ニ刻 守神

 琥太郎との出会いは、あまりよく思い出せない。


 どこかの山の奥深く。僕は、崩れかけの小汚い小屋の中で、「母」とともに暮らしていた。


 縄でつながれた狭い世界で、母以外のものを知らず、生きていた。それなのに、母の顔も、声も思い出せない。


 痛かったこと。苦しかったこと。寒かったこと。それしか、思い出せない。


 琥太郎と初めて会った、十二年前のある日。初めて見る人間という生き物に恐怖し、逃げることもできずに怯えていた僕に、琥太郎は手を差し伸べて、僕を抱き上げて連れ出した。


 初めて目にした外の景色と、初めて感じた温かさに、僕は怯えながらも安心していた。


「衣織」


 黒髪の短髪に、無造作に生えた不精髭。黒い着物を着崩し、胸元を大きく開けて、その顔に豪快な笑顔を浮かべた琥太郎は、大きく逞しい手を差し出している。


 外に出るたびに目に入る、人々に纏わりつく禍ツ神に怯えていた僕に、琥太郎はそのたびに優しく笑いかけた。


「お前はほんまに泣き虫やなぁ。ほら、こっちおいで」


 軽々と僕を抱き上げ、豪快に僕の頭を撫でながら、琥太郎は男の人の肩に乗っている禍ツ神を指さした。


「見といてみ」


 禍ツ神が琥太郎と目が合った瞬間に消え失せる。琥太郎は得意げに、僕に笑いかけた。


「そんなんじゃ、強くなられへんよ。お前は、宝刀当主、神崎琥太郎様の息子なんやからな。ええか? 素戔嗚尊は強いもんが好きやさかい、ちっと怖いと思っても、ぜーんぜん平気な振りするんよ。そしたら、悪いもんはぜーんぶ素戔嗚尊が倒してくれるさかい」


 琥太郎は、御三家と呼ばれる神子の本家の、宝刀の当主だった。三柱の神、素戔嗚尊を守神とする、強い神子。


「わしの可愛い、可愛い息子。衣織、強くなるんよ。おまえは特別な子や」


 琥太郎の、がっはっはという豪快な笑顔が好きだったその顔を見ると安心した。

琥太郎は僕の父であり、師だった。


 僕が泣きながら、小学校から帰ったことがある。生まれつき左目が金色だった僕は、ことあるごとに気味悪がられ、いじめられた。僕の根暗な性格もあいまって、助けてくれるような友達はいなかった。


 心配する琥太郎に、泣きじゃくりながら経緯を伝え、琥太郎は大きな手で、僕の頭を撫でた。いつものように、クシャクシャの笑顔を浮かべて。


「ええか? 衣織。お前をいじめる奴らはなぁ、悪いもんが付いとるんよ。衣織が嫌いなわけやない。悪いもんが悪さして、衣織をいじめさせとるだけやさかい、胸張って堂々としとけばええ。それでももし、またいじめられたら、わしが衣織を守ったるさかい、安心しぃ」


 学校に行きたくないと言えば、強引に外に放り出す。目を隠そうとすれば髪を切られる。


 その時は本当に琥太郎が嫌いになった。僕は、琥太郎が弟子として連れてきて、姉同然に接してくれていた沙乃さんに泣きついた。


「衣織、それは衣織が弱いせいや。うちが稽古つけたるさかい、覚悟しぃ」


 沙乃さんはスパルタだった。六歳も歳の離れた僕を引きずり回し、泣き言を言っても聞く耳を持たない。琥太郎はその様子を嬉しそうに眺めていた。


 その日から、僕に対するいじめは、ぱったりとなくなっていた。


 血の繋がりはなくても、琥太郎と沙乃さんは僕の家族だった。何よりも大切だった。顔も知らない、思い出せない父親と母親よりも、守りたいものだった。それなのに。


 神崎琥太郎は、ある日、その消息を絶った。


 三年前、御三家を襲った、大災厄と呼ばれる出来事。突如として現れた強い力を持った禍ツ神によって繰り広げられた殺戮により、多くの神子が息絶え、御三家は、ほぼ壊滅状態に陥った。


 宝刀当主の琥太郎も戦いに参加し、僕には、琥太郎の指示で沙乃さんと共に、待機命令が出された。抗議する僕と沙乃さんに、いつもの朗らかな笑顔など見えない険しい顔で、琥太郎は言い放った。


「足手まといやと言っとるんや。未熟なお前らが行ったところで何になる? 大人しゅう待っときぃ」


「でも……!」


「沙乃」


 縋り付こうとした沙乃さんを突き放すような冷たい声で、琥太郎は僕たちに背を向けた。いつも見ていた大きな背中。でも、その背中はいつもと違って、なんだか違和感がした。


「強くなるんよ、衣織。おまえは、特別な子や」


 琥太郎が戻ることはなかった。禍ツ神は御三家の月光の当主によって封印されたが、琥太郎は忽然とその姿を消した。誰も、その行方を知らなかった。


 最後に見た琥太郎の背中が何を言おうとしていたのかも知らないまま、僕は、恐ろしい外の世界で、ただひたすらに、陰に隠れて生きている。


    ◇


 はっと、衣織が自宅のソファーの上で目を覚ました。時計の針は午前十二時を指している。身体を起こし、衣織は痛みを感じて左目を押えた。ぽろりと、つけたままだった黒いコンタクトレンズが落ちて、衣織の金色の瞳が見えた。


「……琥太郎……」


 小さく呟いて、衣織は首を横に振ると、脱ぎ捨てていたパーカーを拾い上げ、フードをかぶると、暗い外へと出て行った。


 街灯や家の中の明かりが町を照らす真夜中。フードを深くかぶった衣織は、猫背気味に歩いていく。その足は、昨夜の駐車場に向かっていた。


 ポケットからウサギのピンを取り出すと、小さくあくびをして目をこすり、顔を隠すようにフードをかぶりなおしながら、衣織は歩いていく。しばらく行くと駐車場に付き、衣織は美雨の姿を探したが、美雨の姿はなく、駐車場は静まり返っていた。衣織がふうと息をつき、駐車場を出た。


 歩いていく衣織が、カンカンカンという踏切の音に顔を上げた。踏切の警報機が赤く点滅し、列車が来ることをあたりに伝えている。遮断機が下りてきて、人の侵入を阻止する。


 その踏切の前に、目立つ白髪の少女が立っていた。昨夜とは違い、つばの広い大きな帽子をかぶり、白いポシェットを肩から下げているが、それが美雨だということは、顔が見えなくてもわかる。


 衣織が美雨を見つけたことにほっとし、美雨に向かって歩き出した。そして、目を見開いた。


 美雨は、フラフラと警告音の鳴る踏切に歩き出した。踏切の中には、大きな手の姿をした禍ツ神。おいで、おいで、と誘うように、美雨に向かって手招きをしている。衣織が走り出した。


 美雨は手に誘われるように歩いていく。帽子でその表情は見えない。美雨が遮断機の下をくぐり抜け、踏切の中に侵入しようとしたとき、追いついた衣織が手をのばして、美雨の身体を引き戻した。


「⁈」


 美雨の帽子が落ちて、大きく見開かれた美雨の赤い瞳と衣織の目が合う。倒れそうになった美雨の身体を支えて、衣織が前を向くと、目の前に禍ツ神が迫っていた。


 大きな手の平についている大きな目玉が、衣織の姿をとらえている。衣織が美雨をかばおうと、美雨の身体を抱きしめた。


 禍ツ神が甲高い悲鳴を上げた。衣織の目の前で、禍ツ神は美雨の首の後ろから飛び出したミーちゃんに、食われていた。


「いおり?」


 衣織がはっとして、慌てて美雨から手を離した。その間も、後ろでは禍ツ神が悲鳴を上げながら、ミーちゃんに食われている。


「いおり、いおりだ! また会えた! 昨日ぶりだねぇ!」


「は、はい……」


「あ、そうだ! あのね、あのね、美雨のうさちゃんピン、知らない?」


 美雨が悲しそうに衣織に問いかける。ミーちゃんが禍ツ神を食べ終え、禍ツ神はザラザラと空気に溶けていった。ミーちゃんがじっと衣織を見つめている。


「美雨の宝物なの……」


「そ、それって、これのことですか……?」


 衣織がポケットからウサギのピンを取り出して、美雨に差し出した。美雨の表情がパアッと明るくなり、ウサギのピンを受け取る。


「ありがとう! 探してたの!」


 嬉しそうにピンに頬ずりする美雨。衣織は落ちた帽子を拾い、美雨に渡しながら問いかけた。


「宝物って、誰かからもらったものですか……?」


「うん!」


「お母さん、とか……?」


「ううん」


 美雨が首を横に振る。そして、ニコッと衣織に笑いかけた。


「美雨にお母さんはいないよ」


 衣織がはっとして、聞いてはいけないことだったかと口をふさぐ。美雨は笑顔だった。


「お父さんも、お母さんもいないよ。美雨の家族はミーちゃんだけなの。生まれた時から、ずっと、ミーちゃんと二人きり」


「え……?」


 美雨は笑っている。その様子に、衣織は美雨がとても不気味に見えた。そして、違和感を覚えた。


「……えっと……あ、あの、八作さん? っていう人は……?」


「八作さんは家族じゃないよ。美雨の、ほごしゃ? ってやつ。……あれ? ピン、誰からもらったんだっけ。まぁ、いいや」


「……生まれた時から、ミーちゃんと二人きりだったの……?」


「うん!」


「……じゃあ……」


 衣織は美雨に疑問を投げかけた。電車が通り過ぎて、美雨と衣織の髪が揺れる。


「美雨ちゃんは、誰から生まれたの?」


 その瞬間、美雨の顔から笑みが消え、瞳から光が消えた。


「……え……?」


 美雨が、訳が分からないというように、真っ赤な瞳で衣織を見つめる。衣織がその生気の感じられない表情に、一歩後ろに下がった。


「なに言ってるの……?」


「……だって……」


 衣織が口を開こうとしたとき、美雨の後ろにいたミーちゃんが、急に衣織の目の前に迫ってきた。衣織が息を飲む。ミーちゃんは裂けた口から涎のようなものを流し、鋭い歯を鳴らしていた。まるで、衣織が言おうとしたことを遮るように。


「ミーちゃん? ダメだよ! いおりはいい人なの! 食べちゃダメ!」


 美雨がミーちゃんを𠮟りつけ、ミーちゃんが衣織から離れて美雨の身体の中に戻っていった。それを確認して、美雨が衣織に笑いかけた。その表情は元の光りを取り戻している。


「あのね、美雨ね、衣織とまた会いたくて、それでね……」


 ふと、衣織が前を見た。遮断機が上がった踏切の向こうから、男が一人、フラフラと歩いてきている。美雨が衣織の様子に気が付いて、視線の先を追った。


 男はぶつぶつと何かを呟きながら、おぼつかない足取りでこちらに向かってくる。ぼさぼさの髪に、薄汚れたしわしわのシャツを着た中年の男。その顔はやつれていて、とても、まともには見えなかった。目を凝らして見てみると、肩にはムカデのような姿をした禍ツ神が乗っていて、男の耳元で『ころセ、コロせ』と呟いている。美雨は対して驚いた様子も見せず「あー……」と声を出した。


 男の手には包丁が握られている。衣織の顔からサアッと血の気が引き、退屈そうな顔をしている美雨の方を向いた。


「み、美雨ちゃん、いいですか。今すぐここから逃げて、交番に行ってください」


「交番? どうして?」


「どうしてって……」


「だって、あの人、もう無理だよ。食べられちゃってるもん、あの虫みたいなやつに」


 美雨の言葉に衣織が目を見開く。美雨は何も気にしていない様子で、不思議そうに続けた。


「あれに食べられたら、真っ黒になっちゃうもん。そうしたら、もう戻らないでしょ? あの虫、食べても、真っ黒なまま」


「き……みは……」


「八作さんはそんなことないっていうけど、美雨、わかるもん。心を食べられちゃったら、もう、どうしようもないもん」


 男が叫び声を上げながら、包丁を突き出して、二人に向かって突進してきた。その目の焦点は定まっていない。衣織が美雨をかばおうと手を伸ばした。守り神の名前を呼ぼうと息を吸って——。


 バクン


 衣織の前に飛び出したミーちゃんが男を食った。


 骨が砕ける音がする。肉が噛み千切られる音がする。衣織はただ茫然と、そのあり得ない光景を見つめていた。美雨は眉一つ動かさず、その様子を眺めている。


「美雨ね、こんな風に、よく変な人が寄ってくるの。だけど、ミーちゃんが食べてくれるから平気なの」


 美雨がとても退屈そうに言った。男を食べ終えた、ミーちゃんが美雨のもとに戻ってくる。美雨はミーちゃんに笑いかけた。


「ミーちゃん、お腹いっぱいになった?」


 ミーちゃんは何も答えない。血の一滴すらも残さずに、男はミーちゃんに食われた。


「ね、衣織。早く行こ?」


 美雨が立ち尽くしている衣織に笑いかける。衣織は小さく「……うそ……」と呟いたが、美雨は気が付かない。笑みを浮かべながら、美雨が衣織に向かって歩き出そうとした。ミーちゃんの大きな目は、衣織を見つめている。


万物両断ばんぶつりょうだん


 声が聞こえて、美雨が振り返る。沙乃が美雨に向かって大剣を振り上げて、とびかかって来ていた。美雨が目を見開いて、動けなくなる。


 刃が美雨に振り下ろされる。衣織が声を出そうとした瞬間、大剣の刃は、ミーちゃんの身体に防がれた。沙乃が目を見開く。


 大剣はミーちゃんの身体に弾かれ、沙乃が後ろに下がる。ミーちゃんが雄叫びを上げ、威嚇するように沙乃を睨みつけた。


「さ、沙乃さ……」


「衣織、見たやろ。禍ツ神は人の心を喰らう者。人をまるまる食いよるなんて、あり得へん。こいつ、生かしとったらあかんよ」


「どうして……」


「心配になって家に行ったら、衣織が出ていくのが見えたさかい、ついてきたんよ。こんな時間にどこ行くんかと思ってなぁ。そしたら、こんな状態やった」


 美雨は呆然と立ち尽くしている。沙乃がミーちゃんを睨みつけて、剣を構えた。


「まさか、素戔嗚尊の神器、草薙剣くさなぎのけんで叩き切れへんとはねぇ……あんた、何者なん?」


 美雨がビクリと身体を震わせて、怯えた表情で後退る。


「やだ……やだ、なんで……美雨……美雨……」


 怯え切った美雨にジリジリと近づいていく沙乃の目は鋭い。ミーちゃんが雄叫びを上げ、沙乃に向かっていった。ミーちゃんの身体はブクブクと肥大化し、身体から角のような突起が飛び出している。


 沙乃は迫ってくるミーちゃんに鋭い眼光を向け、逃げようともせず、剣を構える。


ここのつのくびりて、海鳴うみなけんとどろかせ。万物両断真剣豪力ばんぶつりょうだんしんけんごうりょく。ゆめゆめあなどることなかれ」


 ぶわぁっと沙乃の周りで風が巻き起こり、沙乃の髪と服が揺れた。怒りを露わにしたミーちゃんはまっすぐ、沙乃に向かっていく。美雨は頭を押さえて、涙を流しながら、ぎゅっと目を瞑り、懇願するように言った。


「ミーちゃん、助けて……‼」


 沙乃が閉じていた目を開いた。


「神格解放 その名を、素戔嗚尊すさのおのみこと


「沙乃さん、待って‼」


 沙乃が衣織の声を無視して、向かってきたミーちゃんに向かって剣を振り下ろす。青く光り輝いた大剣の刃が、ミーちゃんを切り裂こうと迫った。


 その瞬間、沙乃とミーちゃんの間に大きな音を響かせながら、一筋の雷が降り注いだ。


「⁈」


 沙乃が驚いて後ろに飛びのく。ミーちゃんは唸り声を上げながら、守るように美雨に寄り添った。


「美雨をいじめないでもらえますか」


 聞こえた声に沙乃が振り返る。そこには、美雨の保護者、八作が険しい顔をして立っていた。


「……八作さぁん……!」


 美雨が沙乃の横を通り過ぎて、八作に駆け寄っていった。八作に抱き着いて、美雨はボロボロと泣き出す。


「……八作真造……やっぱし、あんたでしたか……」


 そう呟いた沙乃に、衣織が困惑した様子で八作を見つめる。八作は泣きじゃくる美雨の頭を撫で、ミーちゃんは警戒するように沙乃と衣織を睨みながら唸っていた。


「元神子であるあんたが、なぜそのような者を放置しとるんです?」


「……まず、草薙剣を納めてもらえますか? 現宝刀当主の本気なんて、到底敵うものではありませんから」


 沙乃がいぶかし気な顔をしながら、大剣から手を離す。剣は地面に落ちる前に、空気に溶けて消えた。


「美雨、お家に帰ろう。もう、大丈夫ですからね」


 八作が美雨に優しく語り掛け、その途端、美雨の身体が崩れ落ち、八作が慌てて支えようとして、それよりも早く、ミーちゃんが美雨の身体を支えた。ミーちゃんはじっと八作を見つめ、目玉だけを動かして沙乃と衣織を一瞥すると、美雨の首の後ろに引っこんでいった。


 八作が美雨を抱き上げて、衣織の方を見る。


「やはりあなたも神子だったのですね。そろそろ見つかるだろうと思ってはいましたが、迂闊でした。ご説明いたします。立ち話もなんですので、ついてきてください」


 八作は微笑んでいる。だが、その目は笑っていないように見えて、衣織の背筋にゾクリと悪寒が走った。


    ◇


 八作に案内された寺近くの家の一室で「美雨を部屋に寝かせてきます」と引っこんでいった八作に取り残された二人は黙りこくっていた。衣織は八作に言われた通りに座布団に座り、沙乃は柱にもたれかかって、険しい表情で外を眺めている。沙乃の様子に、衣織はためらいがちに問いかけた。


「あの……八作真造さんって、いったい……」


「……もと、宝刀の神子や。裏切り者やよ、あの人は……」


「裏切り……?」


「お待たせしました」


 八作が戻ってきて、衣織がビクッと肩を震わせた。沙乃が八作を見る。


「あらためて、私は八作真造と申します。ここの住職をしております。以後お見知りおきを……」


 衣織に向かって、八作が深々と頭を下げる。


「お久しぶりですね、沙乃さん。お元気そうで何よりです」


「そういう話をしに来たんちゃうんよ、八作さん。うちらは時輪美雨について聞きたいんや」


「……承知しております。ご説明いたしましょう。ですが……」


 八作が頭を上げる。その目は鋭く、二人を見つめた。


「くれぐれも、美雨に危害を加えないと、約束してくださいますか?」


「……内容による……としか答えられまへん。うちも宝刀現当主、という立場がありますさかい……」


「かまいません。お話ししましょう」


「まず、ミーちゃんについて教えてください」


 沙乃の質問に、八作は穏やかな様子で目を閉じると、きっぱりと言い切った。


「わかりません」


「へ?」


 これまで黙っていた衣織が間の抜けた声をだす。沙乃が怪訝そうに眉をひそめた。


「わからへん?」


「わかりません。禍ツ神なのか、はたまた別の存在なのか、そもそもどういう経緯で美雨のそばにいるのか、それは私も知りません」


「せやけど、いいもんとちゃうのはわかるんとちゃいます?」


「えぇ。いい者ではないでしょう」


「……いい者、悪い者どころの話じゃありません……」


 衣織が呟くような小さな声で言った。


「せや、やつは人を食った。あり得へん。禍ツ神は人の心を喰らう者。人の肉体ごと食うなんて、絶対にない」


「えぇ。ですから、禍ツ神かもわからない、と」


「じゃあ、なおさら! なんであんたはそれを放置しとるんやと言っとるんや!」


 沙乃が声を荒げる。衣織がびくびくと二人の様子を見つめていた。


「忘れたとは言わせへんよ。三年前の大災厄。あれからいろんなもんがおかしくなっとる。禍ツ神が増え、日光の大神降ろしもままならないまま、神子はどんどん喰われて消える。あんなの放置しとったら、どうなるかわかるんとちゃうの?」


「……どうにも、ならないのです。ご覧になったではありませんか。あれは、沙乃さんの神器、草薙剣をはじき返したのです。神格解放を行える神子の、三柱の神、素戔嗚尊の力を持ってしても、それほどまでに強靭な力」


「やからこそ、どうにかせんとあかんって言っとるんよ‼」


「……できません。美雨が壊れます」


「ミーちゃんを斬るだけや。絶対にあの子は傷つけへん。なんで危ないとわかってるのに、まるであれを守るようなことを……!」


「違います。美雨を守るためです」


 八作が小さく息をついた。その瞳はどこか悲しそうで、沙乃がいぶかし気な表情をする。


「美雨の髪色、瞳、見て驚かれたでしょう」


「……アルビノ、ですか……?」


 衣織が問いかける。沙乃は押し黙って話を聞いていた。


「いいえ。元々の色は黒かったと聞いてます。過度なストレスによる、色素抜け、と」


「え……?」


「……三年前、ある怪事件が起こりました。アパートの一室から異臭がすると、近隣の住人が通報があり、警察が中に入ってみると、一面血の海の部屋の中、その部屋で暮らしていた三人家族の娘が、呆然と座り込んでいました。」


「……その娘が、時輪美雨?」


「はい。ですが、この事件が怪事件と言われた理由は他にあります。部屋の中は血の海でありながら、美雨を残して、父親と母親の姿はありませんでした」


「……は……?」


 沙乃が間の抜けた声を出す。


「遺体すらなく、ただ大量の血を残して、忽然とその姿を消しました。当初、警察は犯人を捜し、遺体を探しましたが、犯人と思しき人物はおらず。どこを探しても両親の遺体はありませんでした。美雨に聞いてもなにも答えず、知らないと虚ろに答えるだけだったと」


「……まさか……」


「わかりません。ですが、美雨はその日から、ミーちゃんという存在を唯一の家族だと認識し、自分にはもともと、両親は存在しなかったと、思い込み始めたようです。自分は生まれた時からミーちゃんと共にいたのだと。そして、美雨に両親のことを尋ねようとすると、ミーちゃんによって、阻まれます。美雨も答えたくないようです」


 衣織が美雨の虚ろな瞳を思い出し、牙を向いてきたミーちゃんが思い浮かんで身震いをした。


「ミーちゃんは、美雨を脅かす者に牙を向くようです。人間も、禍ツ神も同様に。そして、警察から聞いた話では、美雨は事件当初に負った傷は一つもないものの、身体中に虐待の跡が見られると。色素抜けの理由はそれだと言われました」


「……虐……待……?」


 衣織の顔が青冷める。それに気が付いた沙乃が、そっと衣織に近づいて、衣織の横に座ると、衣織の手をぎゅっと握った。


「ミーちゃんが何者かはわかりません。両親を食ったのがミーちゃんなのかも。ですが、美雨はミーちゃんを、自分を守ってくれる者、と認識しています。美雨が事件当初、何を見たのかはわかりませんが、それが、美雨から両親という存在を奪い、ミーちゃんという支えを作り出すほどに、衝撃的だったことは容易に想像できます。私は知人の刑事に、事件のあった部屋を祓ってくれと言われ、この事件を知り、身寄りのなかった美雨を引き取りました。美雨は、いまだに私に心を開きません。ミーちゃんがお腹を空かせるから、と、何度言っても深夜にこっそり家を出ていきます。……ミーちゃんを殺せば、おそらく、美雨の精神は壊れるでしょう。もともと、不安定な子ですから」


「……せやから、本家に報告せんかったんですか」 


 八作は沙乃に向かって床に頭を付けた。


「沙乃さんの立場もわかっています。ミーちゃんの危険性も。ですが、どうか、今はまだ、美雨のことを放っておいていただけませんか? いずれ報告すべきとは考えておりました。ですが、今はまだ、本当に何もわからないのです。どうか、どうか……あの子は可哀そうな子です。どうか……」


 沙乃が八作を見つめる。青冷めてうつむいていた衣織が顔を上げ、沙乃が衣織の方を見た。


「あの……沙乃さん……もう少し……なにかわかるまで、そっとしておきませんか……? ミーちゃんが襲うのは、美雨ちゃんに危害を加える者だけです……今は、まだ……」


「……わかっ……た」


 沙乃が小さく唸り、絞り出すように言った。八作が顔を上げる。


「ただし、うちから監視を付けさせてもらいます。もしなにかあった場合は、やむをえないということも、理解しておいてください」


「ありがとうございます……」


「それから」


 沙乃の声色が鋭くなる。


「八作さん、あなたの力をお借りしたい。神子としての力を」


「……言われなくとも、そのつもりです」


 深々と頭を下げて二人を見送る八作を残し、二人は寺を後にした。冷たい風が二人の頬を打つ。


    ◇


「……寒くなってきたなぁ」


 沈黙に耐えきれなかった様子で、沙乃がポツリと呟いた。


「……あの……沙乃さん……」


「なん?」


「美雨ちゃんの監視……僕がやります……その……比較的、懐かれてますから……」


「……そうやなぁ」


 沙乃が急に立ち止まった。衣織が慌てて立ち止まる。


「同情したら、あかんよ」


「え?」


「人を食べる化け物なんや。美雨に危険が及ばんとも限らへん。そん時は、斬らなあかん。ためらわず、ためらわず……後悔せんように」


「沙乃……さん……」


「なんかあったらすぐ言いや。いつでも駆け付けるさかい」


 じゃあ、また。と言いながら、沙乃は衣織の帰り道とは反対に歩いて行った。その背中を見送って、衣織は複雑な顔をしながらフードを被る。


 どこかで禍ツ神が寂し気に、うなり声をあげている声が聞こえた。

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