一刻 白髪の少女
この世界の全てのものには神が宿っている。それは人間も動物も、道端に転がっている石も例外でない。だが、その存在はあまりにも小さく、人々はその小さな神を認識することすらできない。
神はいとも容易く歪む。人の邪なる心は、その者に宿る神に干渉し、神を蝕み、歪め、狂わせる。歪んだ神は宿り主の心を喰らい、堕とし、殺す。そして、この世界に生まれた理由を求め、
神を殺すには神の力を借りる他ない。そこで、自身に宿る神に名を与え、人格を与えることで神の力を借り、禍ツ神を殺すことができる者たちを、人々は神子と呼び、歪んだ神を殺すことにした。
神子は神の子供でありながら、その親を殺す者。神に抵抗しうる力を持った、神に近しい人々のことである。
◇
時計の針が十二を指す真夜中。ボロアパートの一室から外に出る人影が、月明かりに照らされている。「……寒い」と頬を撫でた冷たい風に、
肩に付くぐらいまでの、長い癖毛の黒髪をハーフアップにして、黒いパーカーにシワシワのジーパン、黒いスニーカーという不審者極まりない格好。華奢な身体は後ろ姿からでは一見女に見えるが、もうすぐ百八十五センチに届く身長が、衣織が男だということを物語っていた。
外の寒さに身震いし、顔を隠すようにパーカーのフードを深く被った衣織は、出てきた部屋の扉に鍵をかけ、ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、猫背気味に、夜の闇に呑まれた外へと歩き出した。
外は闇に飲まれている。闇の中で歪んだ小さな神たちは息を潜め、喰らい尽くせる者を探している。存在すら危うい歪んだ自分たちが生きるため、陰に隠れて獲物を待ち構える。
それらの目線を感じながら、衣織は暗い夜道を歩いていた。街灯の光から逃れるようにわざと影を歩き、寝静まった街を進んでいく。
冷たい向かい風に、衣檻がフードを押さえた、その時。
『おい』
何かに呼び止められた。衣織が振り返る。そこには、大きな禍ツ神がいた。
大きな蛾のような羽には無数の目玉がついている。家一つ分ほどに肥大化した小さな禍ツ神の集合体は、大きな触角を怪しげに動かしていた。
『見るナミルな見ルナミるナ見なイで?』
呟き続ける禍ツ神を睨みつけるように見つめて、衣織はギュッとフードを被り直す。ポケットから右手を出して、手を開いた。
『見るな』
「……じゃあ、呼ばないでください……」
衣織あきれたように呟き、周りの空気がしんと張りつめた。
「
衣織がそう言った瞬間、衣織の右手に美しい白銀の刃を持つ短刀が現れた。短刀は月の明かりを反射して、神聖な光を放っている。
口を大きく開けて向かってくる禍ツ神に、衣織は手にした短刀を構え、風がフードをさらって、衣織の顔が見えた。長い前髪とフードに隠されて見えなかった左目が見え、その瞳は金色だった。
「
短刀から霧が吹き出す。白い霧が辺りを包み込み、禍ツ神が霧に包まれた。禍ツ神が『ギャアッ‼︎』と悲鳴をあげる。そして、その悲鳴が霧に溶けるよりも早く、禍ツ神は真っ二つに裂け、霧の中で倒れた。
瞬きをするよりも早い、一瞬のことだった。
霧が徐々に薄れ始め、霧に隠れていた衣織の姿が見え始める。衣織は災い津神に背中を向けていて、フードを被りなおしながら、倒れた禍ツ神の方を振り返った。禍ツ神は『ヒィ、ヒィ』と声を上げながら、一匹一匹の小さな蛾のような個体になって散り散りになっていき、霧に包まれてプツンと弾けるようにその個体が消えていく。
その様子を眺めて、衣織が短刀から手を離すと、短刀は地面に落ちるよりも早く、霧になって溶けた。衣織が左目に違和感を感じて目を押さえる。
「……あ、コンタクトしてない……」
気がついた衣織は小さくため息をつき、風に攫われて徐々に霧が消えていく中、その小さなため息は溶けていった。
衣織がポケットに手を突っ込み、中にあった小銭を取り出して数えた。そして、足りることを確認し、小銭を握りしめる。
「お汁粉買って帰ろう」
その言葉は寝静まった町に消え、誰の耳にも届かない。衣織は崩れていく禍ツ神に向かって歩き出し、何事もなかったかのような顔をして、禍ツ神の横を通り過ぎる。崩れていく禍ツ神の『タすけテ……』という呟きは聞かなかったことにして、近くの自販機を探して歩いていった。
◇
自販機を探していた衣織は、近くの駐車場に自販機を見つけ、お汁粉を買いに自販機に近づいていった。
ふと、衣織が駐車場の方を見ると、駐車場のライトに照れされて、ぼんやりと小さな人影が浮かびあがっていた。
衣織が不審に思って目を凝らした時、聞こえた声に衣織が目を見開いた。
『おイシそウ』
それは間違いなく禍ツ神の声で、目を凝らして見てみれば、小さな人影の前で、大きな禍ツ神が口を開けていた。大きな球体の身体に、裂けた口の中には大きな目玉が隠れていて、その目は、まっすぐに目の前の獲物を捕らえている。
禍ツ神の姿を見た瞬間、衣織は走り出し、立ち尽くしている人影に手を伸ばした。近づくに連れて見えてきたその人物は、闇夜に浮かぶ雪のような真っ白な髪を持った、小さい少女だった。
少女が衣織の足音に気が付き、振り返る。その瞬間、見えた光景に衣織が目を見開いた。
『ぎゃああああああっ‼』
禍ツ神の悲鳴が響く。衣織がその場で立ち止まり、振り返った少女と目が合った。血のように赤い瞳に、髪と同じ色をした、透き通るような白い肌。サラサラと風になびく、肩に付くぐらいの長さに切りそろえられた真っすぐな髪には、可愛らしいウサギの顔をかたどった、ヘアピンが付いている。
「お兄さん、だあれ?」
不思議そうに首を傾けて問いかけた少女は、夜の闇の中で異様な雰囲気を放っている。だが、衣織はその少女ではなく、少女の後ろの光景に釘付けになっていた。
少女の後ろで大きな口を開けていた禍ツ神は、悲鳴を上げながら、どこからか現れた他の禍ツ神のようなものに食われていた。
バキバキ、グチャッと肉や骨を噛み砕く音が響き、食われている禍ツ神よりも一回りほど大きな禍ツ神のようなものは、他の禍ツ神のようにどす黒い身体ではなく、肉塊が集まって固まったような禍々しい姿をしている。所々、血管のような太い管が浮き出しており、生えた二本の腕はまるで赤子の手のように短いが、悲鳴を上げる禍ツ神の身体を押さえつけていた。
その凄惨な光景に、衣織は何も言えずに立ち尽くす。禍ツ神は次第に動かなくなり、悲鳴が小さくなっていった。
「お兄さん?」
「……あ……」
衣織が我に返って少女を見る。少女は相変わらず不思議そうな顔をして衣織を見つめていた。
「そ、そこは危ないです……! 早くこっちに……!」
「危ない? なんで?」
「い、いいからこっちに……!」
衣織が少女の腕を掴む。その瞬間、禍ツ神を食っていた禍ツ神のようなものが衣織の方を向いた。
頭部に付いた大きな一つの目玉と衣織の目が合う。身体中についた小さな目玉が瞼を開き、衣織に注目していた。衣織の頬に冷や汗が伝う。禍ツ神のようなものはゆっくりと動き、衣織を威嚇するように睨みつけた。食われていた禍ツ神は跡形もなく食らいつくされている。
「え……」
衣織が小さく声を上げた。よく見れば、禍ツ神のようなものの身体は少女の首の後ろから飛び出している。衣織が思わず少女の腕から手を離した。
「……もしかして、お兄さん、ミーちゃんのこと見えてるの?」
「……ミ、ミーちゃん?」
「見えるの⁈」
顔を輝かせた少女に衣織が困惑しながら頷いた。少女は嬉しそうに笑顔を浮かべるが、その後ろの大きな目玉に睨みつけられている衣織は顔を引きつらせている。
「すごい‼ ミーちゃんが見える人、美雨、初めて会った! お兄さん、すごいね!」
「ミーちゃんって、それ……?」
「うん! この子はね、美雨の唯一の家族なの! でも、みんな見えないって言うんだ……そんなのいないって……」
少女が悲しそうな顔をする。その時、衣織を睨みつけていたミーちゃんと呼ばれるものが動き、シュルシュルと身体を縮めて少女の首の後ろへと入っていった。衣織が「ひっ……」と情けない声を出す。
「ミーちゃん、おねむ? じゃあ、もう帰えろうか。八作さんにバレたら怒られちゃう」
「……あ、待って!」
去っていこうとした少女に衣織が慌てて声をかける。少女が振り返ろうとした。
『オいシソう』
「⁉」
少女の目の前からまた別の禍ツ神が現れて、少女が目を見開く。衣織が少女の腕を掴み、脱兎のごとく逃げ出した。
「わ、わ」
少女がこけそうになりながらも、必死に衣織の後についていく。
『ニゲろ、にゲロ』
後ろから追いかけてくる禍ツ神の数が徐々に増えていく。大きな禍ツ神に惹かれてやってきた禍ツ神たちが重なり合って肥大化し、衣織と少女に向かって手を伸ばしていた。
衣織は少女を細道に連れて行き、不思議そうな顔をした少女に「ここから動かないでください」と言って、一人飛び出していった。
取り残された少女は言われた通りその場から動かず、ポツリと呟く。
「ミーちゃんがいるから、大丈夫なのになぁ……もっとお話ししたかったのに……」
退屈そうに髪の毛先をいじり、足元の小石を蹴とばす。その時、少女が付けていたピンが落ちた。
「あ……」
ピンは小道の奥へと転がっていく。少女がそれを追いかけて小道の奥へと走っていき、ピンを拾おうとしゃがんだ時、目の前に大きく口を開けた禍ツ神が現れた。少女が目を見開く。口を開けた禍ツ神は、少女を飲み込もうとした。
その瞬間、あたりにぶわぁっと霧が立ち込め、少女が思わず目を瞑る。禍ツ神の悲鳴が聞こえ、少女が目を開けると、目の前に衣織が立っていた。衣織の姿は霧のように揺らいでおり、徐々にその輪郭が鮮明になっていく。切り裂かれた禍ツ神は『いたイ……イタい……』と言いながら、散り散りになって消えていった。
衣織が振り返り、手に持っていた短剣が消える。呆然としている少女と目が合って、衣織の険しい表情が崩れた。
「だ、大丈夫ですか⁈ 怪我は……!」
衣織がオロオロしながら、キョトンとしている少女の身体に怪我がないか確認する。
「あ、あの……⁈」
「……ごい……」
「え?」
少女が目を輝かせ、衣織の手を握る。衣織がその勢いに押され、顔を引きつらせた。
「すごい! すごいよ、お兄さん! かっこいい! それ、どうなってるの⁈」
「え……えぇ……」
少女の様子に衣織が困惑してうろたえる。少女はそんなことお構いなしに、衣織の手をぶんぶんと振りながら、嬉しそうに笑っていた。
「私ね、
「か、神崎衣織、十七歳です……」
「いおり! いおりね! あのね、美雨ね」
「美雨!」
聞こえた声に美雨がビクリと身体を震わせて、衣織の手を離して振り返った。視線の先には、一人の男が立っている。
法衣を身に着け、眼鏡をかけた男は、鋭い眼光を美雨に向けていた。静かな怒りがヒシヒシと伝わり、美雨が顔を引きつらせる。
「は、八作さん……」
「美雨、いったい何度言えばわかるのですか? こんな夜中に一人で外に出て、危ない目に合ったらどうするんです?」
「で、でもでも、美雨にはミーちゃんが……!」
「そんなものいないと言っているでしょう。美雨……お願いだから心配をかけないでおくれ……」
「……ごめんなさい……」
八作と呼ばれた男がため息をつき、衣織に気が付いた。警戒するように衣織を見つめる。
「この方は?」
「いおり! あのね、美雨のこと助けてくれたの! すごくかっこいいんだよ!」
美雨が満面の笑みを浮かべ、衣織は警戒されていることに気が付いて慌てふためく。その様子に八作がふっと微笑み、衣織に頭を下げた。
「うちの美雨がご迷惑をおかけしました。天真爛漫で困った子なのです」
「あ、いえ、そんな……滅相もないです……」
「さぁ、美雨。帰りますよ」
「嫌! いおりともっとお話しする!」
「美雨」
八作の笑みが消え、美雨が渋々「帰る……」と言った。美雨が八作と手を繋ぎ、その場を去っていこうとする。最後に振りかえり、衣織に手を振った。
「じゃあね、いおり! また会おうね!」
満面の笑みを浮かべ、八作と手を繋いで去っていく。取り残された衣織はどっと疲れが襲い、大きくため息をついた。
ふと、衣織が足元に転がっていた物を拾い上げる。それは美雨が落としたウサギのピンで、衣織がはっとして、去っていった二人を追いかける。
小道を抜けてあたりを見渡したが、二人の姿はすでに消えていて、衣織はもう一度、大きくため息をついた。
◇
衣織は宝刀本家の大きな日本家屋の一室で、居心地悪そうに座っていた。ちらりと庭を見ると、そこには風情ある、大きな日本庭園が広がっている。衣織は長身の身体を隠すように肩をすくめ、目の前の机に置かれた湯呑から、白い湯気が立ち上っているのを見つめた。
「衣織!」
不意に聞こえた声に、衣織がビクリと身体を震わせた。
衣織の前に現れたのは、薄い茶色の真っすぐの髪を肩にギリギリつかない長さに切りそろえた、つり目の気の強そうな女性。日本家屋に似合わない、白いシャツにジーパンというラフな格好をした女性は、衣織の姿を見て、顔を輝かせた。
衣織に駆け寄ると、女性は座りこんでいる衣織の頭に手を伸ばし、わしゃわしゃと撫で始めた。
「えらい、久しぶりやなぁ! また身長伸びたんちゃう? どないしたん? 衣織が自分から来るなんて珍しいなぁ」
「や、やめてください……沙乃さん……」
犬を撫でるように豪快に頭を撫でまわす、宝刀当主、
「ええやん。うちと衣織の仲やろう? また、そんな辛気臭い顔して! ほら、笑うてみ!」
「あの、ほんとに……沙乃さんはお変わりないようで……」
「まぁ、忙しすぎて死にそうやけどなぁ!」
「お疲れ様です……忙しいときに、すみません……」
「ええんよ! 衣織はもっと、姉弟子に頼ってもかまへんよ?」
「善処します……」
「それで? いったい何があったん? うちの顔が見たくなった?」
「いえ……聞きたいことが……」
「聞きたいこと?」
「はい、その……時輪美雨、という女の子をご存じですか?」
「誰?」
沙乃がようやく手を止めた。
衣織は沙乃に昨夜の出来事を話した。話を聞き終えた沙乃は、あごに手を置いて考え込む。
「……あり得へん。その時輪美雨っていう子、何者なん?」
「わかりません……だからこうして聞きに来たんですが……」
「そんな事例、聞いたことあらへんよ。禍ツ神にとって、人間は心を喰らって糧にするための餌でしかない。それに、そのミーちゃん? っていうの、禍ツ神なのかもわからへんのやろう? まぁ、あまりいいものとは思えへんけど……」
「そう……ですよね……」
「斬った方がええ。その子にとって大切な存在かもしれへんけど、絶対、いいもんやないよ。ただでさえ、最近、禍ツ神が増えてきて、こっちも人手不足なんや。……三年前の大災厄の影響かもしれん」
「……あの……」
衣織がためらいがちに口を開いた。
「……
沙乃がその名前に目を見開いた。悲しそうに目を伏せた沙乃の様子に、衣織の表情が暗くなる。
「……見つからへん、見つからへんよ。いったいあの馬鹿師匠はどこに行ったんやろうなぁ……。大災厄の後から、あちこちでいろんな封印やら何やらが弱くなってる。問題になりそうなことは、早めに片付けた方がええ。衣織、そのミーちゃんとやらの駆除、頼んでええ?」
「はい」
「ええ子! でも、気になるさかい、うちも調べてみる」
そう言うと、沙乃は柔らかく笑い、衣織の頭を撫でた。
「ちゃんと、食べてるん? 家事は出来てる? お金に困ってへん? なにかあったら、頼ってええんよ」
「大丈夫ですよ……」
「心配やなぁ。くまが酷くなっとるし、顔色も良くないし、ほんまに手がかかる子やねぇ」
「子供じゃないので……」
「まだまだ子供!」
「沙乃様」
聞こえた声に沙乃が振り返る。後ろに着物を着た沙乃の付き人が立っていた。
「時間です」
「ごくろーさん。かんにんな、衣織。もう行かなあかん。こっちでもいろいろ調べてみるさかい、頼んだで」
沙乃が部屋を出ていく。残された衣織は、冷めきった湯呑のお茶を見つめて手に取ると、一息に飲み干した。
◇
夕方の住宅街。つばの広い帽子を深くかぶり、何かを探すように足元を見ながら、美雨は夕日の光りを避けて、できるだけ日陰を歩いていた。その表情は暗く、今にも泣きだしそうに眉を下げ、美雨はふらふらと歩いていく。
前の方から聞こえた笑い声に、美雨が顔を上げた。前から現れた帰宅中の子供たちに、美雨が慌てて帽子を深くかぶる。顔を隠すようにうつむいて、子供たちが通り過ぎるのを待ち、立ち止まった。
「気持ち悪い」
横を通り過ぎって行った子供の一人が、美雨の髪を見て行った。美雨が目を見開く。
美雨は振り返り、走り去っていった子供たちの背中を見つめた。
「……ミーちゃん。食べていいよ」
そう言った美雨の赤い瞳に、光は灯っていなかった。
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