あのミスはない。今でも思う




 本丸がいたのは、二階だった。

 短い廊下の途中にある扉を開いたとき、ひとりの男の声がエノチカを出迎えた。


「――ひとりか? 粛清官」


 特徴のない、白いマスクを被った男だった。かれがエイテ傭兵団の首領、ベレンスキーだということが、エノチカにはすぐにわかった。


「お前のほうこそひとりかよ」


 エノチカは軽く周囲をみやった。ニーガルタスも、さらわれたはずのアーノルドも、少なくともここには姿がない。まだ確認していない三階という可能性はある。

 それでも、目の前の男から目を離すわけにはいかなかった。


「正直を話そう。まさか即日でここまで追いついてくるとは思わなかった。ヘクトル・メーンの殺害が成功した時点で、この計画は滞りなく進むと考えていたが」

「冗談だろ。こんなずさんな計画でよ」

「どうやらそうだったようだな。となると、俺はこれで生涯で二度、粛清官にしてやられたことになる。しかし、それでこその中央連盟だ」


 ベレンスキーの発言はひっかかりを覚えるものだった。

 が、エノチカの注意はべつのところに向けられていた。この状況――相手は、やはり追跡に気づいていたらしい。それでいて逃げずに、自分を出迎えている。

 罠を張るような時間があったとは思えない。この迎撃が、もとより進退窮まるクライアントの要望だったとしても、ベレンスキーには自信があるのか、あるいは……

 互いに、すでにインジェクターは起動済みだった。

 奇しくも、その色は似ていた。エノチカの粒子も、ベレンスキーの粒子も、いずれも白色だ。もっとも、こちらは透明な気質で、向こうは塗りすぎたペンキのように濁っていたが。

 ずわぁっと、エノチカは散らばっていた粒子を手元に集めた。


「大市法と粛清官特権に基づいて、てめーの処理はアタシに一任されている」


 エノチカの左手で、エネルギーのこめられた粒子が回転して音を出した。キィィィ……ンと音を響かせて、それはたしかな球体へと変化していく。


「粛清対象に出会ったら、まずはそう伝えろと教えられていたが――悪いけど、こちとら生かして捕らえるような余裕はねぇ。予告するぜ。たった今この瞬間に降伏しねー限り、てめーの急所にゃ穴が空く」

「――ためしてみろ、粛清官」


 けして広くはない室内で、ナイフを抜いたベレンスキーが前のめりに駆けてきた。

 この状況。

 この間合い。

 どちらが死ぬにせよ、かならず決着は一瞬となる。


 エノチカがバットを構えた。叩いたのは、自分が形成した粒子弾だった。

 すでにじゅうぶんな質量のある球体としてまとまっていた粒子が、カキンッ! と音を立てて打ち出された。


 ベレンスキーがマスクの下で瞠目したのが伝わった。自分に向けて一直線に飛んでくる剛速球を、しかし事前のモーションから予想していたのか、かれはぎりぎりのところで回避した。

 次の瞬間、奇妙な音が室内に響いた。

 ものが擦り切れるか、あるいは強烈に打突されるか、いったいなにがあればそのような音が出るのか、おそらくエノチカのほかにわかる者はいないだろう。

 ベレンスキーが振り向いたとき、そこにあったのは穴だった。

 建物の壁を――分厚いコンクリートの壁を――ぶち抜いた球体の痕が、そこにあった。外から吹く風が、その丸いかたちの刻印から、ざわりと室内に流れこむ。


「これは……」ベレンスキーが息を呑んだ。

「物を貫通する粒子弾、か……!」


「正解だよ」とくに隠す意味がないから、エノチカは答えた。「言っただろ、風穴をあけるって。次が本チャンだ――よけてみろ」


 次弾が、すでにエノチカのとなりに形成されていた。流れるような動作でスイングをすると、ふたたびベレンスキーにめがけて剛速球が放たれる。

 防御不可の弾丸。エノチカの放つ粒子の弾は、そう形容してまったく支障ない。弾のかたちを維持していられるのは限られた時間だが、その時間内であれば、接触した対象をかならず貫く。

 それを可能とするのは、エノチカの振るう正確無比のスイングの技術だ。

 ベレンスキーの土手っ腹に、弾が迫った。けして受けることができないそれを、ベレンスキーはなんとか回避しようとしたが、完全にはかなわなかった。

 腹部に触れた球が、球速を弱めることなくかれの表皮を、肉を削る。

 それでも、エノチカが予言したような風穴は空かなかった。

 貫通弾が斜めに、かれの腹部を削り取った。ぶしゃりと血を噴き、数センチに及ぶ抉り傷からベレンスキーの大腸が一部、こぼれ落ちた。


「なるほど――」と、ベレンスキーが口にした。「粛清官らしい、すばらしい武闘派の能力だ――が」


 その結果におどろいたのは、むしろエノチカのほうだった。

 それは、今の一撃で始末することができなかったからではない。重傷を負ったベレンスキーが、その傷や衝撃をものともせずに、一目散にこちらに攻めてきたからだ。

 痛覚の砂塵能力。事前の資料で知っていたベレンスキーの力が、どのようなダメージであろうとも、即死でない限りはかれを駆動させているということか。

 筋肉質で大柄なベレンスキーが、なるほどこの稼業で生き延びてきた訳を知らせる俊敏さでエノチカに迫った。




 ――じつをいうならば、この時点で。

 エノチカには、勝利への確信があった。

 武闘派の砂塵能力にはよくあることだが、初見での対応がほとんど不可能な技というものがある。

 それでいうなら、エノチカの能力はまさしく初見殺しの必殺といえた。

 エノチカには、二打目の秘策がある。貫通はたしかにエノチカに許された力だが、この粒子が可能とするのはそれだけではない。その二打目をもってして倒せなかった敵は、これまでにひとりもいなかった。

 そしてこのときも、エノチカはそれを披露するはずだった。

 

 それができなかったのは、エノチカの予想していなかった現象があったからだ。

 第三者の介入。

 その予兆を、エノチカは視界に捉えることができていた。

 こちらに迫るベレンスキーが、じゅうぶんに密度を溜めた白色の粒子をまとわせている。そしてその周りには、エノチカが操る粒子が薄く散らばっている。

 だが、それだけではなかった。

 みっつめの砂塵粒子が、ここにはあった。まったくの偶然だが、黒晶器官が消化したあとの粒子の色が近い三人が、一堂に会して同じ部屋にいる。

 そしてその粒子が、エノチカの身体を捉えていた。


(なんだ……⁉)


 ぐらりと、エノチカの視界が揺れた。

 目の前にいるベレンスキーの身体が、まるで波打つかのように揺れた。

 ベレンスキーだけではなかった。部屋の物すべてが安定をうしない、ぐらぐらと不安定に動いている。

 その精神の変調のせいか、エノチカの粒子が一瞬、はたと姿を失せた。

 その隙を突いて、ベレンスキーが攻撃を仕掛けてきた。

 とっさにバットで受けようとしたエノチカには、しかし万全の防御ができなかった。


 軽いフェイントを入れた刺突が、エノチカの腹に触れる。

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