七刻 贄の神子
この男の、全てを見透かしているような目が嫌いだ。そのくせ、私とまったく目を合わさない。私に何も求めなければ、私に何も与えない。すべてを閉ざし、すべて隠して、誰にもその真意を見せようとはしない。
この男は生涯、何も愛さない。妻も、自分の娘も、自分自身も。それが嫌いだ。私の真意をどこまでわかっているのか見せもしないその態度。胡散臭い、薄ら笑い。
この男が私にその視線と体温を与えたのは、ほんの一瞬にも満たない一夜だけ。
愛してくれない。だけど、この男は私でなくとも愛さない。だから、愛してる。
それなのに。
なぜこの男は私を救いに来たのだろう。守るように立っているのだろう。神格解放の反動で自身の身体が崩れているにも関わらず、なぜ、愛してもいない女を救おうとしているのか。
わかっている。理解している。贄の神子である私が食われれば、この化け物が力を取り戻す。それを阻止しに来ただけなのだろう。
期待を抱けば抱くほど、絶望に落とされることは知っている。この男が私に微笑みかけることなどないことも。
この男の横顔が、いつも私を酷く傷つける。
◇
私が生まれた防人家は代々、女の神子を八岐大蛇の贄に捧げる、贄の神子の家だった。
その昔、自然災害が化け物によるものだと考えられていた時代、人々が生み出した伝承によって生み出された禍ツ神。それが、宝刀分家の防人家が長きにわたり管理を続ける、三神と呼ばれる禍ツ神の一人、八岐大蛇だった。
それは、伝承を依り代にした、禍ツ神たちの集合たちであり、元は自然災害を引き起こす力など持たない小さな神だった。それを人々は恐れ、崇め、贄の儀式を行ったことにより、神は八岐大蛇という神格を持ち、伝承は事実となってしまった。
八岐大蛇は伝承に縛られ、伝承通りに数十年に一度目覚め、自然災害を引き起こす。人が作り出した神と言っても過言ではない。
伝承は人間が存在する限り、消えることなく残り続け、それを糧として存在する八岐大蛇を完全消滅させることはおろか、封印をすることすら困難であり、数十年に一度気まぐれに目覚め、大きな自然災害を引き起こす八岐大蛇に対して人間が唯一できた抵抗は、贄として女の神子を捧げ、八岐大蛇の機嫌を取り続けることのみ。
人の伝承によって生まれた神は、その存在自体が不安定であり、知性を持つことなどなく、何の目的もなく気まぐれに、まるで癇癪をおこした子供のように、災害を引き起こし、多くの人の命を奪う。
それを防ぐため、宝刀本家が生み出した、神子柱という贄の神子。
生まれた時から、いつか化け物に食われるのだと、母は私に言って聞かせた。祖母は幼いころに会って以来、もうほとんど顔も覚えていない。祖母は私が物心つく前に、あの化け物に食われていた。
そして、私が十歳のころ、母も、化け物に食い殺された。父は八岐大蛇が起こした川の氾濫に飲み込まれ、この世を去った。
母を食い、父を奪った八岐大蛇は、何事もなかったかのように眠りにつく。多くの者を犠牲にして。
贄の神子の血筋を途絶えさせないために、私には幼い時から許嫁がいた。宝刀本家の神子一家の長男。その男は、いずれ化け物に食われる私を愛すと、支えると言ってくれた。
「たとえいつか死んでしまうとしても、私は君のことを愛しているよ」
愛していた。許嫁を、その男を。幼いころからそばにいて、私に優しく笑いかけ、母が死んだときも私を慰めてくれた。たとえ食われる運命だとしても、食われるための命だとしても、許嫁が笑いかけてくれるだけで、私には生きている意味があるのだと思えた。
幸せだった。限られた時間だとしても、幸福だった。
◇
母が食われてから六年後、八岐大蛇は再度目覚めた。それは、あまりにも早すぎる目覚めだった。止めるには、私が贄になるほかないが、そうすれば贄の神子の血は途切れることになる。それでも、私は贄になるしかない。
たとえ贄の神子の血が途切れても、また贄の神子一族を作ればいいだけなのだ。化け物に食われるためだけの命を作り出せばいい。
許嫁は悲しそうな表情をしながらも、いかないでくれと、止めてくれることはなかった。
十六夜滝の目の前で、神子装束を身に着けて、目覚めようとしている八岐大蛇の復活を待った。一人でいる時間はそれほど長くはなかったはずなのに、まるで永遠のように感じられて、涙を流すこともなく、短かった生涯を思い返した。
誰かに愛されていた。それだけで、幸せな生涯だったのだろう。
水が跳ねる音がして、我に返って振り返ると、川の中から現れた八本の首が、私を見つめていた。黒光りする鱗に覆われた身体、赤く光る目、八つの頭にそれぞれ生えた二本の角。
恐怖を覚えた。母はこれを前にしても、私に向けた穏やかな表情でいられたのだろうか。
私には、無理だ。
なめるように私を見つめる視線に、その場から逃げ出したい衝動にかられた。悲鳴を上げて、泣き出したかった。そんなこと許されないことを理解しながら。
私が悲鳴を上げるよりも早く、八岐大蛇は私に食らいついた。首がそれぞれに私の四肢に噛みついて、骨が砕ける音と血の臭いとともに私を襲った激痛に、声を上げることもできず、その痛みに意識が侵食される。
せめて一思いに一飲みで殺してくれればよかったのに、邪の化身にそんな優しさなどあるわけがなく、身体から血を流す私を弄ぶように、八岐大蛇は私の四肢を引きちぎった。身体が冷たくなって、これが死なのだと理解した。
これが、私がずっと教えられてきた死なのだと。
「
ほとんど機能しなくなった耳が、その声だけを鮮明に拾い上げた。力強い、凛とした声。赤く染まった視界の中で、八岐大蛇の首が斬り落とされるのを見た。誰かが私を守るように立ちふさがり、八岐大蛇に剣を向けている。
あり得なかった。八岐大蛇の首を切り落とすなんて、人間ができるはずがない。自然災害という到底抵抗しえないものに抗うなど、誰が考えるのだろう。
それなのに、宝刀本家前当主、神崎琥太郎という男は、それに抗ってみせた。
八岐大蛇の首が次々と切り落とされていく。琥太郎は傷だらけになりながら八岐大蛇と戦い、ついに、八岐大蛇を封印した。
右手以外の手足をもがれ、息も絶え絶えで、生きているのが不思議なくらい、いっそ、この痛みから逃れられるのであれば、死んでもいいと思っていた私を、琥太郎は、自身の身体から血が流れているにも関わらず、強く、強く抱きしめた。
「すまん、すまんな。守ってやれんくて、すまんな」
なぜ謝るのか、守るとはなんだと聞く前に、今まで堪えていたものがはち切れたように、私は涙を流した。激しい痛みも、流れる血液も忘れて、押し殺していた感情を、全て曝け出した。
◇
八岐大蛇は琥太郎が持っていた神器の片割れである十束剣によって封印され、二度と目覚めることのないように、幾重にも結界を貼られて、十六夜滝の裏の洞穴に封印された。
それにより、贄の神子の存在は不必要のものになり、防人家は代々、八岐大蛇の封印を管理することを命じられた。それは、本家が決めたこと。
手足を失った私は一命をとりとめたものの、二度と自由に動くことはかなわず、一人で生きていくことができない身体になった。そして、許嫁は、そんな私を捨てた。
「君を支える自信がない」
投げかけられたその言葉を、そのままの意味で受け入れることなどできはしなかった。
違うだろう。手足を失い、身体中に生々しい傷跡がある女のことを愛せなくなっただけだろう。支えてほしいわけではない。ただ、そばにいてくれればよかった。女としての尊厳を失った私が、それ以上のことを望むのはおこがましい。
自分の運命を憎んだ。生まれた時から化け物の餌。大切なものは奪われるのが当たり前。誰かがやらねばならない役目を、知らないところで定められ、押し付けた本家を憎んだ。
その誰かが私である理由は、母であった理由は、どこを探せば見つかるのだろうか。
涙ほど、無駄なものはないと、嫌でも理解した。望むことすら許されず、戻らぬものを嘆くことなど、私の人生には、もう、必要ない。
琥太郎は私のことを気にかけて、度々、私の元を訪れた。
「守りたかったんや。お前の母親も。どこまでも強くて、優しい人やった。守りたくて、でも、わしはまだ弱くて、守ることができんかった。せやから、お前だけでも守りたかったのに、結局、守られへんのや。わしは、弱くてしょーもない奴やさかい」
手足の無い私に向けられる、同情と哀れみの目。琥太郎だけは、私と目を合わせてくれた。同情ではなく、明日を生きる希望をくれた。
「あなた様は抗えぬと言われていたものを打ち倒し、多くの犠牲が出ることを防ぎました。そして、死を待つのみだった私を救い、贄の神子という我ら一族をお救いくださった。それでいいではありませんか」
「……でも、お前は笑っとらんやろう」
「笑い方を忘れただけです。命があるだけ、私は救われております」
私の言葉に悲しそうな表情を浮かべてくれる優しい人。なんの躊躇いもなく私の目を見つめ、にこりともしない可愛くない女の頭を優しく撫でて、忘れた笑い方を教えようとしてくれる。神に愛され、世界に愛される男。
「もう、会いに来ないでくださいませんか」
この男は、私を愛してくれるだろう。支えてくれるだろう。でも、この男は私でなくても、優しくその手を差し伸べる。役目を押し付けられたのが私たちでないとしても、命をかけて守ろうとする。それは、全てを奪われた醜い女には、あまりにも眩しすぎる。
「顔も見たくないのです」
恋とは程遠いその感情は、憧れと嫉妬。たとえあなたが愛してくれても、その愛は、私にはあまりに不釣り合い。
琥太郎は驚いたような顔をして、その後もたびたび私の元に訪れたが、私はそれを拒絶した。
◇
贄の神子を生み出す必要はなくなった。それでも、自由を失ったこの身では、封印の管理はおろか、自分の世話さえできはしない。封印が解ければ、また悲劇が起こる。どれほど知識を付けたとしても、動けなければ意味がない。
「その役目、私が担いましょうか」
ある日、ふらりと現れた男は、私を前にして顔色一つ変えず、胡散臭い薄ら笑いを浮かべてそう言った。
「本家の神子が、なぜそのようなことを?」
「本家と馬が合わないだけですよ。あの連中は頭が固くてかなわない。それならば、分家の最高位の家に籍を置いた方がいいではありませんか。年下の男はお嫌いですか?」
私から目を逸らすことなく、笑みを浮かべて話す不気味な男。全てを見透かされているようで、気味が悪い。だが、その目は私を見つめているにも関わらず、どこか違う場所を見ている。目が合っているのに合っていない。
「あなたに何も求めなければ、与えることもしません」
その提案に乗ったこと、今でも後悔はしていない。山駕は有能な神子だった。本家が手放したことが不思議なほどに。封印の管理も本家との関わり合いも、私に変わって全てやってのけた。そして、本当に私に何も与えなかった。
夫らしいことをしたことなど一度もない。会話さえ、ほとんどしない。私にまるで興味がなく、娘に父親らしいことをしたこともない。
そんな男を愛する理由など、どこにあったというのだろう。
愛されたいと望んだことはない。それがどれほど愚かなことか、私は早々に理解したのだから。それなのに、なぜ愛してしまったのだろう。
この男は私のことを愛さない。私以外の者も愛さない。私に対してなんの感情ももたないから、私と目を合わせることができる。たとえ、その目に私が映っていないとしても。
すべてを愛すことのない、お前のことを愛している。そんなこと、口が裂けても言ってやりはしないけれど。この愛が伝わらなくともかまわないけれど。
大嫌いなお前に一身に愛を捧げる愚かな女を、何も知らずにあざ笑えばいい。
◇
自分の目の前に立ちはだかっている山駕に、血まみれで息も絶え絶えな薺は、目を見開き呆然としていた。山駕はその様子をちらりと一瞥すると、視線を目の前でうなり声を上げている八岐大蛇に向けた。
「……どれくらいもつ?」
「……は……」
「出血……聞くのも無謀か」
山駕の唐突な言葉に薺は口を半開きにしながら呆然と山駕を見つめる。山駕は変色した両手に力を込めて、斧を構えなおし、山駕の頬のヒビから、ボロリと土のような皮膚が落ちた。
「仕留める」
山駕がそう言って、八岐大蛇が口から黒い水をまき散らせながら吠えた。その瞬間、山駕は斧を横向きに振り、川の水をまき上げながら地面が壁のようにせり上がり、迫ってきた黒い水を防ぐ。
山駕が走り出し、せりあがった地面を駆け上っていくと、八岐大蛇の目の前に飛び出した。斧を振り上げ、八岐大蛇の脳天に向かって振り下ろそうとした瞬間、八岐大蛇が吠え、その衝撃で山駕の身体が吹っ飛ぶ。
山駕はせりあがった地面に斧の刃を突き立てて、空中で一回転すると、斧を引き抜きながら身体を持ちなおし、地面の上に立とうとして、山駕の右手の小指が崩れ落ち、地面が崩れ落ちた。
山駕が落下して、地面に身体が叩きつけられる。斧は山駕の手を離れ、音を立てて地面に落ち、砂のようにさらさらと消えていく。
山駕は素早く立ち上がり、ふと、足元の水に混ざって流れてきた鮮血を見た。そして、その血液が流れる元にいる薺が、とめどなく血が流れる左肩を押さえながら肩を上下に揺らし、苦しげな表情を浮かべているのを見た。
「……
山駕が出現した斧を手に持とうとして、その重みに耐えられず、ガクンと身体のバランスを崩した。それを狙ったように八岐大蛇は牙を向きながら山駕に向かっていき、山駕は八岐大蛇を睨みつけると、斧を持ち直してかまえた。
「
八岐大蛇が突然方向を変え、自分を弾き飛ばそうとした斧を避けて山駕に迫っていった。
「
山駕が斧を横向きに振り、斧の刃が八岐大蛇の牙に止められて、金属がぶつかり合うような音が響く。山駕が目を見開いた瞬間、八岐大蛇は目を細めて、斧の刃を粉々に噛み砕いた。
山駕が斧から手を離して後ろにのけぞる。斧は完全消滅し、八岐大蛇は牙を向いて山駕に迫っていく。山駕の頬に入ったヒビは広がろうとしていて、山駕は自分の頭を噛み砕こうとしている鋭い牙が目の前にあるのを見た。
「
突然現れた沙乃が持つ大剣の刃が、八岐大蛇の首に半分ほど入って、黒い水が溢れた。八岐大蛇は身をひるがえし、沙乃から距離を取る。沙乃は剣を構えながら山駕の前に立ちふさがる。
「遅れてすみません。他の首を仕留める時間を稼いでくれてありがとうございました」
「……薺は死んでいないか」
「かろうじて息があります。ここは任せて早く治療を———」
沙乃が言いかけて、目の前の手負いの八岐大蛇を食い入るように見つめた。
「……違う……なんで……」
「どうした」
「違う、そんなはずあらへん……もう、最後の一本……?」
「は?」
「うち、うち、六本しか斬ってへん……」
沙乃の言葉に山駕が目を見開いた。八岐大蛇がゴポッと口から水を吐き出す。
「雷、火、風、地、雪、ついさっき倒した海、そして今目の前にいるのが八岐大蛇の切り札、雨の首……山は……?」
「……まだいるのか」
「いや、こいつは、もう……最後の一本や……」
八岐大蛇が最後の力を振り絞るように、大きな咆哮を上げた。
「素戔嗚尊がそう言っとる」
沙乃が剣を構える。八岐大蛇の咆哮に合わせて川に流れ込んでいた黒い水が水柱を上げ、沙乃に向かっていった。その水は弱々しく、形を保ちきれずに崩れかけている。沙乃が剣を一振りした瞬間、水柱は砕け散った。
「なんや、よう知らんけど、とりあえずお前をぶった切ったるさかい、覚悟しい」
沙乃が目にもとまらぬ速さで八岐大蛇の目の前に飛び出すと、大剣を振り上げて八岐大蛇に刃を向けた。八岐大蛇はそれを防ぐように口から水を吐き出し、黒い水が沙乃にかかる。水は沙乃がまとう白いオーラに弾かれて、沙乃の身体に一滴も付着せず、風に乗って吹き飛んでいった。沙乃と八岐大蛇の目が合う。
「
沙乃が剣を振り下ろし、大剣の刃は八岐大蛇の首の脳天から切り裂いて、八岐大蛇は縦向きに真っ二つになって川に落ちて行った。あたりに大量の黒い水がまき散らされ、川にどろどろと流れこんでいく。
「沙乃様‼」
沙乃が聞こえた声に振り返った。八岐大蛇の腹の上で、山駕に身体を支えられている血まみれの薺が、沙乃に向かって右手に持った十束剣を掲げ、叫んでいる。
「これを‼」
沙乃が片手を伸ばし、十束剣はそれに吸い寄せられるように光に包まれて沙乃の手に収まって、沙乃は黒い水が集まり、渦を巻いている川の水面に十束剣を突き立てた。
「
十束剣は光り輝き、黒い水が引き寄せられるように十束剣の周りを回り始めた。水は十束剣の刃を伝って昇っていき、刃に吸収されていく。
「
沙乃がそういった瞬間、十束剣が発光し、黒い水はその光に飲まれて消えていって、山駕と薺が乗っていた八岐大蛇の腹が消えていく。それに気が付いた沙乃は十束剣から手を離して、素早く二人を抱き上げて川岸に降ろした。
十束剣は黒い水を完全消滅させ、光り輝いたまま一人でに宙に浮くと、次の瞬間、目にもとまらぬ速さで光の玉のように十六夜滝の方向に飛んでいき、祠の奥にある石の台座に刀身を差し込んだ。
最後に聞こえた八岐大蛇の咆哮は、十束剣が完全に台座に刺さるのと同時に、滝の音に掻き消されて消える。雨がやみ、空を覆っていた分厚い雲が消え失せて、太陽が顔を出し、川は元の美しい色に戻って、その水位が下がっていった。
川の近くにいる人々は、全員、雲が晴れた空を見上げた。
「……終わりました」
沙乃がポツリと呟き、山駕の腕の中で息も絶え絶えになった薺が安堵の表情を浮かべる。その瞬間、薺は口から大量の血を吐き出した。
「⁈ 人を呼んできますさかい、ここにおってください‼」
沙乃が血相を変えて走り出し、巻き上がった風と共に姿を消した。薺の左肩に開いた穴から血が溢れ、山駕の着物を赤く染め上げていく。呼吸が弱々しくなり、薺の口から溢れる血は止まらない。
「……死ぬなよ」
山駕が着物の袖を破り、その布を薺の左肩に巻き付けてキツク縛った。薺は焦点の合っていない瞳で、ぼやける視界のなか、はっきり見えない山駕の顔を見つめる。
「あなたが死んだら、あの娘はどうなる」
「……ふっ……」
山駕の言葉に、薺は力なく笑った。
「お前の苦しむ顔を見るまで、死んでやるものか」
◇
八岐大蛇が封印され、川の氾濫も収まって、防人家の召使兼神子たちが、咆哮によって破壊されたものを補強した防人家の家の中、戦闘を終えた者たちは、綺麗に晴れた空を見上げながら、各々が負った怪我の治療をしていた。
薺は重傷により昏睡状態。八作は神格解放による反動で、左腕に大きな火傷痕が残り、山駕の右頬には大きな傷痕、右手の小指は崩れて再生不可能になった。土砂に埋まっていた衣織は全身の痛みを訴えていたが、数日後には完治し、美雨は無傷。蓮華の首の痕も数日後には消えた。翼は一日も経たずに本家に戻ると出て行った。
八岐大蛇の封印から三日後、山駕と沙乃は一室に集まり、神妙な面持ちで会話していた。
「……謎が多すぎて、どうにも腑に落ちへん終わり方ですね。結局、封印を解いた馬鹿者は誰やったんです? いくら弱くなっていたとして、防人家の封印を解いてしまうほどの力を持った人物なんて、心当たりあります?」
「……幻燈翼だと思ったんだがね」
「翼?」
沙乃が山駕に訝しげな視線を向けた。
「あぁ……たしかにあいつ、なんでここにおったんやろ……」
「野暮用だとか。まぁ、でも、関係ないようだね。彼に封印を解けるとは思えない。それよりも可能性があるのは、娘の首を絞めた人物だろうね」
「蓮華と美雨を襲ったっていう老婆ですか?」
「娘がいうことを信じるならば、只者ではないだろう。何者かはわからないが、危険人物だ」
「……許せへんなぁ……あんな幼い子を殺そうなんて……」
「……八岐大蛇の首については?」
「一本足りないやつですか? ……衣織から聞いたんですが、あり得なくて……」
「なんだ?」
「……美雨に憑いている者はご存じですか?」
「あぁ」
「その……それが、八岐大蛇の首を食ったと……」
「……あり得ないが?」
「うちもそう思ったんですけど、衣織が言っとるし、一概にあり得ないとも言えんくて……」
「ねぇ」
聞こえた声に沙乃と山駕が声の聞こえた方を向いた。そこには蓮華が立っていて、沙乃が笑顔を浮かべながら「どないしたん?」と問いかけた。
「美雨のミーちゃん、大きくなってる」
「え?」
「れ、蓮華ちゃん……!」
後ろからパタパタと足音が聞こえて、衣織が現れた。衣織は沙乃と山駕の姿を見て、蓮華に声をかける。
「邪魔しちゃダメですよ……」
「邪魔してないわ。わざわざ教えてあげてるの。衣織は黙ってて」
蓮華の強気な言葉に衣織が何も言えずに黙り込む。
「蓮華、どういうこと?」
「そのままの意味。大きくなってる、この前より。あの蛇食べたんでしょ? それに、私の首絞めた人、ミーちゃん見てなんか言ってた」
「なんか?」
「名前みたいなの。でも、わからない。はっきり聞いたはずなのに、思い出せないの。まるで、その名前は呼んではいけないみたいに、その部分だけわからない」
「どういうこと……?」
「嫌な予感がするの。ミーちゃんを放っておいたら、美雨が取られちゃう」
そう言うと、蓮華は不意に歩き出し、山駕に近づいた。山駕の目の前で立ち止まり、山駕の右手を掴むと、なくなっている小指の部分を見る。
「……ママがね、目を覚ましたよ」
山駕はやめさせることもなく、目の前の娘をじっと見つめていた。
「馬鹿ね。ママもパパも馬鹿馬鹿しくてたまらない。あのね、パパ。私、別にパパのこと嫌いじゃないわ。だってパパは私のパパだもの。それ以上でもそれ以下でもない。父親という存在でしょ? パパは私と目を合わさない。でも、私、パパがなにを考えているかよくわかるわ。だって娘だから。娘ってそういうものでしょ? だからね、早くママのところに行っておいでよ。退屈な大人のお話は、しょうがないから私が引き受けてあげる」
蓮華が山駕から手を離し「ね?」と笑いかけた。山駕はしばらく何も言わず、自分によく似た娘の顔を見つめ、立ち上がり、親子の異様なやり取りに呆然としていた沙乃に「妻の話を聞いてくる」というと、部屋を出て行った。
「……あの、蓮華は今、何歳なん?」
「十歳。美雨と同じよ」
「なんというか……さすがあの二人の娘やなぁ……」
「ねぇ、パパの手は戻らないの?」
「え? あぁ、そうやね……戻らへんよ」
沙乃が蓮華に手招きし、蓮華は沙乃に近づいて、沙乃は蓮華の頭を撫でた。
「どうして?」
「う~ん……ちょっと難しいんやけどね、守神は神器を依り代に、その力を神子に貸しとるんやけど、神格解放っちゅうのは、神子自身の身体を依り代に、神様そのものを降ろして戦うもんなんよね。神様の力をそのまま使っとるんやから、そりゃ負担も大きくて、長時間使いすぎると身体を神様に持っていかれる。山駕さんの指は持っていかれてしもうたから、もう二度と戻らんのよ」
「その通り。そして、三柱の大神の一人、素戔嗚尊を守神に持つ沙乃さんは、常に神格解放状態を保つことができる、とても強い神子なんですよ」
不意に現れた八作が、沙乃に頭を撫でられている蓮華に笑いかけた。その左腕には包帯が巻かれていて痛々しい。
「蓮華ちゃん、美雨が寂しそうなので戻って来てくれませんか?」
「美雨が? 美雨も私がいないとダメね。衣織、行くよ」
「え? あ、はい……」
蓮華に促され、衣織が蓮華の後に続く。去っていった二人を見送って、沙乃が八作に声をかけた。
「腕は平気ですか?」
「まだ少し痛みますが、平気です。沙乃さんこそ、大丈夫ですか?」
沙乃が驚いたように目を見開いて、諦めたようにふっと笑った。
「八作さんにはかなわんなぁ……ちょっと右目の視力が落ちただけやさかい、全然平気ですよ。もともと目はええですから」
「来るのが早かったのも力を使ったからですか?」
「一大事やったさかい、まぁ、ちょびっとだけ。そんな顔せんでも本当に大丈夫ですよ。それよりも、蓮華の話、聞きました?」
「えぇ。大きくなっているそうですね」
「やっぱり放置は危険です。早く何とかしないと……」
「それもそうなんですが、沙乃さん、本家に戻らなくていいんですか? 付き人の方から連絡があったのですが……」
それを聞いた瞬間、沙乃の顔から血の気が引いた。
「……やばい……」
「早く帰られた方がいいですよ」
「や……山積みの仕事が目に見える……‼」
沙乃が頭を抱えてうなりだし、八作が困ったように笑った。
その日の昼下がり、沙乃と衣織と美雨は八作の軽自動車に乗せられて、防人家を去った。美雨がもう少し蓮華と一緒にいたいと駄々をこねたが、八作にたしなめられ、蓮華にも帰るように諭されて、渋々車に乗った。
悲しそうな表情を浮かべる美雨に、蓮華は笑みを浮かべると「また近いうちに会いに行くわ」と言って、美雨が嬉しそうに頷いた。
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