五刻 八岐大蛇

 山駕は裏山を走り抜け、十六夜滝の前にたどり着いた。滝の前には翼が立っている。あたりで黒い水がゆらゆらと揺らめき、雨に打たれている翼が振り返った。


「そこをどきなさい」


「……私がやったと思いますか?」


 翼が山駕に問いかける。山駕はその問いに答えず、ただじっと、自らの形を持とうとしている黒い水を見つめた。


「八岐大蛇の封印を解いたと」


「どうでもいい」


「私が来た時には、十束剣とつかのけんは抜かれていました。それに、いくら大災厄のせいで封印が弱くなっていたとして、防人家の結界を私ごときが解けるはずがない」


「どうでもいいといっている」


 黒い水は形を作り出し、それは神話などに登場する龍の首のような姿をしていた。首は滝から生えているようで、頭に生えた二本の角の周りには、水が漂っている。首はうねうねと動き、なめるように二人の姿を見つめて、大きな咆哮を上げた。


「この化け物が目覚めてしまった。それだけが事実だ」


 山駕がうごめく首を睨みつけた。


山罪やまつみ


 山駕の手元に大斧が出現した。山駕は斧を手に持ち、首に刃を向ける。


「素戔嗚尊でなければ、八岐大蛇は倒せません」


「足止めぐらいはできるだろう」


「……本家に連絡は?」


「妻がしている」


 不意に滝の水が一人でに動き、二人に襲い掛かった。まるで生きているように、雨によって汚く染まった水は、二人を飲み込もうと迫りくる。


宮比みやび


 翼が出現した扇を手に持ち、迫りくる水に向かって、振りかぶった。


演舞えんぶ 青龍せいりゅう


 扇が風を巻き起こし、その瞬間、神獣青龍が現れ、澄んだ水が汚い水を押しやった。八岐大蛇がうなり声をあげ、青龍が威嚇するように咆哮を上げる。山駕が翼の横を走り抜け、大きく飛び上がると、八岐大蛇の首に向かって斧を振り上げた。


山影碑砕さんえいひさい


 山駕が斧を振り下ろす。八岐大蛇の硬い鱗は斧の刃を止め、金属がぶつかり合うような音が響いた。八岐大蛇がうなり声をあげ、水が山駕に襲い掛かる。山駕は八岐大蛇の身体を蹴って、後ろに一回転すると、自分を追って来る水の柱に斧の刃を向けた。


 斧の刃は水の柱を粉砕し、砕けた水滴が地面に降り注ぐ。山駕が地面に着地し、八岐大蛇を睨みつけた。


 雨はその強さを増し、川の水嵩が増えていく。痛いぐらいに人々の身体を打ち付け、地を抉るような激しい音を響かせる。八岐大蛇は咆哮を上げ、川の水飛沫が地面を濡らした。


    ◇


 防人家では、神子たちが慌ただしく動いていた。薺は大声を上げて、方々に指示を飛ばす。


「この場にいる神子は全員、川の下流に向かい、祈祷で川を沈めなさい。川下にある村の一般人にはただちに避難要請を。防人家の神子は封印の儀の用意を。あの化け物が完全に復活するのを防ぎなさい」


「薺さん……‼」


 衣織が顔を出した。部屋の片隅では、蓮華が不安げな表情を浮かべている美雨に寄り添っている。


「本家に連絡しました。沙乃さんがこちらに着くには、数時間かかると……」


「ならば、持ちこたえるまで。八作はどこへ?」


「なにもしないわけにはいかないと、飛び出してしまいました……」


「あの男なら問題ないでしょう。衣織さん、頼みたいことがあります」


「なんですか?」


「私のこの身では、自由に動くことができません。私の足になってほしい」


 その時、川の上流から、八岐大蛇の咆哮が聞こえた。


「八岐大蛇はその昔、自然災害を化け物によるものだと考えていた人間が作り出した伝説によって生まれた禍ツ神。自然災害を司り、八本の首にはそれぞれ、雨、雷、火、風、地、山、雪、海の役割があって、首が再生すればするほど災害を引き起こす。対処するには再生した首が災害をもたらす前に一本ずつ切り落とす必要がありますが、八岐大蛇の首を斬れるのは素戔嗚尊のみ。八岐大蛇の本体はこの地にある八つに枝分かれする川です。川が氾濫すればするほど、八岐大蛇は力を取り戻し、首が再生してしまう。八岐大蛇は伝承によって生まれた神であるため、完全消滅は不可能。封印する以外に方法はありません。奴を封印するために、私は囮になる必要があります」


「囮⁈」


「えぇ。私はかつて奴に捧げられた贄。私を喰らえば、奴は力を取り戻すことでしょう。それを餌に、十束剣を用いて封印を施します」


「……僕は、どうしたらいいんですか」


「私を川の分岐地点、八岐大蛇の腹の中に運んでください。十束剣は八岐大蛇の封印が解かれたさい、飲み込まれているはずですから」


「わかりました」


 薺が部屋の片隅で、美雨に寄り添っている蓮華に手招きをした。蓮華が薺のもとに駆け寄り、抱き着く。


「蓮華。もし母が帰らずとも、あなたは強く生きなさい」


「わかった」


 蓮華は惜しむ様子もなく薺から離れ、衣織が薺の身体を抱き上げる。


「時間がありません。急いで」


 衣織が、雨が強く降り注ぐ外へと飛び出していく。蓮華はその姿が見えなくなるまで見つめ、美雨が心配そうに蓮華の顔を覗き込んだ。


「……ママが死んでも、世界は変わらず回っていく。嘆くことほど、無駄なことはないの。パパだって、きっとそう言う」


「でも……」


 雨が降り込んでくる室内で、蓮華は雨に濡れることも気にせず、外を見つめていた。美雨が悲しそうな顔をして、蓮華の手を握る。蓮華の頬に、雨の水が流れて行った。


「涙なんてあまりにも無駄なもの。美雨も、そう思うでしょ?」


「……美雨は……」


 その時、美雨の頭に鈍い痛みが走った。美雨が驚いて蓮華の手を放し、頭を押さえる。


「頭……痛い」


「美雨?」


「蓮華様」


 召使が現れて、蓮華の名前を呼んだ。蓮華が召使の顔をじっと見つめる。白髪の髪を上にあげ、紫色の着物に身を包んだ老婆。


「ここは危険です。ともに、安全な場所へと避難しましょう」


 召使は蓮華に優しく微笑みかけ、手を差し出す。蓮華は美雨の前にたちはだかると、その手をはたき落した。召使が驚いたように目を見開く。


「あなた、何者?」


 蓮華が召使を睨みつけ、召使の顔が引きつったかと思うと、口元を歪めて笑った。


「勘の良い餓鬼だね」


 召使が蓮華の首をガッと片手で掴み、力を込めて首を絞めた。蓮華の足が地面から離れ、蓮華が苦しそうに顔を歪めて手足をばたつかせる。美雨が悲鳴を上げた。


「贄の神子の娘ならば、死体でもかまわないかねぇ。あの化け物は」


「やめてぇっ‼」


 蓮華がもがき苦しみ、老婆の手をひっかくが、老婆は力を弱めようとしない。蓮華が苦しげなうめき声を上げて、次第に手の力が抜けていく。


「やめてっ‼ やめて‼ 蓮華を離して‼」


 美雨が老婆の腕を引っ張る。老婆は煩わしそうに美雨を振り払い、美雨が尻餅をついた。


「鬱陶しいね」


 老婆が蓮華の首を絞めたまま、美雨に向かって手を振り上げた。蓮華の息は弱々しく変わっている。突然、老婆の手元に赤黒い刀のようなものが出現し、老婆は躊躇いなく、それを美雨に向かって振り下ろした。美雨がぎょっとした顔をして、目を強く閉じて身構える。


 ガキンッ


 金属がぶつかり合うような音が響き、美雨が目を開けた。目の前で、美雨の後ろから飛び出したミーちゃんが、老婆が持った赤黒い刀を鋭い牙で止めている。老婆がその姿に目を見開いた。


「な……」


 ミーちゃんが低いうなり声をあげ、刀を噛み砕くと、老婆の腕に噛みついた。


「ぎゃああっ‼」


 老婆が悲鳴を上げ、蓮華から手を離した。蓮華が地面に落下して、首を押さえながら激しくせき込む。ミーちゃんは振り払おうとする老婆をものともせず、老婆の左腕を噛み砕いた。骨が砕ける音と、肉が引きちぎれる音が響く。


「な……なぜ……⁈」


 美雨がはっとして蓮華に駆け寄り、激しくせき込む蓮華の背中をさすった。蓮華は数回、苦しげに息を大きく吸って吐き、ミーちゃんは二人を守るように老婆を睨みつける。


「……あ……あぁ……おいたわしや……おいたわしや、なぜそのような小娘に……⁈」


 老婆は千切れた左腕から流れる血を押さえながら、両目から涙を流し、ミーちゃんのことを見つめていた。あたりには血が溢れている。


蛭子ひるこ様……‼」


 その様子を見て、美雨は底知れない恐怖を感じ、蓮華の腕を引っ張って立ち上がらせ、蓮華の手を引いてその場から、雨が降りしきる外へと逃げ出した。蓮華の首には赤い手の跡がくっきりと残っている。もつれそうになる足で必死に美雨のあとをついていく蓮華は、美雨の首の後ろから飛び出しミーちゃんが、自分のことをじっと見つめているのを見ていた。


 後ろから、老婆のむせび泣く声が聞こえた。


    ◇


 七つに分かれた川のうちの一本の下流。八作は雨に打たれながら、氾濫する目の前の川を見つめていた。うなり声のような激しい音を響かせながら、川はその水位を増し、岸を飲み込んでいく。


 その時、空を覆っている、分厚く黒い雲から白い光線が落ち、大きな音を立てながら川に落ちた。光線は次々と川に降り注ぎ、川の水が徐々に持ち上がって、八岐大蛇の二本目の首が形を作っていく。


「……逃げることは許されない」


 八作が雨の水でほとんど視界が奪われた眼鏡をはずし、その場に投げ捨てた。首は形を作り上げ、額の角は雷をまとっている。上空で雷の音が鳴り響き、稲妻が山にいくつも落ちた。


「琥太郎に怒られてしまう。こんどこそ、裏切者になることはできない」


 八作が両手を顔の前にかまえた。


建布都たけふつ


 八作の手に槍が出現し、八作が槍を手に取ると、八岐大蛇が咆哮をあげ、雲から八作に向かって稲妻が降り注いだ。


避雷針ひらいしん


 雷は八作が手にした槍に落ち、八作は八岐大蛇に向かって槍をかまえた。槍の刃は雷をまとい、光を放っている。八岐大蛇は八作を睨みつけ、赤い目を光らせた。


「たとえ喰らい尽くされたとしても、守ってみせますよ」


 八岐大蛇が咆哮をあげ、稲妻が次々と山に落ち、雨が降っているにも関わらず、山の方からパチパチと火の音が聞こえてきた。遠くから三本目の首の咆哮が聞こえる。八作が悔しそうに表情を歪ませて、目の前で蠢く首を睨みつけた。


「……早く、終わらせなければ」


 八作の焦りをものともせず、八岐大蛇はあざ笑うように雷を降らせ、川は氾濫を続ける。水がごうごうと音を立てながら流れていき、上流から黒く変色した水が流れてくる。


あまとどろいかずちよ。われなんじいかける。その天明てんめいまよいはあるか。じゃりかかるは天災てんさいよ」


 八作がかまえた槍がバチバチと音を立てながら雷を集め、八作の足元に電流が流れ始める。槍は雷をまとって発光し、後ろで、雷が落ちる音がした。


「神格解放、その名を建御雷之男神たけみかずちのおのかみ


 八作が目にも止まらぬ速さで移動し、八岐大蛇の首に接近すると、槍を八岐大蛇の顎に向かって突き出した。


獅子しし雷伝らいでん


 槍は八岐大蛇の顎を貫き、雷が槍を伝って獅子の形を持って八岐大蛇に頭からかぶりついた。八岐大蛇が感電し、白目をむく。雷は八岐大蛇の首を伝って川へと向かい、流れてきた黒い水を押しやった。八作が槍を引き抜き、八岐大蛇の首から黒い水が溢れ出した。


 その時、八作は八岐大蛇が我に返り、八作を睨みつけているのに気が付いた。とっさに槍をかまえた八作に向かって八岐大蛇が吠え、その声の衝撃で八作の身体が吹っ飛ぶ。八作は空中で槍を振り、槍から伝わった雷が八作の身体を包み込むと、雷の玉は岸に向かっていって、雷が落ちる音を響かせながら、八作が岸に着地した。


 槍が引き抜かれた八岐大蛇の顎から黒い水が溢れ、川に流れ込んで、まるで黒い電流のように水面を走り、八作に向かっていく。


 八作が持つ槍が光り、白い電流が放たれて、黒い電流は弾き飛んだ。八岐大蛇が顎から黒い水を流しながらうなり声を上げる。それと同時に、八岐大蛇の目の前から八作の姿が消え、八岐大蛇が振り返ると、八作が槍をかまえ、八岐大蛇を狙っていた。


 突如、川から大きな龍の手が飛び出し、八作を薙ぎ払おうと迫った。


貫雷かんらい乱撃らんげき


 槍から放たれた雷が手を切り裂き、手は八作に届く前に川に落ちて黒い水になって溶ける。八作はそのまま槍を八岐大蛇の脳天に狙いを定め、槍を突き出して、槍は八岐大蛇の脳天を貫いた。八岐大蛇の脳天から黒い水が溢れ、あたりに飛び散る。頭から喉にかけて貫通した槍は、バチバチと電撃を走らせていた。


貫雷かんらい網羅もうら


 脳天に突き刺さった槍から雷が放たれ、雷は八岐大蛇を取り囲んで、網のように張り巡り、八岐大蛇を封じ込めた。八作が槍を引き抜いても、雷は八岐大蛇を捕らえ、八岐大蛇の首が音を立てて川に倒れ込む。八岐大蛇は白目をむいて感電して、ピクリとも動かなくなった。


「しばらく痺れていてくださいね」


 倒れた八岐大蛇を見つめて、八作は遠くで聞こえた三本目の首の咆哮を聞き、その方向を見た。そして、音もなくその場から消え、次に目を開いた時には、目の前に、炎を纏った首が目を光らせながら蠢いているのが見えた。


 八作は槍をかまえ、目の前の八岐大蛇を睨みつける。その時、分厚い雲に覆われた空に、晴れ間が現れた。


    ◇


 雨は強さを増し、川は黒い水で染まっていく。滝から流れていた水は鱗で覆われた八岐大蛇の本体へと変わり、川は徐々に本来の姿を取り戻し始めていた。


 一本目の首と戦闘を続けていた翼と山駕は、荒れ狂う川の水に足を取られ、苦戦を強いられていた。濁流に飲まれ、身動きが取りずらい。


「……翼」


「なんですか」


「お前の神器で、八岐大蛇の復活をくい止めろ」


 川から飛び出した大きな腕が二人を薙ぎ払おうとして、二人はその場から飛びのいてそれを避ける。川から飛び出した二本の腕は、鋭い爪を持って二人を切り裂こうと襲い掛かってきた。


「……もって数十分ですよ。天候を変えるなんて、人間がしていいことじゃない。それに、笛を使えば俺は戦えなくなります」


「かまわないよ。このままでは雨によって川が氾濫し、八岐大蛇が復活してしまう。素戔嗚尊が来るまででいい」


 山駕は迫ってきた腕を斧で切断しながらにやりと笑った。


「守ってあげるさ。死なれるのは惜しい」


 その表情に翼がむっとした顔をして、吐き捨てるように「頼みましたよ」と呟いた。


八意思やごころおもい


 翼の手元に縦笛が現れ、翼が八岐大蛇の攻撃を避けるのを止めて、岸に座ると、笛を吹き始めた。


 美しい音色が辺りに響き、その音は空に昇っていって、分厚い雲に亀裂が入り、晴れ間が見える。八岐大蛇が苦しそうなうめき声を出し、黒い水が翼に向かっていく。山駕が笛を吹いている翼の前に立ちはだかり、斧をかまえた。


おおいなる影落かげおとし、われみちびき、うならせろ。穿うがち、穿うがち、穿うがて、くだけ。じぬ壮観そうかんせよ」


 翼が笛を吹きながら驚いたような顔をして、それに気が付いた山駕がにやりと笑った。


「神格解放、その名を大山祇神おおやまつみのかみ


 山駕の足元の地面にヒビが入り、山駕が斧を振り上げる。八岐大蛇が咆哮をあげ、空の晴れ間は雲を追いやるように広がっていった。


山砕やまくだきき」


 山駕が地面に斧を振り下ろし、地面が大きな音を立ててヒビが入っていく。地面が揺れて迫って来ていた水はその振動で砕け散った。八岐大蛇が吠え、川から水柱が次々と昇る。


 山駕の足元の地面が突然せり上がり、山駕がそれを蹴り上げて大きく跳躍して、水柱を避けて八岐大蛇の目の前に飛び出した。斧を振り上げ、目を光らせる八岐大蛇を睨みつける。


 山駕が八岐大蛇の脳天に斧を振り下ろし、八岐大蛇の角が折れ、頭から黒い水が溢れた。八岐大蛇が叫び声を上げ、それとともに首の下にある地面がせり上がり、八岐大蛇の首を貫く。八岐大蛇がビクンと痙攣し、山駕が頭を蹴ってその場から離れ、地面に斧を振り下ろした。


守墾粉塵しゅこんふんじん


 その瞬間、八岐大蛇を貫いていた地面が粉砕し、その破片は八岐大蛇の身体に飛び散って大きな穴をあけ、周辺で蠢いていた水柱を砕いた。


 飛んできた破片に笛を吹き続けていた翼が身構えたが、破片は翼に直撃する前に砕け、翼を狙っていた水柱に穴をあける。その様子を眺めていた山駕が笑った。


「当たらないから安心しなよ。少々荒々しくても許しておくれ」


 八岐大蛇がうなり声を上げる。身体に空いた穴からは黒い水が溢れ出し、川に流れだしていった。穴は徐々にふさがり、八岐大蛇は二人を睨みつける。晴れた空を覆い尽くすように雲が迫り、雨は地面に降り注いだ。


    ◇


 川の中腹を目指して、薺を抱えて走っていた衣織は、空から差し込んできた光に上を見上げた。


「翼が来ているのですか」


「翼さん……ですか?」


「奴は特別ですからね。人ができてはいけないことをやってのける。雨を弱らせてくれるのは助かります。そこ」


 薺の言葉に衣織が立ち止まる。薺はごうごうと黒い濁流が流れる川の中にある、ポツンと浮かんだ小島を指さした。衣織の顔が引きつる。


「……あの中ですか?」


「おそらく」


「あの……さすがに足場が……」


「えぇ。ですから、衣織さんは急ぎ、蓮華たちのところに戻ってください。蓮華は贄の神子の血を引くもの。八岐大蛇に狙われないとも限りません」


「え……? でも、どうやってあそこに?」


「心配なさらないで。どうとでもできます」


 薺が柔らかく微笑んで、衣織は不安そうな顔をした。


天穂あまほ


 そう言った薺の右手に、かんざしが現れた。琥珀色の宝玉と、淡い桃色の羽衣のような長い布が付いている。薺が簪から布を外し、簪を川の中の小島に投げて、簪は小島に突き刺さった。


豊穣ほうじょうきぬ


 不意に薺の身体を布が包み出した。


「娘をお願いしますね」


 衣織に笑いかけた薺は完全に布にくるまれ、布がひとりでに浮き上がると、薺の姿はまるで布に取り込まれたように跡形もなく消えていた。


 ポカンとする衣織を置いて、布は小島に向かうと、布から薺が飛び出して、小島に落下した。薺は宙に浮かぶ布を手に持ち、簪を引き抜くと、布を結びつける。


 ふと薺が衣織の方を見て、衣織と薺の目が合った。衣織ははっとして、元来た道を戻っていく。その背中を見送って、薺は自分が座っている地面を見る。


 川に浮かぶ小島に見えたそれは、黒い鱗に覆われた八岐大蛇の腹の上だった。


 薺は手にした簪を腹に突き刺す。川がそれを阻止するように音をたて、水が薺を流し去ろうとするように押し寄せた。薺は少しよろめきながらも簪から手を離さず、簪を引いて、八岐大蛇の腹が裂ける。薺が腹の中に右手を突っ込み、中を探って何かを見つけて取り出した。


 薺の手には、十束剣が握られている。剣を手にして、薺は晴れ間がのぞく空を見上げると、笑った。


「さぁ、化け物。餌はここだ。早くその間抜け面を私に見せろ」

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