空気でわかる
歓声はごく遠くまで届いていた。
実際、エノチカがスタジアムに着くずっと前から、SSの通りには波のような歓声が伝わっていた。こんな辺境にありながら、噂のレース場はずいぶんな盛り上がりのようだ。
半円の屋根を持つドームの名は、TBRという。トゥエニー・バギーズ・レーシングの略だ。五階建ての広い客席は、すべてSSの外にある荒野に向けられている。その荒野でおこなわれる二十車立てのバギーレースを、実況モニターと解説つきで楽しむという作りのようだ。
有名な興行地のひとつであり、もとからエノチカも存在は知っていた。
ここが建てられたのは、もう三十年も前だという。だが実際には、バギーレースの文化は観戦スタジアムの建立以前より、この場所にあったそうだ。偉大都市の企業が、金持ちの道楽のためや、偉大都市の外を行き来するための自動車の大規模生産をはじめてからというもの、それに目をつけたごろつきどもが始めた興行であるとのことだった。
着想もとは、偉大都市に遥か昔からある十六番街のサーキット場に違いない。
偉大都市の賭け事はどれも人気だが、とくにレースというものはわかりやすく熱狂しやすいものだ。そして熱狂しやすければしやすいほど、人々の財布のひもは緩んでいく。
「下品な文化だよ」と、アナスタシアはかつてよく言っていた。「カード遊びで満足すりゃいいってのに、あれじゃ露悪もいいとこだ。賭けたから応援するってんじゃ、プレイヤーだって報われないじゃないか」
祖母は生まれも育ちもよくないわりには、偉大都市のスラムが持つ文化のすべてを嫌っていた。賭け事も暴力も、もちろん、くだらないマネーゲームや騙し合いも。
祖母の作ったベースボールスタジアムの人気が出なかった理由のひとつが、賭け事が禁止だったからだというのはまちがいない。
しかし、この場所は違う。TBRの運営は、ビジネスとしての興行を徹底している。その昔は違ったらしいが、少なくとも今は合法な賭場として開かれており、偉大都市に対する納税や献金はまったく怠っていないようだ。
ここの胴元が、殺されたヘクトル・メーンだ。SS内の経済で最大手の賭場のオーナーが、すなわちSSにおいてもっとも自由なフィクサーだったわけだ。
問題は、エノチカの向かうべき場所だった。
すなわち、アーノルドの身柄をさらったニーガルタスがどこに向かったのかだ。
じゅうぶんなヒントはあった。
ホテルで襲いかかってきた女の着用していたマスクだ。
あれは、ヘクトル・メーンが複数所有しているマスクのファミリー系統だ。それをニーガルタス側の勢力がつけていたということは、ヘクトルの一派から強奪したか、あるいは複製したかのいずれかを意味している。
可能性が高いのは前者だ。おそらくホテルに向かうよりも先に、かれらはSSにおけるヘクトルの手下を殺害している。移住者のアーノルド・シュエインを接待するにあたり、当日動く予定のあった者たちを邪魔だと判断して、あらかじめ消したのだろう。
そしてその殺害場所は、おそらくTBRのすぐ傍、あるいは内部のはずだとエノチカは考える。
この特別居留地におけるヘクトルの一派の仕事は、容易に想像がつく。
TBRはたしかに経営許可をもらっている合法組織だが、だからといってそこらの会社と同じように非暴力を貫いているはずがない。こうした場所で賭場を開く以上、常日頃からいさかいは起きているだろう。金が集まるならば、金庫を狙う都市外の犯罪者も少なくないはずだ。
つまり、かならず用心棒たちが詰める事務所を置いているはずだ。
もしその事務所が独立した閉所にあったなら、今回の計画でニーガルタスの求める要件を満たすはずだ。ニーガルタスには、アーノルド当人から聞き出さなければならない情報があるに違いなく――それには当然、不憫なアーノルドは大きな声を上げるはずだ――さらには塵工整形師を呼ぶ必要もある。いわば臨時的な拠点として、その事務所が一石二鳥の働きをする可能性は高い。
だから、エノチカはスタジアムをおとずれたのだった。そして粛清官としての身分を使い、いかにも善良そうな顔をした受付員の男に、知りたいことをたずねた。
「た、たしかに運営事務所はすぐ近くにございます。そ、その、もし気になることがございましたら、今ここで事務所に電話をお入れしますが……?」
「いや、やめてくれ。むしろなにも言うな。あんたたちはいつもどおりにしていてくれ」
どうやら、条件に合う場所はあるようだ。そう判明すると、別行動している仮パートナーにテキストを送り、エノチカは迷いなくその場所へ向かった。
自分はあれだけいい家で暮らしておきながら、ヘクトル・メーンが部下たちに詰めさせている場所は、けして立地がいいとは言えなかった。
スタジアムのすぐとなりにあるこの並びの物件は、どれも格安に違いない。
今はレースの真っ最中のようだ。さきほどエノチカがロビーで確認した限りでは、本日の第四レースが、ちょうど今の時間におこなわれている。
空気が震動するほどの大歓声がビリビリと届いてきた。野次の入り混じった、ギャンブル中毒者たちの大絶叫だ。それどころか、実況者の中継の声までもが鮮明に聴こえてくる。
『さあ一番人気ロマン・ヴェルデス、最終コーナーを抜けて戻ってきましたッ! 追随するはミラン社の爆速怪物T-スレイヤーを駆ける十四番、四番人気のアリ・クレイデルです! クレイデル、少し足りないか! 三番手以降は――』
どれもこれもが、まったくもって騒がしい。
それでも、エノチカの心のなかは静かだった。
先端を引きずる鉄バットがからからと鳴らす音だけが、エノチカにとってクリアだった。
三階建てのビルを見上げる。
ぱっと見は、なんの変哲もない。窓は閉められ、カーテンがかかっていた。光は漏れていない。
だがエノチカは、たしかな怪しさを感じ取っていた。
インターホンを鳴らすようなことはせずに、扉に向けてバットを振り抜いた。鍵ごとノブを破壊すると、ひと息に蹴り開ける。
死体が転がっていたのをみても、エノチカはけしておどろかなかった。
室内には抗争の痕が残っている。事務所の人々は、果たして酒盛りでもしていたのだろうか、応接テーブルのうえが散らかっていた。椅子も棚もデスクも、インテリアのほとんどが半壊していた。
合計十四体の人間が、おそらくはプロの仕業とうかがえる方法で殺されている。
エノチカは天井を見上げた。
鉄バットを引きずりながら、奥の廊下へ、階段へと向かう。
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