十九刻 阿修羅

 日光本家の大広間。


 集まった御三家の当主たちが、大きなテーブルを囲んで席についている。御神の代わりに一番奥の中央の席に座る花蓮は、いつもに増して険しい顔をしていた。


「……それでは、ただいまより、当主会議を始めます。本日お集まりいただきましたのは、他でもない、日光本家の上層部の神子が御神様の暗殺を企てた件について、お話しさせていただきたいからです」


 花蓮が淡々と話し始め、静かにしていた沙乃が、怒りに満ちた声で口を挟んだ。


「そのクソ野郎は死んだんとちゃうの?」


「ええ。死にました。邪術によって」


 花蓮の言葉に沙乃の驚愕の表情を見せる。目を閉じたまま話を聞いていた尊が静かに目を開けた。


「邪術? 邪術っていうたんか?」


「はい。暗殺を目論んだ神子は邪術に手を染め、裏で邪術師と繋がっていたようです。私が本家にいない時を見計らって、御神様を邪術で殺そうとしたと」


「邪術って……」


「生き残りか?」


 尊が沙乃の言葉を遮るように口を挟んだ。


「十一年前の話でしょうか?」


「さよう。邪術師による御三家の襲撃。先代御神が現御神の出産と共に死んだのは、十一年前の邪術師の生き残りによるものだと聞いたことがあるが」


 沙乃が尊の言葉に「え……?」と小さく声をあげた。


「信憑性はございません。先代御神様はそもそもあまり身体のお強い方ではありませんでしたし、五十歳で出産となると、身体への負荷も想像を絶するものだったでしょう。一概に、邪術師によるものだとは言えませんが、邪術師の中には御三家に恨みを持つ元神子も多くいるのでしょう。十一年前に襲撃をかけてきた邪術師中には、間違いなく御三家を裏切った元神子たちがいた。邪神を信仰するなど、馬鹿げたことです」


「邪神は四年前の大災厄の時に消滅した神木村と共に、万年桜が枯れたさかい、こちらの世界にこれなくなったはずやないん?」


 沙乃と花蓮の視線が尊に注がれる。


「……そのはずだ。神木村は我ら、月光の管轄だ。そして、確かに、四年前の大災厄の際、神木村から発生した禍ツ神により、村は消滅。万年桜も枯れ落ち、邪神はこちらの世界にこれなくなった……だが」


「なぜ、いなくなった邪神を信仰し、邪神に力を借りる邪術師が、また現れたのですか」


「……月光の方で、無き神木村を調べよう」


「……うちらは、なにか見落としとるんか……?」


 沙乃が小さく呟いた言葉に花蓮が額を押さえて大きく息を吐き、尊が静かに目を閉じた。


    ◇


 八作の家の縁側に腰掛けた衣織は、隣で楽しそうに話しながら足をばたつかせている美雨を優しい眼差しで見つめていた。美雨は衣織が相槌をうって話を聞いてくれるのが嬉しいのか、終始笑顔を浮かべている。夏の暑い日差しの中、日陰になっていて涼しい縁側は、和やかな雰囲気が漂っていた。


 ふいに美雨の後ろから伸びてきた手が美雨を背中から抱きしめて、美雨が小さく悲鳴を漏らす。衣織も驚いて後ろを見ると、瑠花がいたずらっ子のような笑顔を浮かべていた。


「なに話してんだよ」


「瑠花ちゃんには内緒!」


「なんだと~? 俺を仲間外れにするとはいい度胸だなあ?」


 瑠花が美雨をこそぐって、美雨が楽しそうな笑い声を上げながらジタバタと暴れる。巻き込まれないように少し距離を取りつつ、衣織が二人の様子に困ったような笑顔を浮かべた。


「なんだか……仲良くなりましたね」


「あ? まあな。女子同士だからな」


「だからな!」


 美雨が嬉しそうに瑠花の手を握りながら衣織にピースサインをした。


「三人とも~、スイカが切れたってよー」


 将が切り分けられたスイカが乗った皿を持って台所から出てくる。その後ろから濡れた手を拭きながら八作が現れた。


「どうぞ、食べてください」


「美雨はスイカ、食べれるのか?」


「食べれるよ!」


「砂糖や菓子類じゃなければ食べられるようです」


「ああ、そうなのか」


「スイカは好きだよ!」


 それぞれが切り分けられたスイカを手に取り、食べ始める。美雨がスイカの汁をこぼしそうになって、慌てて衣織がタオルを差し出したり、気を利かせた八作が塩を持ってきたりと、和やかな時間が流れた。美雨の口周りについたスイカの汁を拭きとっていた瑠花に対して、衣織が問いかける。


「瑠花さんは日光にいなくて大丈夫なんですか?」


「逆に邪魔になるだけだ。邪術師と繋がっていそうな神子をしらみつぶしに探してるらしいからな。姉御は基本、そういう厄介ごとに俺を巻き込みたがらない」


「花蓮さん、大丈夫なの?」


 将が心配そうに問いかけた。


「さあな。御神の代わりにいろいろ動いてるみてーだ。そろそろぶっ倒れないか、心配してるが、まあ、あの人のことだ。心配したところで、俺にできることなんかねーよ」


 和やかな雰囲気を壊すように鳴り響いた電話の音に、全員が話すのをやめた。八作が慌てた様子で食べかけのスイカを皿に乗せ、手を拭きながら受話器を取る。全員が八作の方を見て、口を開かなかった。誰もなにも言わなかったが、嫌な雰囲気が漂っていた。


「……ええ……はい……わかりました……」


 八作が静かにそう言って、受話器を置いた。


「美雨、行きますよ」


 美雨の目を真っすぐ見つめる八作の瞳は、真剣な色を放ち、美雨が不思議そうに首をかしげた。


「どこに?」


「月光本家。陰魅尊のところです」


 美雨以外の人は八作の言葉に驚愕し、ただ一人、美雨だけは「誰?」と怪訝そうに眉をひそめた。


    ◇


 八作に連れられて月光本家に足を踏み入れた美雨は、あからさまに不機嫌だった。衣織の後ろに隠れながら「みんなと遊びたかったのに……」とつぶやいている。


 衣織は優しく美雨をなだめながら、少し引きつった、緊張した笑顔を浮かべている。その理由は明確であり、いつもの朗らかな雰囲気を醸し出す八作が、先ほどから一切笑みを浮かべず、真剣な表情を浮かべていることに他ならない。美雨も文句を言いながら、いつもは違う八作に、どこか怯えているようだ。


 三人は月光本家の神子に案内されるまま奥へと進み、尊がいるという部屋に通された。


「失礼します」


 八作が戸を開け、三人が部屋に入ると、奥の机に手をついて険しい顔をしている尊と目が合った。部屋の重たい雰囲気に、美雨がおびえた様子で八作と衣織の後ろに隠れる。


「……お待たせいたしました」


「急に呼び出してすまない」


「ご用件を伺ってもよろしいでしょうか」


 八作に促された尊は、一瞬なにかを考えるように瞬きをして、美雨のことを見つめた。美雨がその視線に驚いて、衣織の後ろに隠れる。


「……時輪美雨に問いたい」


 名前を呼ばれ、恐る恐る美雨が顔を覗かせる。


陰魅真澄かげみますみ、という名に覚えはないか?」


 美雨が小さく首を横に振った。八作が聞きなれない名前に眉をひそめる。


「誰ですか?」


「……私の……」


 その時、閉ざした部屋の戸が大きな音を立てて壊れた。美雨が悲鳴を上げて、衣織が美雨をかばうように抱き寄せる。


 大破した扉の奥から現れたのは、一人の男の神子だった。血走って焦点の合っていない目に、手にした神器の刀には、赤い血が付着している。口から漏れ出す息は荒々しく、その姿は血に飢えた獣のようだった。


「ウオオオッ‼」


 男が大声を上げながら刀を振り上げて突進して来て、衣織が美雨をかばったまま身構える。


 男は一番近くにいた衣織に刀を振り下ろそうとしたが、素早く動いた八作に腕を掴まれ、刀が男の手から離れたことを確認した八作に、いとも容易く背負い投げられた。地面に叩きつけられた男が苦しげな悲鳴を上げ、馬乗りになった八作に締め上げられる。


「……いったい……なにが……」


 衣織が信じられないというように呟き、美雨を守るように強く抱きしめた。美雨は男が現れたときに悲鳴こそ上げたものの、衣織に抱きしめられた状態で、冷めきった目をして男を見つめている。八作に締め上げられた男は身動きが取れない中、大声を上げて八作から逃れようと暴れていた。


「尊様‼」


 肩から血を流した翼が、慌てた様子で部屋に駆け込んできた。着ている着物が血で汚れているが、その血の量から、翼が肩に負っている傷の血だけではないことがうかがえる。


 暴れ続ける男にどうしようもないと理解した八作が、暴れる男の首を絞めて気絶させ、男が静かになった。尊が席から立ち上がり、息を切らせた翼に近づいていく。


「何事だ」


「わかりません。突然、本家の神子の数人が暴れ出し、味方を見境なく殺し始めました。本家内は大混乱です」


「……最悪だ」


「何事です?」


 男を締め上げた八作が立ち上がって翼に近づいていくと、自分の着物の裾を破き、傷を負っている翼の肩に巻いて止血した。問われた尊は険しい表情のまま、苦々しげに言う。


阿修羅あしゅらだ」


「阿修羅?」


「三神の一人、阿修羅。月光分家の水鏡(みかがみ)家が管理していたはずだが、本家まで下ってきたということは、分家は壊滅したのであろう。阿修羅は戦いの禍ツ神。人の気を狂わせ、争いを産む。もとは人間に信仰されていた、れっきとした神の成れの果て。人間によって歪まされた神の憎悪は並大抵のものではなく、明確に意思を持って人を襲う。心の弱い者であれば、阿修羅に狂わされ、見境なく殺し合いを始める。……これでわかった。ここまでの一連の騒動。八岐大蛇、玉藻の前、阿修羅。すべての禍ツ神がいっせいに目覚めたのは、何者かの陰謀。邪術師が裏で手を引いている。翼」


「はい」


 八作に止血処置を施された翼が、尊に呼ばれて返事を返す。


「御三家……いや、宝刀だけでいい。宝刀当主に現在の状況を報告し、応援を」


「わかりました」


 翼が部屋から出ていく。その背を見送って、尊が衣織に抱きしめられている美雨を見つめた


「お前たちは早々にここを出るがいい。巻き込まれたくはないだろう」


「そういうわけにもいきません」


 八作が手についた血を拭いながら、静かに言った。


「ですが、美雨と衣織君は帰りなさい。ここにいては、巻き込まれてしまう」


「ですが……」


「衣織君。あなたは美雨を守ってください」


 八作が美雨に近づき、何食わぬ表情をしている美雨の頭を優しく撫でた。美雨はキョトンとした顔をしている。


「美雨。あなたは衣織君と逃げてくださいね。大丈夫。きっと衣織君が守ってくれますから」


 美雨が小さく口を開けて何かを言おうとした時、部屋の外から人の悲鳴と、大勢のドタバタという足音が聞こえてきて、手に各々の神器を持ち、服を血に染めた神子たちが現れた。八作が素早く神器を取り出し、衣織もそれに続いたが、二人が動くよりも早く、美雨の首の後ろからミーちゃんが飛び出し、大きな口を開けて、神子の大群に向かっていく。


「やめないか」


 尊の静かな声が響き、ミーちゃんが先頭にいた神子に食らいつく寸前に、半透明の光る壁のようなものが出現し、ミーちゃんがそれに衝突して止まる。壁は神子たちを外に押し出すように動き、押し出された神子たちは悲鳴を上げながら外に吹っ飛ばされた。


「お前が出る必要はない」


 ミーちゃんに対してそう言った尊の両目は青く光り輝いており、ミーちゃんはその光に怯んでいる様子だった。


「その子にこれ以上人を殺させるな。業を背負わせるな。お前が守らずとも、その子には守ってくれる者が十分にいる」


 ミーちゃんは尊を警戒するような素振りを見せていたが、大人しく、美雨の首の後ろへと戻っていった。美雨が不思議そうに「ミーちゃん?」と問いかける。


「時輪美雨。話の続きは後日しよう」


 そう言った尊は美雨と目を合わせようとはしなかったが、その声にはどこか、優しい色が見えた。


「行け」


 尊の一言で、衣織が美雨の手を取って部屋の外へと駆け出した。廊下の先から聞こえてくる叫び声や悲鳴、騒がしい足音や血の臭いに背を向け、衣織は小さな手を離さないように出口に向かって走っていく。


「い、いおり。痛い……きゃあっ‼」


 美雨が衣織の速さについていけず、足がもつれてその場に転んだ。二人の手が離れ、衣織が慌てて振り返り、美雨のもとへ駆け寄る。


「だ、大丈夫ですか……」


 衣織が美雨に手を差し伸べたとき、突然現れた男が後ろから美雨に向かって刀を振り上げていた。


狭霧さぎり‼」


 衣織が出現させた短剣で、美雨に向かって振り下ろされた刀を受け止めた。そのまま刀ごと男を後ろにはじき返し、美雨の手を掴み取って抱き寄せて、後ろからゾロゾロと現れた神子たちを睨みつける。


霧隠きりがくれ」


 あたりが霧に覆われ、神子たちが二人を見失った隙に、衣織は美雨を立ち上がらせて走り出した。美雨は転びそうになりながらも必死で衣織の後をついていく。どこからか聞こえてくる戦いの音を気にしないふりをしながら、衣織はただ美雨を逃がすことだけを考えていた。


 衣織に手を引かれながら、なんとか転ばないように走り続ける美雨は、どこからか感じる嫌な予感に胸騒ぎを覚えていた。どこからかはわからないが、広い本家のどこかから、禍ツ神ともまた違う、嫌な気配がして、美雨の中にいるミーちゃんが、その存在を敏感に感じ取っているのか、美雨の頭の中で騒いでいる。


 その時、美雨の真後ろからどす黒い気配がして、思わず美雨の足が止まる。衣織が驚いて立ち止まり、青冷めた表情をして立ち止まっている美雨に声を張り上げた。


「美雨ちゃん‼ 早く‼」


 美雨が力なく首を横に振る。


「……ミーちゃんが……」


「美雨ちゃん‼」


「ミーちゃんが『逃げろ』って」


 美雨がそう言った瞬間、美雨の首の後ろからミーちゃんが飛び出し、濃い霧の中、美雨の後ろに向かって突進していった。直後、肉が切れる音となにかの液体が飛び散る音がして、霧の中からどす黒い色をした刀を持った人物が現れた。


「申し訳ありません。蛭子様。しばし、お眠りください」


 それは、防人家で蓮華の首を絞め、美雨に刀を向けた老婆だった。無造作に降ろされた長い白髪と、赤黒く変色した瞳。生気をまるで感じない皺だらけの肌に、身に纏った黒い着物は赤い返り血で染まり、刀を握る左腕は骨で作られた義手になっている。


 老婆の刀で切りつけられたミーちゃんは、身体に大きな傷を負い、ピクリとも動かずぐったりとしている。その様子を見て青冷めた美雨は、近づいてくる老婆から逃げることもできず、ただ立ち尽くしていた。


 老婆が美雨に手を伸ばして、衣織がそれを止めるようと老婆に飛び掛かる。衣織の短剣を刀で受け止めた老婆は眉を顰め、刀を振って衣織を弾き飛ばした。


「鬱陶しいね」


 体勢を持ち直し、再び向かって来ようとしている衣織にそう吐き捨てた老婆が、右手を上にあげて、ぱちんと指を鳴らしたその時、あたりが一瞬で暗闇に飲み込まれ、衣織の視界が真っ暗になる。


「な……⁈」


 衣織が何も見えない中、闇雲に短剣を振った瞬間、どこから現れたのか、血走った目をした男の神子を切りつけ、衣織の頬に血が飛び散った。男の身体が倒れていくのを呆然と見つめた衣織の耳に、美雨の悲鳴が聞こえてきて、衣織が振り返る。


「愚かな。そう。そうやって愚かに殺し合え。我らが負った苦しみを超える苦しみを味わうが良い」


 暗闇の中、ぼんやりと浮かび上がった老婆と、老婆に抱えられ、ぐったりとしている美雨の姿に、衣織が咄嗟に手を伸ばしたが、その手が届く前に二人の姿が消え、あたりを覆っていた闇が晴れた。晴れた衣織の視界に飛び込んできたのは、各々の神器を持ち、返り血に染まって、敵意をむき出しにしている大量の神子たちの姿だった。


    ◇


 美雨と衣織を逃がした尊と八作は、部屋の外に出て、月光本家の大広間で戦っていた。月光本家の中は地獄絵図と化していて、正気を失った神子たちが殺し合いを繰り広げ、あたりは赤い鮮血で染まり、悲鳴と怒号で溢れている。


 神子たちに襲われている八作は、神器の槍を出して戦いながらも、神子たちを傷つけるわけにもいかず、峰打ちで神子たちを気絶させていた。一方、尊は神器の八尺瓊勾玉から発せられた光を弓のように変形させ、次々と光の矢を放ち、その矢が命中するたびに、神子たちがバタバタと倒れていく。だが、神子たちは減る様子を見せず、正気を保っていた神子たちも、徐々に正気を失い始めていた。


「……埒が明かない……」


「阿修羅は決して姿を見せず、人に隠れて人を狂わせる。本体を見つけなければ意味がない。陰に潜む阿修羅に目をつけられて、心を壊される。壊れた心は伝染し、次々に争いが生まれる」


 八作が襲い掛かってきた神子を投げ飛ばし、後ろから振り下ろされた刀を避けた。


「少し時間をくれ。八作真造」


 そう言うと尊がふいに動きを止め、光の弓矢を消して、八尺瓊勾玉をかざした。尊に向かって襲い掛かろうとしていた神子たちを槍の柄を使って薙ぎ払う。


天地明快てんちめいかい


 八尺瓊勾玉が光り輝き、あたりの地形を這うように照らしていくと、尊が目を開いた。


「見つけた」


 尊がそう言った瞬間、神器を振っていた神子の一人の背後に向かって、その場にあるすべての影が襲い掛かった。


 バリンと陶器が割れるような音がして、神子の背後から小柄なものが飛び出した。


「あぶり出してやったぞ」


 神子の背後から飛び出したのは、人間よりも少し小柄な禍々しい阿修羅像。三つの顔と六つの腕を持ち、尊の攻撃で、顔の一つにヒビが入っている。顔のヒビからザラザラした黒い煙のようなものが溢れ、六つの腕の指先には、半透明の黒く細い糸が絡まっており、その糸は正気を失っている神子たちに絡みついていた。


『オロかナリ』


 三つの顔に三つずつ付いた目玉はギョロギョロと動き、明確な悪意を持って、尊と八作を睨みつけていた。


『ゆガミユガめ、アシきモノ。ワレ、ユがメシニンゲンよ』


 阿修羅の目玉から血の涙が流れ、その場にいた神子たちを軒並みなぎ倒した八作が、槍を阿修羅に向けた。阿修羅は六本の腕を掲げ、その指先で黒い糸が怪しげに揺らめく。


『オロかなリおロかナリおろカなリオろカナリオロカなりオロかなリオロカナリ』


 阿修羅が指を動かした瞬間、倒れていた神子たちがゆらりと立ち上がった。神子たちは黒い色に繋がれており、阿修羅が腕を動かすたびに、糸に繋がれた神子たちが操られているようだった。


「本体を叩く。周りは任せた」


「かしこまりました」


 八作が槍を構えて不敵に笑うと槍の先が雷を纏い、あたりに雷の音が響いた。


貫雷かんらい網羅もうら


 あたりに雷が走り、網のように神子たちを取り囲む。神子たちの身動きを八作が封じている隙に、尊は八尺瓊勾玉の光を剣の形に変形させ、阿修羅に向かって走り出した。それに気が付いた阿修羅が、尊の方を見て目玉を見開き威嚇した。


影渡かげわたり」


 尊の姿が一瞬で消え失せ、阿修羅が気が付いた時には尊は阿修羅の背後の物陰から飛び出して、阿修羅を切りつけた。阿修羅が甲高い悲鳴を上げ、音を立てて像が割れる。だが、像に入った亀裂からザラザラとした黒い煙が溢れ、煙の中から大きな赤い目玉が無数に現れた。阿修羅の悲鳴は不気味な笑い声に変わり、赤い目玉が怪しげに歪んで、阿修羅は煙のような姿をしたまま、大広間を飛び出していった。


「小賢しい……」


 尊が憎々し気に吐き捨て、神子たちの身動きを封じている八作が、尊に声をかけた。


「尊さん‼ ここは私が食い止めますから、阿修羅を追ってください‼」


「言われずとも」


 尊が阿修羅を追って飛び出していく。残された八作は、次々と現れる神子たちに小さく息をつくと、雷を纏う槍を片手で振り、神子たちに向かってかまえた。


    ◇


 美雨が老婆に攫われた後、正気を失った神子たちに囲まれた衣織は、なんとか神子たちを倒し、美雨の姿を探して廊下を走っていた。


「美雨ちゃん‼ 美雨ちゃん‼」


 衣織の声は本家の中に響き渡ったが、その声に返事を返す美雨の声はない。あたりから聞こえてくるのはドタバタという足音と悲鳴だけで、美雨の姿はどこにもなかった。


 衣織が息を切らせて立ち止まった時、廊下の先から神子たちが現れた。全員血走った目をしていて、正気ではない。衣織は小さく舌打ちをすると、向かってくる神子たちに向かって神器の短剣をかまえた。


濃霧のうむ


 神器から発生した霧が神子たちを包み込み、霧を吸い込んだ神子たちが小さくうめき声を出すと気絶してバタバタと倒れた。倒れた神子たちの脇を通り抜け、衣織は廊下を駆け抜けていく。ふと、隣の部屋の襖から気配を感じ、衣織が立ち止まった。


 その瞬間、襖を突き破って現れた人物に武器を振り下ろされ、衣織が咄嗟に短刀でそれを受け止めた。


「衣織⁈」


「⁈」


 襖を突き破って現れたのは、神器である扇を持った翼だった。衣織から離れ、扇を降ろした翼は訝しげに眉を顰める。


「なぜ逃げていない? 時輪美雨はどうした?」


「……攫われました」


「攫われた⁈」


 翼が信じられないというような表情をして、衣織が悔しげに拳を握りしめる。


「誰に?」


「わかりません……怪しい老婆です。見たことのない術を使っていました」


「……邪術師か……‼」


 翼が苦々し気な表情をする。


「なぜ……なぜ、時輪美雨が狙われる……⁈」


「わかりません……! わからないけど……‼」


 衣織が泣きそうな顔をして拳を握りしめながら俯いた。


「守れなかった……‼」


 その様子を静かに見つめた翼は「行け」と顎で自分の後ろの廊下を指した。


「この先が出口だ。時輪美雨は神木村に連れていかれた可能性が高い。沙乃がこちらに向かっているはずだ。ここは任せて、お前は沙乃と共に時輪美雨を救いに行け」


 翼の言葉に衣織が一瞬驚いたように動きを止めて「はい!」と力強く言うと、翼の隣を走り抜けていった。その背中を見送って、翼は前を向く。廊下の先から聞こえてくる怒号に顔をしかめ、その場に向かおうと一歩踏み出したその時、聞こえた怒号が悲鳴に変わり、翼が驚いて足を止めた。


「なんだ……?」


 翼が神器を構えながら廊下の先を睨みつける。廊下の先から黒い煙のような姿に変わった阿修羅が、赤く充血した目を血走らせながら、不気味な笑い声を響かせて翼に向かって真っすぐ向かってきた。翼が驚いて顔をかばうように神器の扇で顔を隠し、煙は一瞬で翼を覆いつくして、翼の髪や服をひらめかせてすり抜けていく。


 煙が翼をすり抜け、翼が目を開けると、翼の身体に半透明な黒い糸が絡みついており、手足に食い込んでいた。


「これは……」


 阿修羅の不気味な笑い声が響き、翼が振り返ると、黒い煙は徐々に形を作り上げ、真っ黒な阿修羅像に姿を変えていたが、像の身体中に赤く充血した目が付いており、不気味にギョロギョロとあたりを見回している。その阿修羅の指先に絡まっている糸は、翼と繋がっていた。


 阿修羅が怪しげな笑みを浮かべ、六本の腕の一本を動かすと、翼の腕が引っ張られ、翼がバランスを崩す。


「この……‼」


 翼が阿修羅に向かって扇を振り、扇の風は糸を断ち切って阿修羅の元まで届いたが、阿修羅の身体は煙のように霧散し、風を避けるとまた同じ姿に戻って、翼を嘲笑うようにケタケタと笑った。


 聞こえてきた足音に翼が廊下の先に目を向けると、奥から神器を手に持った神子たちがふらふらと歩いてきている。全員、足元がおぼつかなく、阿修羅の糸によって操られている様子だった。


「外道が」


 翼が阿修羅を睨みつけるが、邪(よこしま)なる者に対してそんなものは威嚇にもならず、阿修羅は翼の様子を嘲笑いながら六本の腕を動かしている。


「その笑み、引っぺがしてやるよ」


 翼が扇を構えた瞬間、操られている神子たちが雄叫びを上げながら、神器を振り上げて向かってきた。翼は顔色一つ変えず、扇を持って舞い始め、神子たちの攻撃をひらりひらりとかわしていく。


なんじかぐわしくおどりゃんせ。遊覧世界ゆうらんせかい四神招ししんまねきて祝宴しゅくえん舞踊まいおどくるわせ、その御言葉みことばかぜよりつたえよ」


 神子の攻撃をかわしながら舞い踊った翼は、神子たちに向かって扇を振りかぶった。


「神格解放、その名を天細女命あまのうずめ


 翼が振った扇の風が神子たちを襲い、神子たちに絡まっていた黒い糸を断ち切って、神子たちがバタバタと倒れていく。風は阿修羅には届かず、翼はもう一度扇を振り上げると、阿修羅に向かって振り下ろした。


演舞えんぶ 白虎びゃっこ


 扇が起こした風と共に、大きな雄叫びを響かせながら、神獣、白虎が飛び出し、阿修羅に向かっていった。阿修羅が向かってくる白虎に向かって腕をかざし、攻撃を防ごうとしたが、白虎は鋭い爪の伸びる腕を振り上げ、阿修羅の腕を切り落とす。白虎の口から白色の雷が溢れ、白虎は大きく口を開けると、阿修羅の喉元に勢いよく噛みついた。


 阿修羅の甲高い悲鳴が響き、身体中に駆け巡った雷は赤い目玉を痺れさせて、白虎は阿修羅を中庭に向かって放り投げた。


 阿修羅の身体は地面に落ちる前に霧散して、翼を睨みつけながら元の姿を形作る。憎しみと嘲笑を込めたその視線は身体を貫通して激痛を走らせるように思え、息苦しい。


 阿修羅が自分に向かってくる白虎に向かって六本の腕の内の一本を振ると、黒い糸が白虎の身体をからめとった。白虎は糸から逃れようと暴れるが、糸が千切れる様子はない。


演舞えんぶ 朱雀すざく


 翼が振った扇の風が炎に姿を変え、炎の中から神獣朱雀が現れると、口から炎を吐き出す。炎は白虎をからめとっていた黒い糸を燃やし尽くし、自由になった白虎が阿修羅に飛び掛かるのと共に、朱雀が阿修羅に向かって炎を吐いた。


 阿修羅は悔しげな表情を浮かべると、霧散して炎と白虎を避け、空中に浮いた状態で元の姿に戻る。


『ニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイ』


 阿修羅の三つの顔が、呪いのように同じ言葉を何度も繰り返して、六本の腕が動き、翼の近くにいた神子たちに向かって糸がシュルシュルと伸びていく。翼はその糸を踏みつけながら、扇を振った。


演舞えんぶ 玄武げんぶ


 扇から放たれた風から神獣、玄武が現れる。背負った甲羅から大きな木が生えている、大きな亀の姿をした玄武が足を振り上げて地面を揺らすと、地面を突き破って木々が生えてきて、倒れている神子たちを守るように取り囲んだ。阿修羅が翼を睨みつけ、ギリギリと音が出るほど歯ぎしりをする。


『オロカナリ』


 阿修羅が自分に向かってくる朱雀と白虎を睨みつけると、霧散して姿を消した。翼が身構えた瞬間、阿修羅は翼の目の前に現れ、翼が扇を振り上げる。阿修羅の充血した不気味な赤い目と目が合って。


 次の瞬間、翼の胸を、阿修羅の腕が貫いていた。


 翼が目を見開き、口から血が飛び出す。辺り一面、闇に包まれたその空間は静寂そのもので、翼の口と胸から飛び出す鮮血のみが、酷く色づいて見えた。


 阿修羅の腕か翼の胸から抜き出され、ぽっかりと開いた風穴からさらに血が溢れる。翼は歯を食いしばると、阿修羅に向かって扇を振り下ろしたが、阿修羅は不敵な笑みを浮かべたまま消え失せて、口から飛び出した血に、翼が口と胸を押さえた。翼の手がみるみるうちに赤く染まり、指の隙間からぼたぼたと血が流れ落ちる。


「ぐっ……が……はっ……!」


 翼の足から力が抜け、その場に崩れ落ちた。翼が酷くせき込み、血が地面に落ちて血溜まりを作り上げる。


『アヒャヒャヒャヒャヒャヒャ‼』


 聞こえてきた笑い声に翼が振り返ると、身体を揺らしながら高笑いをする阿修羅の姿が見え、翼は力を振り絞って立ち上がると、笑い続ける阿修羅に向かって扇を振り上げた。


 その翼の身体を、後ろから、阿修羅の六本の腕が貫いた。


 飛び散る鮮血と、響く阿修羅の笑い声。信じられないというように見開かれた翼の瞳には、背後にいて見えないはずの阿修羅と、阿修羅に貫かれる自分の姿が映っていた。神器の扇が、翼の手から滑り落ちる。翼の瞳からふっと光が消えた。


 その時、こだまする阿修羅の笑い声の中に、微かに聞こえた音色を、翼は聞き逃さなかった。

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