GEHENNA

 昭和三十年の夏の出来事である。佐野さの京介きょうすけ高円寺こうえんじの家で仕事をしていると、突如として、安普請やすぶしん門扉もんぴを叩く者が現れた。彼は覚束おぼつかない足取りで玄関までやって来ると、曇りガラスから差す日差しに眉をしかめた。

「小説家の佐野さの京介きょうすけさんですか?」建付けの悪い戸を引くと、白髪頭を短く刈り込んだ男が立っていた。京介きょうすけのことを小説家と呼ぶ者は多くない。彼はいぶかしみながらうなずいた。

 男はしわの寄ったシャツの胸ポケットから警察手帳を取り出した。京介きょうすけは手帳を一瞥すると小さく欠伸あくびをした。刑事は笑みを浮かべて言う。

「一昨年前に豊島としま区で起きた宝石店襲撃事件の捜査をしています。この写真の内容に見覚えはありませんか?」

 京介きょうすけは生返事をして聞き流していたが、刑事が手帳の間から二枚の写真を取り出すと、目の色を変えてそれらを凝視し始めた。一枚の写真には目元の涼しい美男子の姿が、もう一枚の写真には暗い色をした偏方多面体へんぽうためんたいの宝石がられている。

「どちらも見覚えがあります。長い話になるかもしれません。どうぞ上がってください」

 

 数分後、卓袱台ちゃぶだいを挟んで二人の男が対座していた。白髪頭の刑事は差し出された茶湯で唇を湿らすと、さっそく、佐野さのの邸宅を訪ねたよしを語り始めた。

「一昨年前の夏に、豊島としま区にある宝石店が襲撃されました。従業員十名が皆殺しにされたむごたらしい事件です。ぐに犯人は逮捕されたのですが獄中で死んでおります。死人に口なしということで、世間は興味を失ったようですが、どうにもちない点があります。

 というのも、この写真の男と宝石のことなのです。男は宝石店の従業員の一人で、成田なりたとおるという名前らしいのですが、事件当日も出勤していた記録が残されています。先程も申し上げた通り、従業員は無惨にも皆殺されているわけなのですが、なぜか成田なりたとおるの遺体だけ見つかっていないのです。

 不審に思って、帳簿を調べてみたところ、ある宝石が事件を境に紛失しているようなのです。男の失踪と宝石の紛失――どう考えても奇妙です。すでに犯人は獄中死していますが、裏で手引きしていた者がいても不思議じゃない。そこで、成田なりたとおると宝石の行方ゆくえを探しているというわけです」

 そこまで話すと、老いた刑事は茶湯を飲み干した。佐野さの京介きょうすけは腕を組んで話を聞いていたが、刑事が卓袱台ちゃぶだい湯呑ゆのみを置いたのをきっかけに、ポツリポツリと話し始めた。

成田なりたとおるとは荻窪おぎくぼの喫茶店で知り合いました。私は小説を書きますが、彼は良い相談相手でした。眼光がんこう紙背しはいてっするという感じで、成田なりたは文学をよく心得ておりました。私は彼を信用していました。依存していたといっても過言ではありません。

 その日も私達は喫茶店で会っていました。成田なりたは雑誌に掲載されるはずの原稿を読みながら言います。「君は本当の恐怖を知らないようだ」と。私はヒヤリとしてしまいました。成田なりたの指摘はまとたからです。

 成田なりたはしどろもどろする私を見て言います。「君、ちょっと地獄を見たいとは思わないかね?」と。彼は腹に響くような低い声で、芥川龍之介あくたがわりゅうのすけの『地獄変じごくへん』の話を始めました。安全から芸術は生まれない、という彼の意見は正しかったように思えました。

 私が首肯しゅこうするのを見ると、成田なりたは黒革の鞄の中から、小箱に収められた黒色の宝石を取り出して言いました。「この中に地獄があるぜ」と。

 それはまことに奇妙な品物でした。偏方多面体へんぽうためんたいというのでしょうか。複雑な角度で切られた宝石で、吸い込まれそうなほどの暗色をしています。また、その宝石を収める箱も不気味な意匠いしょうが施されていました。金細工で出来た帯と支柱が宝石を支えていて、ちょうど箱に吊り下げられるようになっております。彼にうながされるままに、私はそれらをジッと観察しました。すると、宝石は血のような赤色に変わってゆくではありませんか。

 宝石の中には確かに地獄が存在しておりました。鬼に呵責かしゃくされる人々が臓物はらわたを垂らしながら逃げ惑い、耳をつんざかんばかりの叫びを上げていました。

 夢中になって観察し続けている私に向かって彼はささやきました。「いずれ君も地獄に落ちるのだ」と。私はゾッとして成田なりたを見上げようとしましたが、全ては手遅れでした。

 パタンという音を立てて、箱が閉ざされると共に、私は正気を失いました。やがて、目を覚ましましたが、喫茶店に彼の姿はありませんでした。以降、成田なりたとおるとは会っていません」

 刑事は神妙な顔をして京介きょうすけの話を聞いていたが、じきに捜査の手掛かりにならないことを知り、落胆せずにはいられなかった。結局、成田なりたとおると宝石の関係は謎のままである。いずれにしても、捜査を止めるわけにはいかない。刑事は適当な礼を述べて立ち上がった。

 白髪頭の刑事が屋敷を去った後、京介きょうすけはフラフラとした覚束おぼつかない足取りで文机ふづくえに向かった。文鎮ぶんちんの下で原稿用紙が風にはためいている。佐野さの京介きょうすけは万年筆を手に取ると地獄をつづり始めた。開け放たれた窓に吊り下げられた風鈴が鳴った。


                          (了)



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