クッソいてぇの




 完全に貫かれるよりさきに、エノチカは一歩、うしろに下がった。

 ビタタ、とエノチカの噴いた血が床を汚した。

 ベレンスキーは追撃の手をやめなかった。鉄バットとコンバットナイフが、なんども空中で交差する。

 官林院で半年に渡り、現役・退役粛清官たちの近接攻撃の受けを訓練してきたエノチカをして、ベレンスキーはまるで劣らぬ攻撃を繰り出してくる。

 最後に、ふたりは鍔迫り合いのかたちを取った。互いの得物を、互いの手が掴んでいる。

 力は向こうのほうが上だ。それでも、ベレンスキーはわざとその状態を保った。

 いつでも潰せる、と言わんばかりにエノチカの指を握ると、ベレンスキーが口にした。


「――やるじゃないか、ミスター・アルヘン」


 その声に答えたのは、部屋に隠れていたひとりの男だった。


「へ、へへ……」エノチカの背後から、ひきつった笑い声がした。「化け物どもがやりあうところに同席するなんざ死んでもごめんだったが……へ、これが代償ってもんだよな」


 ニーガルタスの姿をみたとき、エノチカは自分の迂闊さを呪った。

 心のどこかで、この男は危険な場所には絶対に出てこないと信じていた。だが、そうではなかった。殊勝なことに息をひそめて、ベレンスキーとともに待ち構えていたらしい。


(つまり、このきめぇ揺れの正体は――)


 泥酔の砂塵能力。

 ニーガルタスの持つ姑息な能力が、自分に振るわれたことになる。

 だが今は、ただ姑息なだけには留まらなかった。吐き気さえ催す体調不良に、エノチカの全身からぶわりと汗が噴き出ている。

 腹に受けた裂傷が、ずきずきと痛んだ。


「よぉ。初めてみるぜ、粛清官。どうだ、なかなか効くだろ? まともな砂塵濃度になるまでに時間を食うから戦闘に使えたもんじゃあなかったが、こういう場合なら話はべつだ。あれだけ浴びりゃあ、お前らみたいなバケモンの足元でもぐらつくだろ」

「てめー……ニーガルタス……!」


 マスクの下、視線だけで殺せるかというほどに強く、エノチカがにらんだ。


「よそ見をしているひまがあるのか? 粛清官」


 ベレンスキーが、冷たい声で告げた。

 次の瞬間、かれの身体を渦巻いていた砂塵粒子がエノチカを捉えた。


(まず――)

 い、と自覚するより先のことだった。


 エノチカは、みずからの身体が弾けたような錯覚を覚えた。

 全身の内側から棘が生え、肉と骨と皮を突き破って咲き乱れたのかと――自分の身体が、業火で焼き尽くされたのかと、そう思った。

 それほどの鋭い痛みが、エノチカの全身を襲った。

「ぎッ」喉の奥から、腹の底から、声が出た。「ッッやぁああああああああああああッッ」

 脳がパニックを起こす。

 死んだのかと思いきや、そうではない。自分の身体は、依然として無事なままだ。

 傷らしい傷は、どこにも見当たらない。にもかかわらず、頭がどうにかなりそうなほどの痛みが襲いかかっている。


「いい悲鳴だ」


 エノチカの体勢が崩れたのをみて、ベレンスキーが攻勢へと切り替えた。ふところに入りこみ、こんどこそナイフを刺しこもうとしてくる。


「ぐッぅ……!」


 痛覚を操る砂塵粒子とは違い、こちらはもらったら死ぬ。

 それはわかっているが、エノチカの身体はまともに動かなかった。ベレンスキー、ニーガルタスの両名によって感覚を完全に狂わされたがゆえの、情けない結果だった。

 避けることはできなかった。

 エノチカにできたのは、べつの部位を犠牲にすることだけだった。

 あえて一歩踏み出し、貫通するかというほどに刃渡りの長いナイフを、左の上腕で受け止めた。深々と刃が刺しこまれ、エノチカの喉から絶叫が漏れる。

 エノチカの片膝が、がくりと折れた。


「いいぞ、ベレンスキー!」ニーガルタスが狂喜した。「よくやった! そのまま拘束してやれ!」

「こんなものか? 粛清官」見下ろして、ベレンスキーが口にした。「どう策を弄されようと、どんな相手だろうと、かならず敵を殺す。そういう存在じゃなかったのか、お前らは」


 ベレンスキーが、まとう粒子の質をさらに高めた。

 こちらを殺すではなく捕らえるつもりなのか、このままとどめを刺すではなく、痛覚を喚起する能力を行使しようとする。

 対して。


「……あいにく、だけどよ。粛清官なんざ、どうでもいいんだわ、アタシは……」


 崩れ落ちないようにバットを床に立てながら、エノチカは答えた。

 どうしてか、自分が笑っていることにエノチカは気づいた。

 視界が依然として揺れ動いている。頭の痛みが音となって、頭蓋骨の内側に響き渡っている。頭だけではない。刺された腕も、ベレンスキーの粒子がへばりつく全身も、これまでに経験したことがないほどに痛覚を刺激していた。

 とてもじゃないが、笑える状況ではない。

 ひょっとして気でも触れたかと、頭の片隅で思った。

 だが、かりにそうだとして、今ばかりはどうでもよかった。


「そうだ、粛清官なんざどうでもいい……。血反吐はくかってほど訓練はきついわ、変な女と組まされるわ、この半年、ろくなことがなかった。でもよ……」


 そのとき、ベレンスキーは異変に気づいたようだった。

 うつむくエノチカのふところ、ユニフォームの下に、新たな粒子弾が形成されていることに。激痛に耐えながら、それでもエノチカが集中して粒子を溜めていたことに。


「でも、でもよ。お前らだけは……絶対に、にがさねぇよ」


 もしも。

 もしもこのとき、ベレンスキーがおそれずに勝負を終わらせようとしていたならば、それはおそらく成功していたはずだった。

 少なくとも、相討ちにはもちこめていたはずだった。

 だが、ベレンスキーは大事を取った。手負いの相手をふたたび詰めるのに苦戦はしないだろうと判断してか、あるいはこちらの砂塵粒子にいまだみせていない仕様があることを警戒したせいか、エノチカから数歩、距離を置いた。


「その女から離れろ、アルヘン!」


 警告されたニーガルタスが、あわてて離れていった。

 エノチカはバットを持ち上げた。傷ついた左腕は添えるだけにして、ほとんど右腕だけのスイングをおこなう。打ち出された弾の軌道を見切ろうとしていたベレンスキーは、直後、そうする必要がないことを知った。

 貫通する粒子弾は、ベレンスキーにも、ニーガルタスにも向かわなかった。

 弾が向かった先は、どこともいえぬ虚空だ。


「……どういうつもりだ」怪訝そうな声色で、ベレンスキーが言った。「まさか、破れかぶれだったとは言うまいな。だとすれば、拍子抜けにもほどがあるぞ。俺がかつてみた粛清官は、もっと――」


 エノチカはなにも答えなかった。


 事が起きたのは、その直後だった。

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