三刻 きさらぎ駅

 日光本家、大広間。


 集められた御三家の当主たちが、神妙な面持ちで向かい合って座っている。


 一番奥の真ん中に座る、日光現当主、光天寺御神こうてんじみかみは、幼い幼女でありながら、大人に囲まれた堅苦しい部屋の雰囲気に緊張した表情をしていた。美しい金色の、ふわふわとしたくせ毛の髪と、金色の瞳は、御神が身に着けている巫女装束と千早によく映えている。


 緊張でぎこちない顔をしている御神に、偶然目があった沙乃が、優しく微笑みかける。いつもの白シャツにジーパンのラフな格好とは違い、赤い着物を着た沙乃は、とても美しい。御神が安心したように、息をついた。


「そろそろ、始めよう」


 それを遮るように、月光当主、陰魅尊かげみみことが口を開いた。御神がビクリと背筋を伸ばす。


 真っ白な長髪に長い顎鬚、額に刻まれた深い皺に、鋭い目をした老人、尊は、あたりに緊張感を漂わせるのには十分すぎるほどに、険しい表情をしていた。黒い袴が尊の顔の深い皺を際立たせている。


「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。日光当主、御神様に代わり、本日は私が、この場を取り仕切らせていただきます」


 御神の代わりに口を開いたのは、ずっと御神のそばに立っていた、御神の付き人の藤咲花蓮ふじさきかれんだった。黒い髪を短く切りそろえ、巫女装束を身に着けた、凛とした女性だ。


「本日お集まりいただきましたのは、他でもない、最近の異変についての話をするためにございます。三年前の大災厄によって負った傷は今も癒えないにもかかわらず、ここ最近、禍ツ神が急速な増加を見せ、甚大な神子不足はどこの家も同じものと思いますが、それだけには収まらず、三神の力が強くなっているとの報告がありました」


「三神?」


 沙乃が口を挟む。


「はい。封印が弱くなっていると」


「そんなん、うちは聞いとらん」


「私が報告した」


 尊に視線が集まる。


「ごくわずかにだが、八尺瓊勾玉が色を変えたのだ。神無月の一夜のみゆえ、心配には及ばぬと思うが、一応、報告したまで」


「神の力が弱まる新月でありましたから、尊様の言うとおりだと思いますが、一応、沙乃様にもご報告をと思いまして。大災厄における傷跡は、相当深く残っておりますから、用心するに越したことはないかと。その他、ご報告はありますか?」


「天照大神様の神降ろしはいつになる」


 尊の言葉に、御神がビクリと身体を震わせて、うつむいてしまった。


「……御神様はまだ七歳であられます。三柱の大神を降ろすには、お身体が負担に耐え切れません」


「わかっている。いつ頃になるか聞いているのだ」


「せめて、御神様が十歳になられるまでお待ちくださいませんか。御神様は足を不自由にしておられます。これ以上、身体に負荷をかけられません」


「悠長にかまえていられるのか?」


「……それは……」


「そんなに心配事でもあるんです? 尊はん」


 言葉を詰まらせた花蓮に助け舟を出すように、沙乃が不適な笑みを浮かべながら言った。尊が眉を顰める。


「心配あらへんと言いはりましたのは、尊はんやありませんか。幼い子供を急かしなすって、いったい全体、なにをそんなに気に病んどるのかと、勘ぐってしまいますわぁ」


「……若造にはわからん。歳を取ると、どんなに小さな問題でも、早めに芽を刈り取りたくなるものだ。……予定があるので失礼する。花蓮殿、問題を後回しにして、あとで後悔するのはあなた方だけではないこと、ゆめゆめお忘れなきよう」


 尊が席を立ち、部屋から出て行った。尊の姿を見送って、花蓮が小さくため息をつく。


「沙乃、目上の方には標準語を使えと、何度も言ったはずだ」


「ええやないの。なーんか、最近ピリピリしてはるんよ。なんか心配事でもあるんかねぇ」


「……お、おじ様は悪くありません……御神がもっと……」


 沙乃が顔色を真っ青にしている御神に近づき、「ええ子、ええ子」と頭を優しく撫でた。耐えていた涙が溢れ出し、御神が泣き出した。


「大丈夫、だいじょーぶ。御神はなーんも悪くないよ。いっぱい、いっぱい頑張っとる。ほら、ここにおる花蓮お姉ちゃんが、御神のこと守ってくれるさかい、泣かんでええよ」


 花蓮がボロボロと零れた御神の涙を手拭いで拭って、御神が花蓮に抱き着いた。嗚咽を漏らす御神の背中を花蓮が優しくさすり、沙乃が「振られちゃった」と笑う。


「波風立てないでくれよ。ただでさえ、お上の奴らがうるさくてたまらない」


「かんにんなぁ。どーも、年上のお堅い頭にはついて行かれん。ところで、うちが言ったこと、調べてくれとる?」


「時輪美雨という少女のことだろう。それからミーちゃんという存在も。調べてはいるが、似たような事例は見つからない」


「そうかぁ……くれぐれも、お上(かみ)には見つからんようにしてな」


「あぁ、わかっている。だが……」


 花蓮が御神の身体を抱き上げて、もう一度御神の顔を拭くと、沙乃に背を向けて部屋から出て行こうとする。


「尊様の言葉をなぞるわけではないが、問題は、早めに刈り取っておいた方がいい。最近、なんだかきな臭いからな」


 花蓮が御神を連れて部屋を出ていき、残された沙乃が、一人、静かに呟いた。


「わかっとるよ……」


    ◇


 雲一つない晴天の昼下がり。衣織は八作の家の縁側で、眠たげに目をこすりながら、ぼうっと庭を見ていた。雀が空を飛んでいく。


「お茶はいかがですか?」


 湯呑に入ったお茶を乗せたお盆を手にした八作が後ろから現れ、衣織が「あ、ありがとうございます……」と湯呑を受け取った。


 衣織が受け取ったお茶を一口すすり、八作が衣織の隣に座って、自分もお茶をすする。しばらく、穏やかな時が流れた。


「……いや、違うんですよ」


 それを破るように衣織が呟いて、八作がはて? と不思議そうな顔をする。


「違うんですよ……! 僕はあくまで監視なんです……まさかここまでもてなされるとは……」


「いいじゃありませんか。昼頃は、色素抜けのせいで、日光で肌が焼けてしまう美雨は外に出られませんから、ミーちゃんが出てくることはほぼありませんし、ゆっくりしていけばいいですよ。それに、白昼堂々、家の前で立たれると、不審者にしか見えませんしねぇ」


「……監視に向かない身体なもので……」


 のほほんと笑う八作は、昨日の威厳はどこに行ったのか、ただの優しい和尚にしか見えない。衣織は八作の変わりように、面食らったような表情を浮かべる。


「いやぁ、衣織さんは背がお高いですねぇ。ところで、衣織さん、歳はおいくつですか?」


「十七です……」


 衣織の返答に八作が驚いた顔をする。衣織がいつも通りの反応をされて、ははは……と笑った。


「あ、いや、すみません。てっきりもう二十歳ぐらいかと思っていましたので……」


「いいんです。慣れてますから……」


「お若いのにそんなに痩せて……大きなお世話かもしれませんが、ちゃんと食べておられますか? なんだか心配ですねぇ……」


「一人暮らしなもので……」


「八作さん!」


 聞こえた明るい声に八作と衣織が振り返る。自室から出てきた美雨が、誇らしげな顔をして、算数ドリルを八作に差し出した。


「終わった!」


「どれどれ……」


 八作がドリルを受け取り、パラパラとページをめくった。そして「ここと、ここと、ここ、間違ってる」と指さして、美雨にドリルを返す。


「直してきなさい」


「えー‼ やだぁ……美雨もいおりとお話したいぃ……」


「お勉強を終わらせてからね」


「う~……」


 美雨が不服そうに頬を膨らませながら、自室へと戻っていった。その背中を見送る八作の目は優しく、衣織はふと、疑問に思ったことを問いかけた。


「美雨ちゃんは、学校には行ってないんですか?」


「はい。日中は自由に動けませんし、なにより、髪と目のせいで、こう……トラブルがよく起こりましたから……美雨の勉強は、私が教えています」


「そう……ですか……」


「あまり人に会う機会がないからですかね。衣織さんがいてくれて、嬉しいようです」


 にこやかに笑う八作になんと言葉を返せばいいかわからず、衣織はお茶を一口すすった。八作も続いてお茶をすする。


「いおりー‼」


「ぶふっ⁈」


 突然とびついてきた美雨の勢いに耐え切れず、衣織がお茶を吹き出した。ゲホゲホとせき込む衣織を気にもとめず、美雨は嬉しそうに笑顔を浮かべる。


「終わったからお話しよー!」


「こらこら、美雨。危ないでしょう」


「げほっ!……だ、大丈夫です……」


 美雨は楽しそうに笑いながら、衣織と話し始めた。その様子を見て、八作が飲み終えたお茶の湯呑を台所へ持っていく。ふと、八作が振り返ると、少し困ったような表情を浮かべた衣織と、満面の笑みを浮かべた美雨が見えて、八作が嬉しそうに笑った。


    ◇


 夕方から寺に行かなくてはならないと、家を出て行った八作を見送った美雨は、そそくさと帽子とポシェットを取り出してきて、衣織の手を引いた。


「いおり! お散歩行こう!」


「え、えぇ……い、いいんですか? 勝手に出て行って……」


「いいの! だって八作さんがいると行っちゃダメって言われるし、ミーちゃんがお腹すいたって言うんだもん。今日はなんだかミーちゃんがそわそわしてるし」


「そわそわ……?」


「行こう!」


「あ、ちょっと待ってください……!」


 衣織が強引に美雨に連れ出される。浮かない表情の衣織に対して、美雨は嬉しそうに笑顔を浮かべながら、衣織の手を握って歩き出した。


「どこに行くんですか……?」


「わかんない。ミーちゃんが教えてくれると思うよ」


 美雨は迷いなく歩いていく。茜色の空に真っ黒なカラスが数羽飛んでいき、鳴き声が響いた。


「いおりは学校、行ってないの?」


「え?」


「美雨はお日様に弱いからダメだけど、いおりは十七歳でしょ? こうこう? 行ってないの?」


「……行ってないです。中学校も途中でやめちゃいました」


「学校って、どんなところなの?」


「行ったことないんですか?」


「覚えてないの。嫌なことしかなかったから、忘れちゃった」


「……えっと……僕も、あんまり覚えてないです」


「ふうん。美雨ね、お友達は欲しくないかって、八作さんによく聞かれるの。でも、美雨、お友達がどんな感じかわからないし、ミーちゃんがいるからいいんだ。……あ、もしかして、いおりと美雨って、お友達?」


 期待に満ちた美雨の瞳に、衣織がふっと優しく微笑んだ。


「そう……ですね」


「うん! 美雨といおりはお友達!」


 美雨が嬉しそうにつないだ手をぶんぶんと振る。衣織は困ったように笑いながらも、美雨の笑顔に頬を緩ませた。


 急に美雨が立ち止まった。衣織もつられて立ち止まる。


「……ミーちゃん?」


 美雨がそう言って、衣織が美雨の顔を覗き込んだ。美雨は虚ろな目をして、前を真っすぐ見つめている。


「……うん、うん、わかった」


 美雨が呟いて、衣織の顔を見た。その顔に先ほどまでの嬉しそうな笑顔が浮かんでいる。衣織が面食らったような顔をした。


「いおり、行こう!」


「え? ちょ、ちょっと待ってください、どこに……?」


「いいから!」


 美雨は衣織の手を引っ張って歩いていく。行先もわからないまま、衣織は美雨に手を引かれるがままに歩いて行った。


    ◇


 美雨が衣織の手を引いて連れて行った場所は、昨夜と同じ踏切。美雨は踏切の前で立ち止まり、踏切の向こうをじっと見つめた。


「……美雨ちゃん……?」


 衣織が美雨に問いかける。美雨はそれに答えようとはせず、ただ真っすぐ向こう側を見つめていた。


 踏切の警報音が鳴り響き、遮断機が降りていく。美雨はそれを眺めて微動だにせず、衣織は不安げな顔で美雨を見つめた。


 電車がやって来て、風が美雨と衣織の髪を巻き上げる。電車が通り過ぎてもなお、警報音を響かせる警報機は、電車がまだ来ることを示すように、赤い矢印を浮かべていた。


「美雨ちゃ……」


 衣織が声をかけようとした瞬間、衣織と美雨の目の前で、電車が停まった。衣織がぎょっとして踏切の方を向く。電車は警報音が鳴り響き、遮断機が降りている踏切の真ん中で停車し、美雨と衣織を招くように、電車の扉が開き、車内の明るい光が二人を照らした。


 信じられない光景に、衣織はその場に立ち尽くす。美雨がその手を引いて、美雨の赤い瞳が衣織の目と合った。


「行こう」


 美雨が衣織の手を引いて、遮断機をくぐって電車の中に入ろうとする。衣織がそれを止めようとしたが、虚ろな目をした美雨は、衣織が手を離したとしても一人で車内に入っていってしまう気がして、衣織は美雨に手を引かれて、美雨と一緒に電車に入っていった。


 車内は何の変哲もない、ただの電車だった。明るい蛍光灯の光りと、吊り下げられた吊り革に緑色の長椅子がある。


 衣織と美雨が乗り込んだ瞬間に、電車の扉が閉まろうとして、扉が閉まる直前に、少年が一人飛び込んできた。


 扉が閉まり、少年が「うわぁ!」と情けない声を出す。少年が着ている制服のブレザーの裾が、閉まった扉に挟まって、身体が引っ張られたようだ。


 扉が再度開き、少年がブレザーを引き抜く。驚きと困惑で何も言えずにその様子を見ていた衣織の視線に気が付き、少年は恥ずかしそうに「えへへ……」と笑った。美雨は少年を警戒しているのか、衣織の後ろに隠れてしまう。


「恥ずかしいところをお見せしてしまって……すみません」


「……誰……ですか……」


「あ、違います! 怪しい者じゃないです!」


 明るい茶髪のくせ毛に、栗色の瞳。どこかの学校の制服を着た少年は、衣織の警戒するような視線に、慌てて首を横に振った。


 急に電車が発進した。ガタンと揺れた車内に、美雨がふらついて、衣織がその腕を掴んで支える。


「僕、宝刀本家の神子、相羽将あいばねたもつって言います! 沙乃さんからの指示で、美雨ちゃんのことを見張るようにと言われまして……」


「沙乃さん……?」


「あ、誤解しないでくださいね! 沙乃さんはけして、衣織さんを信用していないわけではないです……! 心配なだけですよ。僕、まだまだ新米で、沙乃さんにいろいろ教えてもらってるんです。あ、けしてっ、けっして他言するなと沙乃さんに言われていますから、安心してください!」


「……いおり」


 美雨が衣織の服を引っ張った。衣織が美雨の方を見る。


「ミーちゃんが、お腹がすいたって言ってるの」


 電車は進む。ガタンゴトンと音を出しながら、線路の上を進んでいく。衣織がどこか異様な雰囲気の車内を見回した。


『本ジツは、ゴジョうシャいたダき、ありガとうゴザいマス。コノ電シャは、きさらぎ駅イキでゴザイまス』


 流れたアナウンスに、衣織と将が眉をひそめた。


「きさらぎ駅?」


「どこですかね……ていうか、衣織さん。どうしてこんなに変な電車に乗っちゃったんですか? なんか、おかしいですよ、ここ」


「美雨、知ってるよ」


 美雨がそう言って、二人の視線が美雨に向けられる。美雨は将の視線から逃れるように、衣織の後ろに隠れて、小さな声で話した。


「都市伝説だよ。存在しない駅なの。本で読んだことあるよ」


「都市伝説……ですか……」


「……沙乃さんから聞いたことがあります……」


 衣織が呟いて、アナウンスが聞こえた。


『きさらぎ駅、きサラギ駅、きさラギえキ』


「……自身が消えることを恐れて、神格という名前を求め続ける、小さな禍ツ神たちは、人が作った都市伝説などの伝承に居場所を見つけ、集まってくる禍ツ神を取り込みながら、都市伝説通りの現象を引き起こします……。都市伝説や伝承は基本的に、名前を求めてる禍ツ神の拠り所になりますから……」


「え、と言うことは、ここって……」


 将が辺りを見回す。窓の外の景色は先ほどとは違い、真っ暗な闇に変わっていた。


「禍ツ神そのもの……みたいなものですか……?」


「……たぶん……。伝承などの名前を拠り所にする禍ツ神は、その分制限が多いんです……人が作った伝承ですから……でも……ここまで肥大化しているのは初めて見ました……」


「どうにかここから出た方がいいんじゃないですか?」


「そう……ですね……伝承や都市伝説を依り代にする禍ツ神は、基本、消滅しません……人がいる限り、伝承は残りますから……切ったところで、どうにもなりませんね……でも、どうしましょう……外に出たところで、きさらぎ駅という都市伝説の世界であることに変わりませんから」


「僕がなんとかします!」


 将が拳を握り、強気な声でそう言った。


「なんとかって……?」


「僕の守神は少し特殊で、こういう事例に役立つと、沙乃さんに言われてますから……!」


 将が目を閉じて集中する。


白山姫しらやまひめ


 守神の名前を言った瞬間、将の視界に無数の糸が張り巡らされた。赤色の糸が辺りに張り巡らされ、その糸は美雨や衣織、そして将自身に絡みついているものもある。


「僕の守神は人やもののえにしを司ります。縁というものは全てのものにかかわるものです。人、もの、場所、時……縁を切れば関わりは消えます。なので……」


 将が手をかざすと、裁ち狭が出現した。指穴を両手で持たなければ持てないほどの大きな裁ち鋏だ。


「この場所と、僕たちの縁を切ってしまえば、戻れるはずです」


 将が衣織たちに笑いかける。美雨が衣織の服をまた引っ張って、衣織が「どうしたんですか?」と問いかけた。


「あのね、ミーちゃんが、もう、我慢できないって」


「え?」


 その瞬間、美雨の後ろからミーちゃんが飛び出して、食うように電車を突き破った。


『ギャアアアアアッ‼』


 甲高い悲鳴が聞こえて、電車の食われた部分から、黒い灰のように散り散りになった禍ツ神が飛び出していく。ミーちゃんは容赦なく電車に食らいつき、車内がガクンと揺れた。


「えぇっ⁈ ちょっ、ちょっと待ってくださいよ‼」

「う……わ……!」


 禍ツ神の悲鳴が響き、崩れかけた車内が揺れる。バランスを崩した衣織と将が壁に背をつき、美雨の身体が外に投げ出されそうになって、衣織が腕を掴んで引き寄せる。


『ギィィ‼ 次ハ、きさらぎ、キさらギィ‼』


「た、将さん……! 早く……‼」


「無理です‼」


「え」


 将の言葉に衣織が呆然とする。将の視界には、自分たちに絡みつく真っ黒な糸が映っていた。けして、将たちを離さないように、次々と絡みついていく。


「縁が強すぎます‼ 禍ツ神たちが僕たちを飲み込もうと必死で執着しているせいで、切れません‼」


「どうしたら……⁈」


「弱体化させてください‼ うわぁ‼」


 電車が急停止して、その反動で投げ出されそうになった衣織が、車内の手すりを掴んで、美雨を抱きしめる。将は掴み損ねて前のめりに倒れ、車外に投げ出された。


 電車はきさらぎ駅と書かれた看板のある、錆びれた駅に停車した。あたりを見回しても、闇が広がっているだけで、駅以外の明かりは見えない。


 突如、駅が姿を変え、無数の黒い手の形になって、三人に襲い掛かった。ミーちゃんが美雨と衣織に迫ってきた手を食らうように薙ぎ払い、すべてを食べつくそうと牙を向く。


「いてて……」と言いながら立ち上がった将の元にも手が襲い掛かる。将がきっと手を睨みつけ、手にした裁ち鋏を構えた。


彼岸切ひがんぎり」


 将が手を鋏で切り裂く。散り散りになった禍ツ神は泣き言を呟きながら灰のように散っていった。ミーちゃんは暴れ狂っており、美雨に迫りくる手を薙ぎ払っている。


「衣織さん! このままじゃここが崩れます! 崩れたら、僕たちは閉じ込められて、ここから出られません! なんとか弱体化させないと……!」


「きゃあっ!」


 美雨が暴れるミーちゃんに引っ張られ、よろめいて衣織のそばを離れた。


「ミーちゃん‼ 美雨、怒るよ‼」


 そのまま尻餅をついた美雨がミーちゃんに向かって叫ぶ。一瞬、ミーちゃんがその動きを止め、手から守るように美雨の周りをグルッと身体で囲んだ。そのまま暴れだす。


「ミーちゃん‼」


 ミーちゃんは美雨の言葉を無視して禍ツ神たちを食らっていく。美雨がそばを離れた瞬間、ミーちゃんは衣織のことを守るのを止め、衣織に向かって手が迫ってきた。


狭霧さぎり‼」


 衣織が叫んで、その手に短刀が出現し、衣織が短刀の刃を向かってくる手に向ける。


霧雨きりさめ


 衣織がそう言った瞬間、あたりに霧が立ち込め、霧は向かってきた手を切りつけて、禍ツ神が散り散りになっていく。禍ツ神の悲鳴が響き渡り、駅の形が崩れていった。


 衣織が将の方を向くと、将はミーちゃんを見て呆然と立ち尽くしていた。


「将さん……!」


 将の視界には、無数の糸が見えている。赤色の糸、禍ツ神たちから繋がる黒い糸。そして、美雨とミーちゃんを繋いでいる、真っ黒な、臍の緒のような、太い糸。それを見て、将は青冷めた。


「将さん?」


「‼ あ、すみませ……うわっ‼」


 将が立っていた場所の地面が崩れ、将が慌ててその場を離れる。


「もう、切れます! お二人とも動かないでくださいね‼」


 将が鋏を構え、二人に向かって刃を向けた。その瞬間、ミーちゃんが将に向かって牙を向き、将が驚きながら、突進してきたミーちゃんを鋏ではじき返した。その反動で、将がのけぞる。ミーちゃんは将に向かってうなり声をあげ、将が困惑した顔をした。


「ミーちゃん‼」


 美雨が叫び、ミーちゃんの動きが止まる。


「その人は襲わなくていいの‼ ていうか、ミーちゃんが悪いんだからね‼ 大人しくして‼」


 美雨の声に反応してか、ミーちゃんは将に牙を向くのを止めた。


「わぁっ‼」


 その瞬間、美雨の足場が崩れ、美雨が足を滑らせて、落下しそうになる。衣織が駆け付けようとしたが、間に合わない。すると、ミーちゃんが身体をひねり、美雨の身体を引っ張りあげると、衣織に向かって投げつけた。衣織が美雨を受け止め、美雨が「びっくりした……」と呟く。


縁切りえんぎ


 衣織が前を向くと、将が二人に向かって鋏の刃を向けていた。衣織が驚いて美雨を抱きしめるように身構え、目を瞑る。衣織の耳元でジャキンと鋏の音がした。


    ◇


 衣織が目を開けると、三人は元の踏切にいた。空は夕焼けのままで、時間は進んでいないように見える。


「どうにかなりましたぁ……」


 将が情けない声を出し、安心したように息をついた。ふと、将が横を向くと、ミーちゃんの大きな目玉が、訝しげに将のことを見つめていて、将が「ひっ……」と声を出す。


 ミーちゃんはしばらくじっと将を見つめると、大人しく美雨の首の後ろへと帰っていった。美雨は眠たげに目をこすり、衣織の服を引っ張る。


「いおり、帰ろう?」


「あ、う、うん……」


 美雨は疲れ切った様子で、ふらふらとおぼつかない足取りをしている。衣織が心配そうに手をさしだすと、美雨は突然衣織にもたれかかり、そのままこと切れたように眠ってしまった。衣織が慌てて美雨の身体を支える。


「……あの……やっぱり、あの化け物は、危険な存在です……」


 将が呟くような小さな声で言い、衣織が眠ってしまった美雨を抱き上げながら、将の方を見る。


「ミーちゃんと美雨ちゃんを繋ぎとめているのは、悪縁……です。しかも、強い執着のせいで、切ることもできないほど強く結びついています……。美雨ちゃんの様子を見る限り、ミーちゃんが美雨ちゃんに悪影響を及ぼしている気もしますし……」


「……でも……」


「わかってます。執着はミーちゃんからのものだけではなく、美雨ちゃん自身のものでもあるようですし……」


 衣織がすやすやと眠る美雨の顔を見て、暗い表情をした。


「あぁ、そうだ。衣織さん。沙乃さんから伝言です。そろそろ、本家の方に来ないか、と」


「……」


 衣織は小さく首を横に振った。


「なにかあったら、いつでも呼んでください、と伝えてください……」


 衣織はそう言って、美雨を抱きかかえたまま、将に背を向けて歩いて行った。

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