわけではない。「いつの間に帰郷したのだろうか」と三紀夫（みきお）は訝（いぶか）しんだ。すると、窓の向こう側にいる客は声を低くして帰郷の理由を語り始めた。

「小さな面皰（にきび）から破滅は始まった。ある朝、僕は髭（ひげ）を剃（そ）ろうと鏡を覗（のぞ）いた。すると、頬に腫（は）れ物（もの）のようなものができていた。この歳になって面皰（にきび）を晒（さら）すのは恥ずかしい――そう思って潰してしまった。それがいけなかったのかもしれない。

　翌日から面皰（にきび）はますます酷くなった。僕は躍起（やっき）になって膿汁（のうじゅう）を絞り続けた。いつか君が言ってくれたけれど、僕の容姿は整っている方だ。それを自負していただけ、肉の裏に巣食う黴菌（ばいきん）を許せなかったのだ。実際、あの膿汁（のうじゅう）の臭いは全く酷いものだった。

　その頃からだったと思う。僕は奇妙な夢に悩まされるようになった。それは海原（うなばら）の底に眠る都市の夢だ。竜宮城（りゅうぐうじょう）を彷彿（ほうふつ）とさせる絢爛豪華（けんらんごうか）な御殿（ごてん）の中で、醜悪（しゅうあく）な生き物が跳梁跋扈（ちょうりょうばっこ）する奇天烈（きてれつ）な夢だ。病質な痙攣（けいれん）を伴う悪夢を見る度に、鏡を覗（のぞ）かずにはいられなかった。面皰（にきび）の痕（あと）が醜悪（しゅうあく）な瘡蓋（かさぶた）になって肌を覆い始めている――そう思うと全身が痒（かゆ）くて堪（たま）らない。

　どうか、僕の告解（こっかい）を聞いて欲しい。先日、僕は遂（つい）に大罪を犯した。まだ十にも満たない歳頃の少年の命を奪ってしまったのだ。僕は気が惑っていたに違いない。あの少年が僕を指さして笑っていたように見えたのだ。駄菓子屋の前で遊んでいた子供を掴（つか）まえて、この醜い手で首を締めて殺したのだ。

　もはや、僕のいるべき場所は陸にはないと思う。せめて故郷（ふるさと）の海で死にたいと願っている。どうやら僕の神経は狂ってしまったみたいだ。喉が渇いてしようがない。あの奇妙な海底都市が恋しくて堪（たま）らない。僕はこれから死出（しで）の旅（たび）にゆくつもりだ。その前に誰かに別れを告げたかったのだ。どうか、僕の我儘（わがまま）を許してくれ」

　久弥（ひさや）はそこまで語ると咽（むせ）び泣き始めた。三紀夫（みきお）は旧友の懺悔（ざんげ）を聴（き）き遂（と）げた後、どうしたら良いか皆目見当（かいもくけんとう）もつかずに困惑していた。しばらくの間、恐怖心と好奇心の狭間で揺れていたが、最終的には後者が勝（まさ）った。三紀夫（みきお）はカーテンを開けようと手を伸ばした。三紀夫（みきお）の指が緋色（ひいろ）の帳幕（ちょうまく）に掛かり、ほんの少しだけ揺らした。

　窓の向こうに三浦久弥（みうらひさや）はいなかった。カーテンの隙間から蝋燭（ろうそく）の光が漏れたのを見たのだろう。既に久弥（ひさや）の姿はない。ただ、林を駆け抜ける跫音（きょうおん）だけが微（かす）かに聞こえてくるばかりである。

　不意に一陣の風が起こり、三紀夫（みきお）の頬を舐めて去っていく。鼻を衝（つ）くような腐乱臭が林の奥から漂っていることに彼は気がついた。ちょっとだけ開けられた窓の隙間から不穏な空気が流れ込んでいる。三紀夫（みきお）は窓を閉めようと留（と）め金（がね）に指を掛けたが、窓の縦框（たてかまち）に何かが挟まっているようで錠（じょう）が下りない。

　そこにはひと握り程の大きさをした鱗（うろこ）が挟まっていた。鱗（うろこ）は蝋燭（ろうそく）の灯火（ともしび）を受けて輝いている。「ああ、行ってしまったのだな」と三紀夫（みきお）は思った。この世のどこかにあるという竜宮城（りゅうぐうじょう）へと久弥（ひさや）は旅立ってしまった。油壺（あぶらつぼ）の海に静かに沈んでいく男の様子を思うと、三紀夫（みきお）は何故だか無性（むしょう）に寂しくなった。