十三刻 母という名の
花蓮を残して山を進んでいた瑠花は、自分が進んでいくのを妨害するように次々と地面から起き上がってくる牛蒡種を、煩わしそうに燃やし尽くしながら走っていた。大金槌を振り、炎が上がるが、その炎は牛蒡種の身体を燃やし尽くすだけで、山の木々に燃え広がることはない。
瑠花が大金槌を振り上げ、目の前にいた牛蒡種が炎に包まれたその時、瑠花が目の前に降り立つ黒い影を見て、はっと目を見開く。黒い狐が怪しげに顔を歪め、可笑しくてたまらないというようにケラケラと笑っていた。
「クソッ‼ てめーら、一体どんだけ湧けば気が済むんだ⁈」
狐が瑠花に飛び掛かり、瑠花がその鋭い牙を大金槌で防ぐ。狐はニヤニヤと不敵に顔を歪めたままで、瑠花の背中に悪寒が走った。
「離れろっ‼」
瑠花が大金槌を振り、狐の身体が放り出される。狐は軽やかに着地して、一声鳴いた。その瞬間、あたりの地面がせり上がり、土が瑠花に襲い掛かって、瑠花が舌打ちをした。
「燃やし尽くしてやるよっ‼」
瑠花が大金槌を振り上げ、地面に向かって振り下ろす。
「
地面から炎が上がり、土と狐を巻き込むように爆発して、爆風で瑠花の髪が
瑠花が大金槌を振りかぶったが、燃やし尽くされたはずの土は再度瑠花に向かって襲い掛かり、大金槌に絡みつく。土に触れられるわけにはいかない瑠花は表情を歪ませながら大金槌から手を離した。大金槌は瑠花が手を離した瞬間に炎に包まれ、徐々にその火が小さくなって消えていく。
狐は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、瑠花は今にも噛みつきそうな勢いで殺気立ち、迫りくる土と黒い尻尾を睨みつけた。
「
聞こえてきた声とともに目の前で切り刻まれた狐の尾に、瑠花が目を見開く。瑠花の前に颯爽と現れた将の手に握られた裁ち鋏は、黒い尾と土の塊を切り刻み、刃を光らせていた。
狐が悔しげに表情を歪める。
「だ、大丈夫ですか⁈ 瑠花さん‼」
「……将も来てたのか」
「あ、はい! 衣織とはぐれまして……」
「いいじゃねえか! 面白くなってきた‼」
瑠花が不敵に笑い、大金槌を再度出現させてかまえた。
「降りてこい‼ クソ狐‼」
狐は悔しそうに表情を歪めたが、将をじっと見つめてニヤリと笑った。その様子に瑠花が嫌な胸騒ぎを覚えて将の方を見る。
「うわあ⁈」
将が自分の腕を見て悲鳴を上げた。瑠花が目を見開く。将の右手の肌がブクブクと膨れ上がり、病の症状が出始めていた。将の手の甲で光っていたはずの聖華の加護は徐々に光を失い始め、ヒビが入ろうとしていた。
「将⁈」
狐は上空であざ笑うように一声鳴いて、どこかに飛んでいく。将は膨らんでいく肌に走る激痛と激しい熱に顔を歪め、額に大粒の汗を浮かべていた。瑠花が将に駆け寄ったが、将が「触らないで‼」と叫び、脚を止める。
将の肌はどんどん膨らんでいき、徐々に腕から身体全体へと症状が広がっていく。将の顔色が悪くなり、その場に膝をついた。
「クソッ……‼ 時間切れか‼」
瑠花の手の甲の聖華の加護も徐々に光が弱まっている。将の息が細く弱くなり、瑠花は小さく舌打ちをすると、自分よりも背の高い将の身体を、その小柄な身体で軽々と持ち上げた。
「る、瑠花さん……」
「時間切れだ。下山する」
「でも……」
「うるせぇ、黙っとけ。俺ももう限界なんだよ」
「他の人たちは……」
「……俺は」
瑠花が将を持ち上げたまま走り出した。将が小さな悲鳴を漏らす。
「目の前の奴を救うことぐらいしかできねえよ」
瑠花が悔しそうに言って、将がついに意識を失った。瑠花の腕にも症状が出始め、額に汗が浮かんでいる。
「すまねぇ、姉御……」
瑠花のつぶやきは、どこからか聞こえてくる狐の声で掻き消された。
◇
花菜と別れた沙乃は、方々から現れる黒い狐を次々と切り殺していた。草薙剣を振るう沙乃を前にして、狐たちは尻込みし、襲い掛かろうにも近づけず、悔しそうに表情を歪めている。
次々と切り裂かれていく同胞を前に、狐たちはお互いに目を見合わせると、一目散にその場から離れ、沙乃に背を向けて一方向に逃げ出した。意表を突かれた沙乃をすり抜け、狐たちは駆けていく。
沙乃は狐たちに向かって剣を振り、数匹が切り倒されたが、逃げ延びた狐たちはどこかに向かって走って行く。沙乃の斬撃により、あたりの木々が倒れた。
「クソッ……」
沙乃が悪態をつき、さらに追撃を行おうと剣をかまえた。
「
風が沙乃の髪を後ろから靡かせ、沙乃が驚いて振り返る。風は沙乃をすり抜けて前方に吹き荒れると、風が炎に姿を変え、その炎は神獣、朱雀へと変化した。炎のような赤色の羽を持つ大きな鳥が、大きな鳴き声を上げる。
朱雀は口から炎を吹き、奥へと進んでいた狐たちが炎に包まれる。炎は周りの木々に燃え広がることもなく、ただ静かに狐たちを焼き尽くした。
振り返った沙乃の瞳に映ったのは、神器の扇を手に持った翼の姿だった。
「大丈夫か? 沙乃」
「あんたも来とったん?」
「外で結界張ってたけど、尊さんに行けって言われたんだよ」
「尊さんが? なんで?」
「お前を守れってさ」
翼がふっと笑い、沙乃がキョトンとした顔をする。
「別に、守られなあかんほど弱くあらへんのやけど」
「そう言うなよ。宝刀当主のおまえに死なれるわけにはいかない」
「逆にうちが守ったらんとあかんとちゃう?」
「耳が痛いな」
朱雀の炎は狐たちを次々と焼き尽くしていくが、狐たちは足を止めることなく、どこかを目指して一方向に駆けていた。
「……あいつら、なにを目指してるんだ?」
「……まさか、殺生石を持っとる個体に集まっとる?」
沙乃と翼がお互いに顔を見合わせて、次の瞬間、狐たちを追いかけて走り出した。
「翼‼ 絶対、殺生石壊したらいかんよ‼」
「わかってる。そこまで馬鹿じゃない。それよりお前、気が付いてるか?」
「なに?」
「手の甲」
翼に言われ、沙乃が自分の手の甲を見る。聖華の加護の光りが薄れ始めていた。
「な……⁈」
「時間切れが近い。早々に終わらせないと、全滅だ」
「クソッ……」
二人に対して襲い掛かる土を、朱雀の炎が燃やし尽くして道を作っていた。炎が二人に当たっても、熱さは感じられない。
狐を追いかけて進んでいった二人が開けた場所に出て立ち止まった。
「衣織⁈」
両膝をついて座り込んでいる衣織の姿に、沙乃が叫ぶ。動かない衣織の目の前で、四方八方から集まってきた狐たちが黒い塊になって重なっていき、ブクブクと膨れ上がりながら姿を作り上げていた。
翼が朱雀の名を叫び、朱雀が炎を吐く。炎は黒い塊を包み込み、燃やし尽くそうとしたが、それを上回る量の狐たちが集まって来て、炎をものともしない。不意に黒い塊が沙乃と翼に伸びてきて襲い掛かり、沙乃は衣織を守ろうと、攻撃をすり抜けて衣織に近づこうとしたが、身体の力が抜けて、その場に倒れそうになった。
「⁈」
沙乃がなんとか体勢を持ち直し、自分の足を見ると、肌が膨れ、病の症状が出ていた。急にあたりの瘴気が濃くなり、その場にいる人の顔が見えなくなる。濃くなった瘴気に耐え切れず、聖華の加護の紋章が砕け散った。
沙乃の視界の端で、翼が同じように倒れるのが見えた。それとともに、飛んでいた朱雀が地面に落ち、膨れ上がった土に呑まれていくのが見える。
「
沙乃が草薙剣を振り、剣から光の波動のようなものが飛び出して、黒い瘴気を切り裂き、形を作ろうとしていた黒い塊に向かって飛んでいったが、届く直前で砕け散った。
瘴気が切り裂かれたことによって玉藻の前の姿が見える。その姿に、かろうじて立っている沙乃が目を見開いた。
玉藻の前は人間の女のような姿をしていた。その姿は限りなく人間に近いが、歪んだ不気味なもので、顔の原型をとどめていない。
そして、玉藻の前は歪んだ顔に不気味な笑みを浮かべ、目の前で青冷めて冷や汗を流しながら身体を震わせている衣織に、手を差し出した。
「衣織‼」
衣織は動かない。信じられないというように玉藻の前を見つめ、肩で荒い息をする。その口が小さく動き、かすれた声が沙乃の耳に鮮明に聞こえた。
「……う……そだ……だって……そんな……僕……の……母……親……」
沙乃の視界がぐらりと歪み、地面に倒れる。玉藻の前は怪しげな笑い声を上げながら、衣織に手を伸ばし触れようとしている。その手はブクブクと膨れ上がり、沙乃がかすれた声で衣織の名前を叫んだが、その声は衣織に届かない。
衣織の脳内を埋め尽くすのは、聞き覚えのある、不気味な笑い声だけだった。
◇
記憶をたどれば、いつでも真っ先に思い出せるのは、豪快に笑う琥太郎の顔。
初めて会った時、ボロボロの僕を救ってくれた琥太郎の大きな手。
僕を叱るときに見せる、真剣で真っすぐな目。
「衣織、お前はわしの息子や。神崎琥太郎の息子や」
何度も何度も言い聞かせるように琥太郎は言った。笑顔を浮かべながら、僕の頭をグシャグシャにして、まるで、琥太郎と出会う前の僕の記憶を呼び起こさないようにするように。
なんの疑問も持たなかった。僕は琥太郎の息子で、神崎衣織という者以外の何者でもなくて、それが全てだった。琥太郎と出会う前の記憶なんて、思い出す必要がないと思っていたし、琥太郎も必要ないと言ってくれたから。
でも、琥太郎がいなくなった今、僕の過去を知っている人はどこにいる? 僕はなぜ、あんな山奥の小屋に繋がれていた? 琥太郎はどうやって僕を見つけた? 捨て子だった? では、なぜ、生きることができた? 僕を生かしたのは誰?
思い出さなくていいと思っていた。思い出したくなかった。
断片的な記憶をたどる。琥太郎と出会う前の、神崎衣織ではない僕は、誰かとあの小屋の中で生きていた。それは、母親と呼ばれる———。
母親?
思い出す。思い出せ。断片的な記憶の中で、僕を小屋に繋ぎ、生かしたのは誰だ。なんだ。何者だ?
それは人だったか?
違う。違う、あれは人なんかじゃない。人間の女のような姿をしていた。手や足があった。でも、その姿は歪んでいて、それは、到底人間と呼べる者ではなかった。
僕を生かしたのは、育てたのは、今、目の前にいる、この化け物だ。
なぜ? 人間の子を、この化け物が生かしたのはなぜ? 僕を育てたのは、おそらく、長い時の間に薄れた封印から辛うじて逃れた玉藻の前の一部。動物的本能? それとも、己を忌まわしい封印から解き放つための足掛かりにするため? 力を取り戻すために、喰らうため?
琥太郎はどこまで知っていたんだろう。全てわかっていて、僕に黙っていた? それは琥太郎の優しさだったのかもしれない。
だけど、僕が化け物に育てられたことに変わりはなく、僕は、人間と呼べるのだろうか。
僕の今の人格を形成したのは、まぎれもなく、この化け物だ。感じ続けた違和感の正体。小屋の中で感じた恐怖と苦痛は、僕の心に刻み込まれている。忘れることなどできはしない。
いとも容易く人の命を刈り取るこの化け物に育てられた僕はいったい何者?
◇
「衣織‼」
沙乃の叫び声が響く。衣織は玉藻の前を凝視したまま、凍り付いたように動かなかった。沙乃がもう一度衣織の名前を呼ぼうとして、その口から血が飛び出す。沙乃の隣で倒れている翼も苦しげにせき込んでいる。
人間の女のような姿をした玉藻の前は、その光景を嘲笑うように顔を歪め、衣織に手を伸ばしていた。延ばされた手はブクブクと膨れ上がり、怪しげに蠢いている。その手に触れられれば衣織がどうなるかは、容易に想像ができる。もう片方の手には、すでに玉藻の前に力を吸収され、手のひら程の大きさになった殺生石が握られていた。
沙乃が肌の膨れ上がった腕を使って上体を起こし、衣織に叫ぶ。
「衣織‼ 衣織‼ お願いやから……‼」
自分の身体が病魔に侵されていく感覚に襲われながら、沙乃は懸命に叫んだ。
「お前の親は、虎太郎や‼」
沙乃の声に、衣織の肩がピクリと動いた。玉藻の前が煩わしそうにうめき声をあげる。
「誰がなんと言おうと、お前は神崎虎太郎の息子や‼ 衣織は、衣織は人間なんや‼」
玉藻の前が叫び声のような咆哮をあげ、背中から九つに分かれた黒い尻尾が飛び出して、衣織に襲い掛かった。沙乃の悲痛な叫び声が響く。
「
衣織が持つ短刀が、襲い掛かった尾を切り裂き、尾が風に流されて散っていく。衣織は鋭い瞳で玉藻の前を睨みつけており、玉藻の前が歯を向いて低いうなり声を出した。
沙乃が安堵したように息を吐いたが、その瞬間、口から大量の血が飛び出す。
「沙乃さん‼」
衣織が振り返った瞬間、玉藻の前の姿は九つの尾をもつ大きな狐の姿に変わり、大きく口を開けて、衣織に食らいつこうとした。衣織がそれに気が付き咄嗟に避けたが、鋭い牙は衣織の肩をえぐり、衣織の身体が倒れる。
倒れた衣織の肩から血が流れ、血はブクブクと気泡を作りながら膨らみ始める。肩を抑えた衣織の右腕に病の症状が現れ、肌が膨れ上がった。病魔は一瞬で衣織の身体中を駆け巡り、衣織の息が細くなっていく。同じように倒れている沙乃と翼はピクリとも動かない。
玉藻の前はあたりの木々を押し倒しながらどんどん肥大化していく。赤く裂けた口からは涎のようなものが流れ、地面に落ちると音を立ててその場を溶かした。
「
「
二つの声が響き、倒れている衣織たちを取り囲むように白い花が咲き乱れ、結界が出現した。それと同時に飛び出した花蓮が薙刀で玉藻の前を切りつけ、玉藻の前が『ギャッ‼』と悲鳴を上げて後ろに飛びのく。薙刀で切られた玉藻の前の右足には白い花が咲き、花は玉藻の前の身体を埋め尽くす勢いで咲き始めた。玉藻の前が憎々しげな顔をし、自分の腕を噛み千切る。
「花菜‼ 三人は無事か⁈」
玉藻の前に薙刀を向けながら花蓮が叫び、後ろで三人を見ていた花菜が首を横に振った。
「手遅れです。ここまで病魔が進行してしまうと、玉藻の前を封印しても、死は免れない」
「クソッ……‼」
「姉様、奴はまだ完全に殺生石を吸収しておりません」
玉藻の前の背中には、手の平程の大きさになった殺生石が、吸収されきれずに埋まっていた。
「あれを引き剝がし、封印を」
「わかってる。これ以上、犠牲を出してなるものか……‼」
玉藻の前の鳴き声が響く。二人は薙刀を構え、玉藻の前を睨みつけた。
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