十七刻 約束

 裏切者。


 自分がいかに卑怯で弱い人間であるかは、痛いほどに理解している。肝心な時にしり込みし、救えたであろう人を見捨て、仕方がなかったと諦めるほかない己の愚かさが、自身を呪いたくなるほどに嫌になる。どれほど偽善を重ねたところで、それは己の弱さでしかないと理解している。


 強い人間になどなれなかった。


 そう。まさに神崎虎太郎のような人間には。


 虎太郎はまさに神に愛された男だった。いつも明るくおおらかで、時に豪快で力強い。比の打ち所などどこにもない。誰よりも強く、誰からも愛される男であった。


 一度逃げた人間が、いったい何ができるというのだろう。なにを守れるというのだろう。


 今の私を虎太郎が見たら、らしくない、と笑うのだろうか。


 父は宝刀本家の神子の中でも優秀な神子であり、当時当主の右腕ともいわれるほどの力の持ち主だった。当主であってもおかしくなかったと言われる、本家の神子を束ねる存在。


 そんな父は、父親としても厳格であり、一人息子の私に厳しかった。


「いいか、真造。お前は時期当主にもなれる器だ。その力で多くの人を救い、導かねばならない」


 幼いころから、父親に遊びといった遊びをしてもらった覚えはない。神子としての力を高めるための修行を繰り返し、ときにはそのあまりの過酷さに嫌気がさすこともあったが、それども父の期待に応えたいと、血の滲むような努力をした。


 一般の家庭からすれば、父は父親らしい父親ではなかったし、酷い父親であったのかもしれない。だが、私は父の厳しさが愛ゆえのものであると知っていたし、父が二度と大切な者を失いたくなかったのだと知っていたから、父の厳しさの中でも頑張ることができた。


 母は父と同じように力の強い神子であったそうだが、私を産んでから間もなく、禍ツ神に喰われ精神が狂い、父自ら手にかけるという、残酷な最後を迎えたと、父が一度だけ話してくれた。


 私が成長するにつれて、修行の成果か、神子の力は高まり、周囲から「さすが八作の家元の子だ」「将来の宝刀当主だ」と言われるようになった。父は決して天狗になってはいけないと、厳しい修行を続けたが、私は父と肩を並べられるほどの神子になれたのだと、喜んでいた。それが、慢心だとも知らずに。


 ある日、ふいに宝刀本家に現れた神崎虎太郎という男は、誰の目から見ても強かった。


 溢れ出る力と、神々に愛される人柄。一般人の家に生まれ、これまで神子とは無関係であったとは信じられないほどの素質。当時、当主が家出してきた少年を拾い、跡取りとして育てようとは何事かと声を荒げた者たちも、虎太郎を前にして何も言わなくなるどころか、その強さに目を奪われた。


 私は心の底から焦った。急に現れた歳の変わらぬ男はあまりに眩しく、これまで私が築き上げたものを打ち砕くには十分すぎるほどの器量を持っていた。時期当主だと謡われた栄光はすぐに消え失せ、周囲は虎太郎が時期当主になるのだと言い始め、父も何も言わない。


 だが、皮肉なことに、神崎虎太郎という男は、憎もうにも憎めない、良い奴だったのだ。


 虎太郎の私の第一印象は、相当酷いものだっただろう。才能に嫉妬した男の態度はあまりにも悪かったはずだ。気さくに声をかけてくる虎太郎を無視し、目を合わせようともしない。


「家飛び出して、なんやようわからんおっさんに拾われたかと思ったら、摩訶不思議な世界に連れてこられた上に、周りは年寄りばっかりやさかい、困っとったんよ。よかったわぁ。同い年ぐらいのやつがおって」


 にこにこと笑顔を浮かべながら話しかけてくる虎太郎を突き放すことができなかったのは、周りからあいつは強いと褒め称えられているのに対して、浮かべる笑顔が年相応のただの気のいい少年に見えたからだろうか。私よりも大きい身体を持ちながら、浮かべる表情はどこか子供っぽく、思わず面食らってしまったのだろう。

気が付けば、私と虎太郎は友人になっていた。


「虎太郎はどうして家出したんだ?」


 ある日、気になって聞いてみた。虎太郎は、優秀であるにも関わらず家出という選択をする、そんな理由があるとは思えなかったからだ。


「親と馬が合わんかっただけや。自分たちが敷いたレールの上だけが子供にとって正しい道やと信じとる。わしの人生はわしだけのものや。誰にも指図されたくあらへん」


 そこまで言うと、虎太郎は「でも……」と少し悲しそうな顔をした。


「弟を置いてきてしもうた。恨まれとるやろうなあ……」


 虎太郎の弱音を聞いたのはそれが最後だった。虎太郎はいつでも明るく、笑顔を絶やさない男で、誰に対しても優しく、多くの人が虎太郎に惹かれたが、虎太郎は誰か一人だけを選ぶことはなかった。


 虎太郎はかけがえのない友人だった。だからこそ、虎太郎と共にいるときの周囲の目線が痛かった。父は虎太郎が現れてから、これまでのように私に厳しくしなくなった。それは、もう私に期待しなくなったからだったのであろう。誰の目から見ても、次期当主は間違いなく虎太郎だったのだから。


 父に認められるために、これまで以上に血の滲むような努力をした。強くならなければならなかった。


「もう、頑張らなくていい」


 父から放たれた言葉は、私の心を抉るには十分すぎた。


「お前はもう強くならなくていい。お前は弱い。優しすぎるゆえに、弱いのだ。お前が強くならずとも、他の者がいる。だから、もういい」


 父に見放された。私は強くあらねばならなかったのだ。父のために、強くあり続けなければならなかった。それなのに、私は弱い。


 虎太郎が次の当主になるのはわかりきったことだった。そのことを祝福できるほど、私の心に余裕はなく、虎太郎に対して酷い態度をとるようになっていった。虎太郎はそのことで私を責めたりせず、ただ悲しそうに笑うだけで、その笑みを見るたびに、自分の愚かさに嫌気がさした。


 なぜ、私は虎太郎のように寛大になれないのだろう。虎太郎が私と同じ立場なら、虎太郎は心から友人のことを祝っただろう。それが、私にはできなかった。


 嫉妬と僻み。お前なんて現れなければよかったと叫び、軋む心。父に認められたいという空っぽの欲望。どれほど血の滲むような努力をしても、とうてい虎太郎には敵わず、心は荒んでいくばかりだった。


 だから、きっとあれは天罰だったのだ。すべて、私が悪かったのだ。虎太郎にどれほど謝ろうとも、私が許されることはきっとない。


 本家の命で、父と虎太郎とともに赴いた現場は、凄惨なものだった。多くの神子を喰らい、肥大化した禍ツ神は、私たちの力をもってしても苦戦を強いられるほどの強敵だった。


 神子が喰われ、神子に宿っていた名持ちの神が歪み、禍ツ神になることによって、その場は禍ツ神で溢れかえっており、それらが合体を繰り返し、肥大化すればするほど、禍ツ神の力は強くなる。


 それでも、父ほどの神子がやられるはずがなかったのだ。いくら年を重ねていたとはいえ、父の強さは衰えていなかったのだから。


『タすケテ』


 その言葉に耳を傾けてしまった私は、思わず振り返ってしまった。


 禍ツ神の声を聞いてはならない。それがどれほど苦しげな声であったとしても、それはもはや何者ともいえぬ、神のなれの果てなのだから。そう、わかっていたはずだった。


 次の瞬間、私の視界に広がったのは、禍ツ神の闇のように黒い大きな口。飲み込まれればひとたまりもないと理解しながら、私は動くことができず、遠くで虎太郎が私の名を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、その声も禍ツ神の悲鳴に近い叫び声にかき消された。


 目の前で、父が禍ツ神に飲み込まれるのが見えた。


 嘘だと思った。信じられなかった。その口に飲み込まれるのは私であったはずなのに、父は私を守るために飛び出したのだ。


 虎太郎が何かを叫びながら、神器の二本の大剣で禍ツ神を切りつけるのが見え、切り裂かれた禍ツ神の中から直立不動の父の姿が見えた。焦点の合っていない目。半開きの口。


 そのすべてが父のものであるとは信じられない。私が追いかけ続けた父の姿は、見るも無残に変わり果て、精神を侵された男と化していた。


「…………セ……」


 父の掠れた声が聞こえた。聞こえないふりをしたかった。掠れているにも関わらず、その声は鮮明に私の耳に届く。


「コロセ」


 神子が禍ツ神に喰われ、その精神を侵された場合、神子に宿る名持ちの神が禍ツ神化する。名持ちの禍ツ神の力は強力であり、その被害は計り知れないため、神子が禍ツ神に喰われたさいは、守神が禍ツ神になる前に、神子を殺さねばならない。神子が死ねば、宿り主を守るという守神の存在意義が消え、神は消滅する。


 殺せるわけがない。


 私はその場に両膝をついた、自分の目から流れるものが、涙なのかもわからなかった。


 ずっと父の背中を追いかけてきた。どれほど厳しくとも、それが父の愛なのだと理解していた。そんな父を失望させておきながら、自らの手で殺すなど、出来るわけがない。父を殺すぐらいなら、自分が死んでもかまわない。私はどうしようもなく、弱い人間なのだから。


 父の口からもう一度「コロセ」という言葉が放たれたが、私は動かなかった。このまま父と共に死んでもいいかと思っていた。


 父の身体を、虎太郎の大剣が貫いた。


 飛び散る鮮血が、虎太郎の神器と顔を濡らす。最後に目が合った父が伝えようとしたのは、苦しみか、怒りか、失望か。最後までその目を見続けることができなかった。


「……すまん」


 血に濡れた虎太郎が苦しげな表情を浮かべながら私に言った。


「すまん。すまん……」


 虎太郎は泣いていた。その涙が死んだ父に向けられるものなのか、私に向けられたものなのかはわからなかったが、虎太郎の涙を見たのは、それが最初で最後だった。


「恨んでくれ」


 恨めるわけがない。私が恨むべきなのは、自分自身の弱さだ。私が強かったなら、父は死ななかった。父を殺したにも関わらず、最後まで逃げようして、友人の手を汚させたのは己の弱さだ。私はどうしようもなく弱い。その弱さが、周囲の人を苦しめる。


 父が死んだその日、私は逃げた。神子という世界に背を向け、自分の弱さを見ないことにして、何も考えたくないと、その場から逃げ出した。虎太郎は何も言わず、ただ私の背を見送った。


 神子から離れ、僧侶になってからも、神子としての鍛錬をやめることができなかったのは、父を忘れないためか、虎太郎に対する負い目を払拭するためか。今更強くなろうとしたところで、すでに手遅れであるのに。


 四年前の大災厄のさい、力を貸してほしいと訪れた本家の神子に、協力できないと首を横に振った私の判断は、間違いだったのだといまさら後悔している。どうしようもなく弱い私でも、盾ぐらいにはなれただろう。そうすれば、あれだけの神子が死ぬことはなかったかもしれない。


 いつもそうだ。逃げてから酷く後悔して、己の弱さを呪うのだ。救いたい者も救えない。


 四年前に虎太郎が失踪した理由が、大災厄が関係していることは明確だ。もし私がその場にいたら、虎太郎が姿を消すことはなかったのだろうか。


 なぜ、私ではなかったのだろう。虎太郎は守りたいものがたくさんあったはずだ。そして、それを守るための力を持ち合わせていたはずだ。私は守りたいものなど、ありはしない。すべて、自分の弱さゆえに失い、壊すことを恐れて手を伸ばすこともできないのだから。


 禍ツ神の声が耳元で聞こえる。こちらにおいでと手招きしている。何も見えない闇の中、引きずり込まれて飲み込まれるような最後が、愚かな私にはお似合いなのかもしれない。


「八作さぁんっ‼」


 美雨の叫び声が聞こえた。私の名前を必死で呼ぶ声。


 そうだ。大人たちに囲まれ、虚ろな目をして、今にも消えてしまいそうな幼い美雨と出会ったその時に、私はこの子だけは守りたいと思ったのだ。この世界の不幸を一身に背負ったような、この子だけは、なにがあっても守ると誓った。そのために手を差し伸べたのだ。たとえ、その手を取ってもらえなかったとしても、美雨を救いたかった。


 心に深い傷を負った美雨を、これまで救えなかった人たちの分も、幸せにしたい。

こんなところで死んでたまるものか。美雨が泣いている。その涙を拭くのが、私の役目なのだから。


    ◇


海神わだつみ


 聞こえた声に、海の中で波に流されないように身を寄せ合って海面で漂っていた三人が海岸の方を見る。三又の大きな瑠璃色の槍を持った葵が、海面に立って、海の底に鋭い目線を向けると、槍を海の中へと突き出した。


海鳴海峡うみなりかいきょう


 槍が突き刺された海面が大きく裂け、禍ツ神の姿が見えた。葵が槍を禍ツ神に突き立てて、禍ツ神が甲高い悲鳴を上げる。


『イタイイタイイタイイタイイタイ』


 一瞬、禍ツ神が怯んだが、飲み込まれかけている八作の姿は見えない。禍ツ神は突き刺された槍に這い上がろうと伸びてきて、葵が険しい表情を浮かべた。


雷鳴一閃らいめいいっせん


 八作の声が聞こえたかと思った途端、禍ツ神の身体に光る線が浮かび上がり、ずるりと禍ツ神の身体がずれた。


 禍ツ神が悲鳴を上げながらボロボロと崩れていき、内側から一本の腕が禍ツ神の身体を突き破って飛び出した。それに気が付いた葵が腕を掴み、引き上げようと引っ張る。葵が八作を引き上げると、裂けていた海面は元に戻り始め、禍ツ神は海の底へと沈んでいき、最後に泣き縋るような禍ツ神の声があたりに響いた。


 竜海によって海岸に引き上げられていた美雨、蓮華、衣織は不安げな表情で荒れる海を見つめていた。美雨は衣織の腕の中で泣きじゃくりながら、八作の名前を呼び続けていた。竜海も自分の妻の身を案じながら、微かに震えている蓮華の身体を抱き寄せている。


 その時、海の中から葵の手を借りて八作が上がってきた。顔色は良いとは言えず、疲労しているが、意識ははっきりしているようだ。葵が自分のことを心配そうに見つめている竜海と目が合い、あきれたように笑う。


「ちょっと。突っ立ってないで手伝ってよ」


 葵の声に竜海が慌てた様子で駆け寄ろうとしたが、竜海の横を通り過ぎて美雨が八作に向かって走っていった。美雨が八作に飛びついて、八作がそれを受け止める。


「八作さん……! 八作さぁん……‼」


 八作に縋り付きながら泣きじゃくる美雨に、八作が一瞬驚いたように目を見開き、ふっと笑うと、美雨の頭を優しくぽんぽんと撫でた。


「大丈夫。大丈夫ですよ、美雨。あなたの前から消えたりしませんから」


 荒れていた海は次第に元の静けさを取り戻し、静かな波の音があたりに響いた。


    ◇


 翌日の朝。疲れ果ててまだ眠っている美雨と蓮華を残し、他の人々は全員客間で話をしていた。


「最近、近くの岬で投身自殺があったって聞いていたから、調べてはいたのだけど……まさかあんなに肥大化した禍ツ神が海の底にいたなんて思わなかったわ。ごめんなさいね、危ない目にあわせて」


 申し訳なさそうに謝った葵に続いて、竜海も「申し訳ありません」と頭を下げる。謝られた衣織と八作はとんでもないと首を横に振った。


「私たちの不注意でもあります。その……美雨はああいうものを引き寄せてしまいますから……」


「なんだか特殊な子のようね。下手な詮索はしないわ。分家の中でも大した地位に値しない我々が聞くことでもないでしょう。人には人の事情がある。さて! 全員無事だったから問題なし! 辛気臭い話はやめて、他の話をしましょう? ね、あなた」


「ああ。そうやな。えっと……兄の私物なのですが、物置部屋にあったので出しておきました。とはいえ、前に見せたものばかりでしたさかい、あまり参考にはならんかもしれませんが……」


「ありがとうございます。それでも、かまわないです」


 衣織と八作は竜海の案内で物置部屋へ行き、竜海が出してくれた虎太郎の私物の中から手がかりになりそうなものを探したが、虎太郎の私物は大きめの段ボールに収まってしまうほど少なく、中身はほとんどが古い書物や衣服だった。


「兄はものを持たん人でしたさかい……持ってもすぐ捨ててしまいましたからねえ……」


「あ、これは?」


 八作がなにかを見つけて衣織に見せる。それは使い古された手帳のようで、虎太郎の達筆な文字で名前が書かれていた。


「珍しい……兄は日記などをつける人ではなかったのですが……」


 衣織が八作から手帳を受け取り、八作と竜海がそれを覗き込む。衣織は少しだけ見ていいものかと考えた後、ごめんと小さく呟いて手帳を開いた。その時、写真が一枚ひらりと落ちて、八作がそれを拾い上げた。


「……これは……」


「なんの写真ですか?」


 八作は何も言わずに写真を衣織に手渡す。衣織は受け取った写真を見て、目を見開いた。


 その写真には、幼い衣織がぎこちない笑顔を精一杯カメラに向かって浮かべている姿が写っていた。


「……こ……れ……」


「手帳の中に文字は書かれていませんね。ページに写真が貼られているだけです」


 そう言いながら竜海が衣織に見せた手帳のページの一枚一枚には、幼い衣織や沙乃の写真が丁寧に一枚ずつ貼られていた。


 衣織の目から涙がこぼれる。貼られた写真の中に写る幼い自分や沙乃は幸せそうな笑顔を浮かべている。


「……兄にとって、これは宝物だったのでしょう」


 竜海の言葉に衣織は顔を覆った。


「……虎太郎は……よく、カメラを持っていて……それで……」


「機械音痴な兄が、ですか……それほどまでに衣織さんたちは兄の宝だったのですね」


 衣織が涙をぬぐい、手帳のページをめくる。どの写真にも虎太郎の姿はなく、虎太郎が撮った写真であることがよくわかった。写真を一枚見るたびに涙が溢れそうになるのを堪えながら、衣織は手帳のページをめくっていく。ふと、衣織と沙乃以外の人物が写った写真を見つけ、衣織が手を止めた。


「あ」


 八作が驚きの声を上げ、衣織が「知り合いですか?」と問いかけると、八作は苦笑した。


「それ、私です」


「え⁈」


 写真に写る人物は高校の制服らしい半袖のシャツを着て、黒縁の眼鏡をかけた、少し長めの黒髪の高校生男子だった。静かに本を読んでいたときらしいが、その目に今の八作のような優しい色はなく、どちらかというと目つきが悪いように思える。


「一番荒んでた時期の写真を……いつの間に撮っていたんだ……」


「……これ……八作さんなんですね……」


 竜海がそう呟くと、八作は「お恥ずかしい……」と頭を掻いた。


「こんな宝物の中に、私なんかの写真を貼らなくてもいいのに……」


「虎太郎はよく、八作さんの話をしていましたよ……」


 衣織の言葉に、八作が目を見開いた。


「明確に名前が出てきたことはありませんでしたが……自慢の友がいると」


 衣織の言葉を聞いて、八作は諦めたようにため息をつく。


「……敵わないですね……本当に」


 手帳の残りのページは徐々に少なくなり、衣織が最後のページをめくると、そこには一枚の古い手紙が挟まれていた。


「これは……」


 衣織が手紙を開くと、白い便箋に丁寧な文字が綴られていた。衣織が声に出して文字を読んでいく。


『拝啓、神崎虎太郎様。

 名も知らぬ者からの突然の手紙に、気を悪くされましたら申し訳ございません。

 あなた様に直接お会いすることができず、こうして筆を執らせていただきました。

 ご子息様はお元気でしょうか。ご病気や怪我など、しておられませんでしょうか。

 この手紙は焼くなり捨てるなりしていただいてかまいません。返事もいただなくて結構でございます。

それでも、私どもがあなた様に、言葉では言い表せないほど感謝していることをお伝えします。本当に感謝してもしきれないほど、あなた様は私どもの恩人でございます。

 あなた様とご子息様の幸せを、心の底からお祈り申し上げます。

                                灯野 春陽』


 読み終えた衣織は驚きで声も出ない様子だった。手紙を覗き込んでいた竜海と八作は首をかしげた。


「虎太郎にあてられた手紙……ですか。ご子息様というのは衣織さん、ですよね。衣織さんのことを知っていて、虎太郎に感謝している人からの手紙……」


「ともしの……はるひ、ですか……女性ですかね」


「……僕のことを……知っている……」


 竜海がしばらく顎に手をあてて考えると、何かを思い出したように声を上げた。


「灯野……というと、日光の本家にそんな名前の神子がいたような……」


「本当ですか⁈」


 衣織が顔を上げて竜海に詰め寄る。


「ええ。ですが、春陽という名前ではなかったはずです。たしか、朱里(あかり)さんだったはず……でも、なにか関係がありそうなのは確かですね」


「……ありがとうございます……」


 衣織はなにかを考えている様子で、手紙に書かれた名前を凝視している。そのとき、部屋の外からバタバタという足音が聞こえ、物置部屋の扉が開け放たれた。三人が驚いて扉の方を見ると美雨が立っていて、八作を見つけた途端、八作に飛びついた。


「おお。おやおや。おはようございます、美雨」


 八作が美雨を受け止めて、柔らかく笑う。


「起きた途端、八作さんがいないって騒ぎだしたのよ。蓮華ちゃんは顔を洗いに行ったわ」


 後ろから現れた葵が笑顔でそう言った。美雨は何も言わずに八作の服にしがみついている。


「……美雨。衣織さんじゃなくていいのですか」


「……いいの」


 美雨が顔を上げる。拗ねたように頬を膨らませ、八作を離さないようにしがみついて離さない。


「八作さんがいいの。なんで起きたらいないの。美雨、びっくりしたのに」


「いなくなったりしませんよ。もう、心配をかけたりしませんから。だから、ね? ここは埃っぽいので外に……」


「八作さんも一緒に行くの! いおりも」


 美雨は八作の服を引っ張って離さない。八作はわかりましたからと美雨に連れ出され、美雨が「いおりも一緒に行く」と聞かないので、衣織も諦めたように笑うと美雨に連れられて部屋を出た。竜海と葵は物置の整理をすると部屋に残る。


「ねえ、あなた。あなたはお兄さんのことを恨んでいるの?」


 葵の唐突な質問に、竜海が面食らったような顔をした。


「どうして恨まなきゃならん」


「恨んでいないの?」


「恨めるわけあらへんやろう。どこまでも優秀で非の打ち所がない兄やった」


「でも、あなたのことを家に置いて行って、両親による呪縛はすべてあなたに降りかかった。私と出会ったときのあなたは、いつも自由になりたいと言っていたわ。お兄さんのことが嫌いだから、これまで私物に触ろうともしなかったんじゃないの?」


「……そうやなあ……」


 竜海が少し寂しそうな表情をする。


「怖かったんや」


「怖い?」


「兄のことを知るのが怖かった。知ってしまえば、もう、兄が戻らないような気がしたんよ。生きているのかもわからない兄が、本当に消えてしまったことを証明するようなものが見つかってもうたら、兄は戻ってこないような、そんな気がして」


「なるほどねえ。確かに怖いわ、知るということは。でも、私はあなたのことを知っている。頼りなくて、いつもお兄さんと比べられるあなたの本当の強さ。私はね、そんなあなたに惚れたのよ」


 葵の唐突な言葉に、竜海がぱちくりと目を瞬かせた。


「たとえ、あなたに全く素質がなくて神子になれなくても、金槌で泳げなくても、虫が苦手でいつも私に助けを求めに来たとしても、そんなあなたが大好きなのよ。だからね、あなたのお兄さんに感謝してる。あなたに出会わせてくれたから」


「……敵わんなぁ……」


 竜海が困ったように笑いながら、恥ずかしそうに頭を搔いた。

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