十刻 守る者

 美雨は、ママが大好きだった。


 どれだけ痛い目にあっても、涙が溢れても、美雨は、ママがいたから平気だったの。ママが、美雨の頭を優しく撫でてくれるだけで、痛みなんて忘れることができた。


 美雨とママは、化け物と一緒に暮らしていた。とても恐ろしい怪物。毎日殴られて、蹴られて、ママと美雨はいつも傷だらけ。身体中に痣がいっぱいできて、でも、痣は全て服で隠れるところにしかなくて、周りの人は、誰も、怪物が美雨とママを殴っていることに気が付かなかった。


 美雨は、もともとママと同じ髪の色と目の色をしていた。真っ黒で、みんなと同じ色。でも、気が付けば、ママの髪に白色が混ざり始めて、美雨の髪もママと同じように白くなっていって、髪は真っ白に変わって、目の色も真っ赤になった。


 みんなと違う、美雨の髪と目の色。向けられる、気味の悪いものを見るような目。悲しかった。苦しかった。でも、ママがいれば平気だった。「ママと同じ色だね」とほほ笑んでくれるママがいれば、美雨は何があっても平気で、どれほど怪物が恐ろしくても、美雨は大丈夫だった。


 ママの香りが好きだった。ママはどこかのお菓子の工場で働いていて、いつもお洋服から甘い匂いが漂ってきた。ママの腕の中で、甘い匂いに包まれて眠れば、どんなに恐ろしい怪物が暴れていても、楽しい夢を見ることができた。ママからもらったうさちゃんのヘアピンは、かすかにママの香りがした。


 それなのに。


 あれは、いつだったのかな。思い出さなくていい? でも、頭が痛くて仕方ない。お腹の中がぐちゃぐちゃで、全てのものが口から飛び出してしまいそうだ。美雨は、美雨は、美雨は、美雨は、ただ、怪物が恐ろしくて、助けてって叫んだだけだった。


 痛かった。殴られるのも、蹴られるのも。痛みを感じるたびに、涙が溢れて、でも泣けば泣くほど殴られた。目障りだって。その髪も目も、気味が悪いって。美雨だって、なりたくてなったわけじゃない。だから、どうしようもなくて、口から飛び出したのは、助けてってただその一言だった。きっと、声にもなっていなかった。


 気が付けば、目の前で怪物が倒れていた。ママが私の前に立ちふさがって、聞いたことのないような、低いうなり声を出す怪物を、見下ろしていた。怪物のお腹から赤い、赤い、液体が流れていた。


 怪物が叫んでいた。助けて、許して。聞いたことのない、情けない声。それはもう、怪物でもなんでもなくて、一人の男の人だった。


 ママは何も言わずに、手に持っていた包丁を振り下ろした。ザクッという音が聞こえて、男の人が悲鳴を上げて、ママは何度も何度も包丁を突き刺して、次第に、その悲鳴は聞こえなくなった。美雨は、その様子を何も言えずに眺めていた。


 ママがゆっくりと振り返って、その顔は真っ赤に染まっていて、美雨は、ママのそんな顔、見たことがなくて、凍り付いたように動けなかった。


 ママは手に持っていた包丁を落として、真っ赤な手で顔を覆って泣き崩れた。手の隙間から「ごめんね……ごめんね……」と小さい声が聞こえてきて、ママは美雨に近づいて、美雨を抱きしめた。


「ごめんね……美雨……ごめんね……」


 ママの甘い香りがした。鼻をつく異臭。生臭い、気持ち悪い臭い。吐き気がした。


 ママの細い腕が美雨に伸びてくる。その時、美雨は、ママが何をしようとしているのか、わかってしまった。


「ごめんね……」


 ママの手が美雨の首に触れて、ぬるりとした感触がした。その瞬間、美雨は足元に落ちていた包丁を手に持って、目の前のママに突き立てた。


 悲鳴が聞こえた。すぐそばで。その声を聞きたくなくて、美雨はママが怪物にしたように、何度も何度も包丁を突き立てた。目から、血なのか涙なのかわからないものが流れていた。


 部屋の中は真っ赤で、誰の声も聞こえなくなって、美雨は泣いた。苦しくて、悲しくて。


 美雨にママとパパはいない。美雨の家族はミーちゃんだけ。生まれた時からずっと、美雨はミーちゃんと一緒。だって、そうでしょ? だから、美雨は助けてって叫ぶの。


    ◇


 ママとパパなんて、いない。「だッテ、ミうガ、こロしタ、かラ」


 ミーちゃんの口から放たれた言葉に、その場は静まり返った。


 月光本家の中は大暴れしたミーちゃんによって、破壊の限りを尽くされている。術を行っていた月光本家の神子の多くが負傷し、中には腕や足を食いちぎられた者や、ミーちゃんに飲み込まれて跡形もなく消え失せた者もいた。


 美雨とともに月光本家に連れてこられ、別室で待機させられて、騒ぎを聞きつけ部屋を飛び出した衣織と将も、駆け付けた沙乃も、部屋から出てきた翼と尊も、凍り付いたように動けなかった。


 美雨は顔を覆って泣き叫んでいた。美雨の悲痛な叫び声と、あたりの人々の悲鳴が混ざり合う。


 ミーちゃんはたどたどしい言葉で、ところどころ苦しげなうめき声を上げながら、美雨の過去を話し終えると、不意に大きく口を開けて、赤黒い血液を大量に吐き出した。血液とともに、肉片のようなものと、白い骨の欠片のようなものが吐き出される。


 ミーちゃんは血液を吐き切ると、大きな悲鳴にも近い声を上げた。美雨はその声を聞きたくないというように耳を塞ぎ、声の限り悲鳴を上げる。


 ミーちゃんは徐々に肥大化していき、その身体が大きく、大きく膨らんで、角のような突起が無数に飛び出す。大きな目玉は血管が浮き出し、赤色に染まっていく。身体中から短い腕が飛び出し、ミーちゃんの姿は百足のように変化した、


夜闇照よやみてらすは朧月おぼろづき月夜願つきよねがいて道示みちしさん。やみたばねしかげ巨塔きょとうよ、いのりおもいてこのまもれ」


 聞こえた声に沙乃がはっと我に返り、尊の方を見た。尊の手には瑠璃色の数珠につながった真っ白な八尺瓊勾玉やさかにのまがたまが握られており、尊の両目が青色に輝いている。


「神格解放 その名を、月夜見尊つくよみのみこと


 八尺瓊勾玉が光り輝き、あたりを照らした。周囲の人々が我に返り、尊の方を見る。尊は光り輝く八尺瓊勾玉をミーちゃんにかざし、険しい顔をして美雨を見つめる。


月華げっか


 人々の陰から金色の花が咲き、花は中央の核から光の線を放って、人々を囲むように結界を作り上げる。ミーちゃんが近くにいた神子に向かっていったが、結界によってはじき返され、低いうなり声を出した。


月影つきかげ


 その瞬間、ミーちゃんの下にある影が棘のようになって無数に飛び出し、ミーちゃんの身体を貫いた。ミーちゃんの口から大量の血液が飛び出し、あたりに飛び散る。ミーちゃんが大きな叫び声を上げて、それを掻き消すように美雨が甲高い悲鳴を上げた。


 ミーちゃんは尊を睨みつける。八尺瓊勾玉から放たれた光は弓矢のように変形し、尊は静かにミーちゃんを睨みつけながら弓を引き絞り、狙いをミーちゃんに定めた。


「やめろっ‼」


 矢が放たれる瞬間、衣織が美雨の前に立ちふさがり、尊が目を見開いた。放たれた矢は真っすぐ衣織に向かっていき、尊がとっさに八尺瓊勾玉から手を離して、八尺瓊勾玉の光りが消えると同時に光の矢と結界が消える。


「衣織‼」


 沙乃が叫ぶと同時に、解放されたミーちゃんが衣織に牙を向いた。沙乃が衣織に手を伸ばすが間に合わない。衣織がぎゅっと目を瞑り、身構える。


 だが、ミーちゃんは衣織に噛みつく寸前に、ピタリと止まった。衣織が恐る恐る目を開く。ミーちゃんは低く唸り声を上げながら衣織を見つめ、美雨を守るように下がって、泣きわめいている美雨に寄り添った。


 衣織がゆっくりと美雨の方に近づいていき、周りの人々がその様子を静かに見つめる。ミーちゃんは唸り声を上げて衣織を警戒するものの、攻撃しようとはしない。


「……そこをどきなさい」


 尊が衣織に警告をしたが、衣織はそれを無視して、頭を抱えてうずくまっている美雨に手を伸ばした。


「……美雨ちゃんは、悪くない」


 衣織の手が美雨の頭に触れた。美雨の肩がピクリと動いて、衣織が優しく頭を撫でる。


「辛くて、苦しくて、誰かに助けて欲しくて叫んだだけ。悲しくて、見ないふりをしただけ。誰も、美雨ちゃんを責めたりなんてできない」


 ミーちゃんが徐々に小さくなっていく。泣き叫んでいた美雨は嗚咽を漏らし始め、小さな肩を震わせていた。


「……僕も、わかるから。苦しくて、痛くて、誰かに助けて欲しくて、手を伸ばしたから。たとえ、それが人でなかったとしても、美雨ちゃんにとって、それが何者にも代えがたい、大切なものなのなら、僕は」


 衣織が美雨の小さな身体を抱き寄せた。ミーちゃんはついに元の大きさに戻り、それでも美雨と衣織を守るように、あたりを警戒しながら見回している。


「君を、誰にも傷つけさせない」


 衣織が美雨を優しく抱きしめる。その様子を見ていた月光本家の神子の一人が、大人しくなったミーちゃんに神器を向けようとした。ミーちゃんがそれに気が付いて、うなり声を上げようとする。


「やめろ」


 尊の鋭い声が響く。その声は大声ではないにも関わらず、静かで重たい威圧感があり、神子が驚いて動きを止めた。尊は衣織と美雨をじっと見つめ、静かに口を開く。


「その子は人を傷つけた。人を殺した。それでも、その化け物の味方をすると?」


「僕は美雨ちゃんの味方をするだけです。ミーちゃんが美雨ちゃんに危害を加えるなら、僕はミーちゃんを斬ります」


「放っておいて被害が広がったら? 誰が責任を取る。その幼い少女に、そんな業を背負わせるつもりか。母を殺したと罪に苛まれた結果、自ら両親の記憶を封じたその少女に、これ以上の罪を着せるのか」


 尊の言葉に衣織が少し驚いた顔をする。尊の瞳は冷たいが、その奥にはどこか優しい色があった。


「宝刀がその責任を取りましょう」


 沙乃が口を開き、あたりの人々がざわめいた。


「だから、美雨を傷つけんといてください」


 沙乃の真剣な表情に、尊がふうと息をつき、あたりでざわめいている神子たちを一瞥すると、深々と美雨に向かって頭を下げた。


「私の家の者たちがした無責任なことをどうか許してほしい。非は全て月光にある。その者が殺した神子たちも、全て己らがした行動による自己責任。その少女がしたのは自己防衛のみ。なにも悪くない」


 尊が顔を上げる。ミーちゃんはじっと尊を見つめ、敵意が無いと判断したのか、美雨の首の後ろへと戻っていった。


「この一件は全て宝刀に一任しよう」


「ありがとうございます」


 沙乃が頭を下げたが、尊は険しい顔をして言葉を続けた。


「勘違いするなよ。私はその少女の身を案じているだけ。その化け物が危険と判断できたなら、迷いなくそれを叩き切る」


「えぇ。わかっております」


「こちらでもいろいろと調べてみよう。その少女の事件のこと、その化け物のこと」


 ミーちゃんが美雨の体内に戻り切ると同時に、衣織に抱きしめられたまま嗚咽を漏らしていた美雨の身体から力が抜け、衣織が慌ててそれを受け止めた。美雨の顔色は青白く、口から弱々しい息が漏れている。その様子を見た衣織が青冷めた。


「衣織! 早く美雨を医務室に‼」


「は、はい‼」


 衣織が美雨の身体を抱き上げて走り出す。沙乃は立ち尽くしていた将に近づき、耳元で何かをささやいた。その様子を横目に見て、月光の神子たちを見回した。神子たちは浮かない顔で立ち尽くしており、中には尊の顔色をうかがい、怯えている者もいる。


 ふと、神子たちの中で一人だけ、その場を去ろうとしている者がいることを尊が目ざとく見つけた。尊が翼の方を向き、翼がそれに気が付いて小さく頷くと、その場を去ろうとしている神子を追いかけていった。尊は険しい表情で、その様子を見つめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る