八刻 縁

 冷たい北風が通り抜け、人々が吐く息が白く変わる十二月。寒々しい空の下、学校終わりの夕暮れ時に、手をこすって息を吐きかけながら、マフラーを首に巻いた愛羽将は住宅街を歩いていた。制服の上から来たコートが風に煽られてはためく。


 ふと、将は前方に衣織の姿を見つけた。黒いモコモコのダウンジャケットを着て、自販機の前で立ち尽くしている衣織は、真剣な表情をしている。


「衣織さん!」


 将が名前を呼ぶと、衣織はびくりと肩を震わせて、将の方を見た。


「こんにちは」


「あ、こんにちは……」


「沙乃さんから聞きましたよ。八岐大蛇、大変だったみたいですね……」


「いや、僕はなにもできなかったので……」


「沙乃さんは本家のほうで山積みの仕事に追われています。頭を抱えてますよ。僕はなにもできないので、いつも通り学校に行きましたけど……」


「……近くの高校ですか?」


「はい。すぐそこです。……あの、なにを選んでるんですか?」


 将が衣織が持っているお汁粉を見て、問いかけた。


「あ……あの、美雨ちゃんを待たせてるんですけど、飲み物、何がいいかなって……」


「あ、それ衣織さんのですか」


「はい……」


「甘党なんですね~。美雨ちゃんはココアとかでいいんじゃないですか? 僕もなんか買おうっと」


 将が少し悩んでブラックコーヒーを選び、自販機からゴトンと缶コーヒーが出てくる。


「……ブラック……」


「あ、いつもはカフェオレとか選ぶんですけど、今日は最後の授業が持久走で、今、すっごく眠いんです……でも課題があるので眠るわけにもいかなくて……眠気覚ましにコーヒーをと思って」


「……僕、コーヒー飲めないので……すごいです」


 衣織がココアを選んで、自販機から出てきたココアを手に取る。


「……高校、楽しいですか?」


「え? はい。楽しいですよ。神子の仕事もあるので、部活には入れませんけどね」


 衣織が少し暗い顔をして、将から目を逸らした。将が不思議そうな顔をする。


「……沙乃さんに、よく、言われるんです。学校に行かないのかって……」


「え? ……失礼ですが、衣織さん、おいくつですか……?」


「……十七……」


「十七⁈」


 将が缶コーヒーを落としそうになって、慌てて受け止めた。


「あ、す、すみません! え、じゃあ、僕と一歳差ですか? ぼ、僕、十六歳……」


 将が信じられないというように衣織を見つめる。衣織が苦笑いをして、将が自分の頭に手を置くと、不服そうな顔をした。


「……神様は残酷です……」


「あ……えと……だから、その……敬語使わなくていいですよ……僕はもう、癖みたいなものなので……」


「本当⁈」


 将が顔を輝かせ、衣織が面食らった表情をする。


「いや~、本家って僕と同い年ぐらいの人いなくて、堅苦しいなぁ~って思ってたんだよ~。衣織さ……衣織がいるなら安心だね! 僕のことも将って呼んで! 敬語も使わなくていいからね!」


「は、はい……」


「あ、美雨ちゃん待たせてるんだよね? 早く行ってあげないと!」


 将が「僕も美雨ちゃんに会いたいから」と衣織についっていって、二人は美雨を待たせているという公園に向かった。公園のベンチの上で、美雨は退屈そうに足をばたつかせながら座っていて、衣織を見つけると笑顔を浮かべたが、その後ろにいる将を見て、顔をしかめた。


 美雨はモコモコの薄ピンク色のコートを着ていて、手にはウサギの柄がついたミトンの手袋をはめている。美雨は近づいてくる将を警戒するように身構え、「こんにちは」と笑顔を浮かべる将の横を通り過ぎ、衣織の後ろに隠れた。将が驚いたような顔をする。


「み、美雨ちゃん……将のこと、覚えてないんですか?」


 美雨は衣織の服を掴みながら首を縦に振る。将があからさまに悲しそうな顔をした。


「そっかぁ……覚えてないかぁ……美雨ちゃん、僕は衣織の友達だよ。だから、そんなに怖がらないで……」


「……いおり、飲み物」


「あ、はい……」


 美雨に急かされて、衣織が美雨に缶のココアを手渡すと、美雨は顔をしかめた。


「……美雨、甘いの飲めない……」


「え?」


「美雨、コーヒーがよかった」


「じゃあ、カフェオレとかにしますか?」


「ううん。ブラック」


 美雨の一言に衣織と将が目を丸くした。美雨は不服そうな顔をして、衣織を見つめている。


「あ、じゃあ、僕と交換しよう」


 将が美雨に缶コーヒーを差し出して、美雨がそれを受け取り、ココアを将に渡す。美雨は嬉しそうに笑って、ベンチに座ると、缶コーヒーを開けて口を付けた。熱くて飲めないのか、飲み口にフーフーと息を吹きかけながら飲み進めていく。


「……なんというか、大人だね、美雨ちゃん……」


 甘党の衣織が複雑な表情をして、ベンチに座りながらお汁粉を開けた。衣織の隣に将が座る。


「みんなに変だって言われるよ。子供なのに、どうして甘いものが嫌いなのって。でも、美雨にとっては、みんなの方がおかしいもん」


「どうして?」


 将が問いかけた途端、美雨は顔をしかめて立ち上がった。将が目を丸くして、傷ついたような顔をする。だが、美雨は衣織の方を見ていた。


「いおり、あっち行って」


「……え……?」


 美雨は衣織が持っているお汁粉を怪訝そうな目で見つめ、二、三歩後ろに下がる。


「甘い匂いがダメなの?」


「……怒らない?」


 美雨が二人の顔色を伺うように尋ねて、衣織が美雨に言われた通りに、美雨から少し距離を取った。そして、美雨は俯きがちに、小さく呟いた。


「甘いものは、血の匂いがする」


 美雨の言葉に、二人が目を丸くする。美雨はバツが悪そうな顔をしながら、言葉を続けた。


「みんなが甘いっていうものは、ぜんぶ血の臭いがするの。生臭くて、鉄臭いにおい。美雨、そんなもの食べられない」


 二人は呆然と美雨を見つめていた。二人の表情に美雨が泣きそうな顔をして、二人がはっと我に返った。


「だ、大丈夫だよ! 無理して食べなくていいんだよ。人それぞれだから、ね?」


 美雨は浮かない顔をしている。衣織は手に持っているお汁粉をどうしたらいいかわからず、蓋を開けたまま口を付けられないでいる。それに気が付いた美雨は、缶コーヒーをグイッと一飲みにすると、空になった缶を将に手渡し「ブランコに乗ってくる」と言って、ベンチと反対方向にあるブランコに向かっていった。


 衣織は申し訳なさそうな顔をしながら、お汁粉に口を付けた。将も美雨に渡された空き缶を置くと、ココアを飲み始める。遠くでブランコを漕いでいる美雨を見つめて、将が口を開いた。


「両親の事件による、精神的なもの……なのかな」


「……わかりません」


「僕たちはまだ、なにも知らないんだよね」


 衣織はなにも言わず、考え込んでいた。防人家での八岐大蛇騒動により露呈した、ミーちゃんのさらなる異常性と、謎の老婆の言葉。


「……知らなければ、対処のしようがない」


「ですが……誰に聞いてもミーちゃんのような事例はないと、正体はわからないと言われるだけです……無理矢理どうにかしようとすれば、ミーちゃんが暴走して、美雨ちゃんに危害が加わる可能性も……」


「……ミーちゃんの対処じゃなくて、まずは、美雨ちゃんのことを知るべきじゃないかな?」


「え?」


 美雨は一人でブランコを漕ぎ続けている。その姿は寂しげで、夕日に照らされた白髪が輝いていた。


「前も言った通り、美雨ちゃんとミーちゃんを繋ぐ縁は悪縁……しかも、お互いにとても強い執着で縛られているんだ。普通に考えて、あんな化け物を家族であると認識するなんて、異常すぎる。美雨ちゃんの心はとても危うい状態にあって、それを保つために、ミーちゃんを支えにしていて、ミーちゃんを殺すことで美雨ちゃんが壊れてしまうなら、美雨ちゃんの心をどうにかすれば、ミーちゃんを斬ることができるんじゃないかな?」


「……それ……は……」


「僕の知合いで、そういう心の問題についてのプロ……というか、カウンセラーがいるんだ。どうかな? 一度、美雨ちゃんを連れて行ってみない?」


「……僕たちだけの考えで、勝手に連れて行ってしまっていいんでしょうか……」


「行動しないと、何も変わらないよ。僕は美雨ちゃんを助けたい。……あの悪縁をどうにかして断ち切らないと、大変なことになると思うんだ……」


 将の真剣な表情に、衣織が小さく頷いた。将が飲み終わったコーヒー缶をベンチに置き、ブランコを漕いでいる美雨の元に向かっていった。ブランコを漕ぐのを止めた美雨と目線を合わせようとしているのか、地面に膝をついて美雨と何かを話している。


 その様子を眺めながら、衣織はお汁粉を飲み終え缶を置く。ふと、視線を感じて前を見ると、将と話していた美雨が衣織に向かって嬉しそうに手を振っていた。その姿に衣織が柔らかく微笑み、美雨に向かって小さく手を振り返した。


    ◇


 翌日の夕方。美雨と衣織は将に連れられ、大きな料亭にたどり着いた。門前の看板には「御心亭」と書かれている。料亭のあまりの高級感に、衣織が驚いた様子で将の方を見て、衣織と手を繋いだ美雨も、不思議そうな顔で将を見つめた。


「……え、ここ……ですか?」


「うん。まぁ、びっくりするよね……。大丈夫、ちゃんと連絡は入れてるし、ここは僕の知り合いの人がやってるお店だから」


 将がそう言いながら二人を連れて門をくぐると、大きな日本庭園の先にある店先に、一人の女性が立っていた。綺麗な黒髪をシニヨンにしてまとめ、白色の着物を身に着けた美しい女性は、三人の姿を見て頭を下げると、柔らかく微笑んだ。


「ようこそおいでくださいました~。私はここ、御心亭の女将をしております、月光本家の神子、豊穣美乃梨ほうじょうみのりと申します~。以後、お見知りおきを~」


 のんびりとした美乃梨の口調に、衣織の緊張が少し和らぐ。美雨は相変わらず人見知りをしているのか、衣織の後ろから出てこない。


「お久しぶりです、美乃梨さん。急な話ですみません」


「いいのですよ~。将君も、もう高校生ですか~。大きくなりましたね~」


「こちらの方は神崎衣織さん。そしてこっちが今回話した時輪美雨ちゃんです」


「よろしくお願いしますね~」


 美乃梨がまた深々と衣織に向かって頭を下げる。衣織が慌てた様子でつられるように頭を下げた。美乃梨は顔を上げると、その場にしゃがみ込み、衣織の後ろに隠れている美雨と目線を合わせる。美雨がビクリと驚いて、衣織の手をぎゅっと握った。


「こんにちは~。あなたが美雨ちゃんですね~。可愛らしいお嬢さんですねぇ」


 美雨は逃げるように目線を逸らす。美乃梨は笑顔を浮かべたまま立ち上がると「どうぞ~」と店に招き入れた。高級感溢れる装飾品が並ぶ廊下を、三人は美乃梨の後に続いて歩いていく。しばらくして、美乃梨は三人を個室に案内した。


「皆さん、夕飯はお済みですか~?」


「え? まだですけど……」


「それならお二人の分も用意しますね~」


「そんな、申し訳ないですよ!」


「いいのですよ~。ここは料亭。お客様にお食事をお出しするのが私の役目。しばしお待ちくださいね~」


 美乃梨が部屋から出ていく。残された三人は部屋の座椅子に座って、衣織が心配そうに将に声をかけた。


「あの……美乃梨さんと言う方、月光本家の神子と言っていましたけど……」


「うん。美乃梨さんは月光本家の神子だよ。心配しなくても、美乃梨さんに美雨ちゃんについて詳しくは言ってないんだ。ただ、カウンセリングをしてほしい子がいるってことしか言ってない。沙乃さんに他言はあまりするなって言われているからね」


「ねぇ、昨日から言ってるカウンセリングってなあに?」


 美雨が不意に二人に問いかる。美乃梨がいなくなった途端、警戒心が薄れたようだ。


「難しいことじゃないよ。あの美乃梨さんって人とお話をするだけ」


「どうして?」


「……えっと、美雨ちゃんのことをもっと知るため……かな?」


 美雨は興味なさげにふうんと呟き、部屋を不思議そうに見回した。


「それにしても、カウンセリングってこう……病院にいくのかと思ってました……」


「美乃梨さんは少し特殊だからね。神子といっても僕たちとは違う方法で禍ツ神の被害を押さえているんだ」


「その通りですよ~」


 扉を開けて部屋に入ってきた美乃梨が、運んできたワゴンを廊下に止めると、いい匂いが部屋の中に漂ってきた。美雨が少し目を輝かせる。美乃梨は腰に白いエプロンを巻いており、たすき掛けで着物の袖を上げていた。


「私の守神は食の神様。美味しい食事は心も身体も健やかにするのです~。私は禍ツ神の根源である、人の悪しき心を取り除くため、患者さんのカウンセリングをしながら料亭をやっているのですよ~」


 美乃梨が机の上に豪華な食事を並べていく。鼻をくすぐる香りに美雨が身を乗り出して目を輝かせた。その様子を見て「和食はお好きですか~?」と美乃梨が問いかける。


 その時、「キャー!」という子供の楽しそうな声とともに、バタバタと走っていく音が聞こえてきた。美雨がビクリと肩を震わせる。


「子供……?」


「申し訳ありません~。今日は定休日なので、患者の子たちを預かっているのですよ~。遊び盛りですから、多めに見てあげてくださいね~」


 美乃梨が申し訳なさそうにそう言って「どうぞ食べてください」と三人に箸を配る。三人は食事に手をつけて、その美味さに顔を輝かせた。美雨は嬉しそうな顔をしながら、魚の煮物や野菜の天ぷら、汁物などを頬張っている。その様子を見て、美乃梨が少し驚いたような顔をした。


「なんというか……大人ですね~、美雨ちゃん。和食は小さいお子様にはあまりお口に合わないことが多いので、どうしようかな~と思っていましたけど、大丈夫そうですね~」


「美乃梨さんの料理はいつでも美味しいですね! 流石です!」


「ま~、お世辞も上手になりましたね~」


 にこにこと笑みを絶やさない美乃梨は、三人が食事をする姿を嬉しそうに眺めている。


 三人が食事を終え、美乃梨が食器を片付け終えた後、衣織と将は別室に案内された。


「カウンセリングを始めますので、少し待っていてくださいね~」


 衣織と将と引き離された美雨は少し不安そうな表情をしていたが、美乃梨の柔らかい笑顔に、大人しく部屋に残った。


 別室に残された二人は、机を挟んで向かい合い、座椅子に座っていた。二人の間に沈黙が流れる。その沈黙を破るように、将が口を開いた。


「美乃梨さんは、僕の恩人なんだ」


「恩人……ですか?」


「僕の守神は特殊だって前に話したよね? 縁を司る神様。通常、神子は自分に宿っている名無しの神に名前を与え、守神という神格を与えて力を貸してもらうもの。だから、神子は神降ろしの儀を行うことで、正式に神子として本家に認められる。衣織もそうだったでしょ?」


「そうですね……僕の場合は、神の名づけ親が琥太郎ですが……」


「そういう場合もよくある話だね。師匠から神の名が受け継がれる。でも、僕はそういうのもなく、宿っていた神様が、もともと名前を持っている状態だったんだよ」


「え……?」


 衣織があり得ないというような顔をする。


「……ありえるんですか?」


「僕は本当に特殊な例だね。……面白くはないかもしれないけど、僕の身の上話、聞く?」


 寂しげな表情で笑った将に、衣織が小さく頷いた。


    ◇


 小さい頃から、変なものが見えた。それは人のことをじっと見つめていたり、肩の上で怪しく蠢いていたり、脚に縋り付いていたり。それが禍ツ神という悪しき存在であることを知ったのは、僕が神子になった時だった。


 誰に言っても信じてもらえない。僕の家は神子との関わりもなかったから、頭がおかしい子と思われていた。だからと言って蔑ろにされることはなかったけれど、僕が変なものを見たというたびに、両親が困ったように笑うから、いつからか、僕はそのことを口に出さなくなった。


 そんな僕を唯一信じてくれたのは、おばあちゃんだけだった。おばあちゃんも別に禍ツ神が見えるわけではなかったし、神子と関わりがあるわけではなかったけれど、信心深い人だったみたいだ。


「将ちゃんにはね、きっと強い神様がついているのよ。神様は、いつも将ちゃんのことをみているのよ。だからね、なにも怖いことなんてないんだよ」


 おばあちゃんが大好きだった。怖い夢を見れば、いつでもおばあちゃんのところに行って、慰めてもらった。おばあちゃんから香る、薬品のような匂いが好きだった。


 そんなおばあちゃんが病気で死んだ日、僕は神隠しにあった。


 僕にはその時の記憶が全然ない。どこにいたのか、誰といたのか、その日の記憶はぽっかりと穴が開いたように見つからない。僕は一週間ほど行方不明で、僕を探し回っていた両親によって、どこかの小さな神社の前で倒れているところを発見された。


 その日から、僕は禍ツ神の他に、不思議なものが見えるようになった。


 人と人を繋ぐ赤い糸。それはどんな人にもあるもので、僕も両親と赤い糸で繋がれていた。両親だけでなく、僕が出会ったどの人にも、その糸は繋がっていて、不思議に思いながらも、僕はそのことを誰にも言わなかった。唯一理解してくれたおばあちゃんはもういない。両親をこれ以上心配させたくなかった。


 唯一の理解者を失った僕は、毎日が不安で押しつぶされそうで、誰かに相談することもできず、一人だけで泣いていた。夜の暗闇の中に潜む恐ろしい禍ツ神に怯え、布団の中に潜ることしかできない僕は、助けを求めて、亡きおばあちゃんを呼び続けた。


 ある日の夜、僕はまた、おばあちゃんの仏壇の前で泣いていた。幼い僕は、まだ、おばあちゃんの死を受け入れることができなくて、いつか戻って来てくれるんじゃないかって、また、僕に優しく笑いかけて、頭を撫でてくれるんじゃないかって、そう願って、仏壇の前で泣いていた。


 呼び続けて、呼び続けて、呼び続けて。気が付いたら、僕の手に黒色の糸が握られていた。とても硬い、針金のような糸。繋がっているところを見つけようと辿ってみても、その糸は遠いどこかへと続いていて、僕はその不思議な糸に惹かれた。


 それを辿っていけば、おばあちゃんに会える気がした。なぜかわからないけれど、それは、神隠しにあった時、何者かに惹かれて、歩いて行ったのと同じような感覚で、どこに行くのかもわからずに歩いて行った。


 その場所は、いったいどこだったのだろう。思い出せない。思い出してはいけない。その場所は、人間が踏み入ってはならない場所。


 おばあちゃんがいた。僕が大好きだったおばあちゃんがいた。存在してはいけない人が。


 糸はおばあちゃんと繋がっていた。僕はその糸を離さなかった。離せば、おばあちゃんがいなくなってしまう気がして。


 叫ぼうとした。おばあちゃん、と呼びたかった。僕の声は出なかった。出せなかった。それでも、おばあちゃんは僕のことを優しく抱きしめてくれると思った。笑いかけてくれると思って手を伸ばした。おばあちゃんは僕の手を掴んで、僕の目を見た。


解放はなして」


 その声はおばあちゃんのものだったかわからない。酷く苦しげなその声が、本当に僕の名前を呼んでくれた、あの優しいおばあちゃんの声なのか。おばあちゃんの姿は僕の思い出とはかけ離れていた。生気を感じない、青黒い肌も、焦点の合っていない目も、冷たい手の温度も。


 恐怖を覚えた。


 黒い糸は悪縁。繋いではいけない縁。僕はこの世を去った人のことを繋ぎとめてしまった。縛り付けてしまった。無意識だったとしても、それがどれほど恐ろしいことかも知らずに。


 縁を切ることは簡単だ。人の意志で断ち切ることだってできる。場所の縁、時の縁、それらを切ることは、けして容易にしていいわけではないけれど、できないことはない。


 反対に、縁を結ぶことは、人が踏み込んでいい領域ではない。縁の力は恐ろしい。人が容易に踏み込んでいいものではない。すべての縁は決められている。神様によって決められている。それを、侵してはいけない。踏み込んではいけない。


 僕は踏み込んでしまった。


 恐ろしくなって糸を放した。でも、その糸は僕の腕に絡みついて離れてくれなかった。おばあちゃんの声がこだまする。


 解放して、解放して、解放して、解放して。


 一度結んでしまった悪縁は、執着が強ければ強いほど、お互いのことを縛り付ける。それが人ならざる者であれば、余計に。


 毎日おばあちゃんの夢を見た。変わり果てた姿をしたおばあちゃんが、僕にずっと「解放して」と呟き続ける。そのたびに飛び起きて、起きていても声が聞こえてきた。


 糸は夢を見れば見るほどに、僕の身体に絡みついて離れない。次第に眠れなくなって、起きていてもおばあちゃんの幻影に怯える姿に、両親は僕を心配した。僕の精神はどんどんおかしくなって、糸はさらに黒く、太く、僕に絡みついて、両親が精神科病院に僕を連れて行っても、僕は治らなかった。


 そんな時、病院にきていた僕に声をかけてくれたのが、美乃梨さんだった。不意に声をかけてきたと思うと、僕の主治医と何かを話して、両親にも声をかけ、なにもわからない僕を、大きな料亭に連れて行った。そして、僕の前に、豪華な料理を並べた。


「悪夢を見るというのなら、そんなこと忘れてしまうぐらい、美味しいものを食べればいいのです~。そうすれば、綺麗さっぱり忘れてしまいますよ~。美味しい料理で心も身体も健やかになるのです~」


 にこやかにそう言った美乃梨さんに勧められるまま、僕は料理に手を伸ばした。お腹がすいていたわけではない。でも、料理から漂う良い香りに誘われるように、一心不乱に食べ続けた。食べていくうちに心がすっと軽くなる気がして、気が付けば、僕は泣いていた。これまで抱えていたものを吐き出すように、泣きながら話始めた僕を優しく見つめながら、相槌をうって僕の話を聞いてくれた。


「将君は悪くないのですよ。おばあちゃんのことを忘れる必要もないのです。将君はおばあちゃんに会いたかっただけなのですから。おばあちゃんとの楽しい思い出を思い出して。そうして、ちゃんと、おばあちゃんとお別れをしましょう」


 美乃梨さんの所に通い始めて数年、僕は夢を見なくなっていった。黒い糸は徐々に薄れていき、気が付けば、その糸は切れていた。おばあちゃんの姿を見ることはなくなった。


「どうやら、将君の神様は縁を司る神様のようですね~。将君の守神という神格を持ちながら、もともと縁という神格を持ち合わせていたということは、その神様はもともと将君についていた名無しの神様ではありませんね~」


「え?」


「将君についている神様は白山姫という名前持ちの神様のようです~。おそらく、白山姫が将君を気に入って、もともと将君についていた名無しの神様を追い出してしまったのでしょう。あくまで守神という神格を持っているので、将君に危害を加えることはありませんが、縁というものはとても力が強いもの。無知のままでは、今回のことのように悪影響が出るでしょう」


 そうして、僕は宝刀本家に連れていかれて、当時当主だった神崎琥太郎さんに出会った。

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