想定外、ねぇ
ベレンスキーはベルズを畳むと、しばらくのあいだ黙っていた。
その様子が奇妙だったからか、もとの生活に戻れたら買うつもりだという車のカタログを眺めていたニーガルタスが、心配そうな声で言った。
「おい、どうしたんだ。まさか、想定外のことでもあったのか」
その問いかけにも、ベレンスキーは答えなかった。
頭のなかで考えをまとめると、うなずいてから言った。
「ミスター・アルヘン。正直にいうと、その可能性が高い」
「はぁッ……⁉」
「客室に繋いでもらったが、応答がなかった。それに加えて、あの受付の反応……」
表現しづらい微妙な感覚だったが、ベレンスキーはたしかに、ホテルの受付から異変を嗅ぎ取った。まるで電話を客室に取り次ぐことがなにかしらの災厄を呼ぶとでも思っているかのような、そういう息遣いを感じたのだった。
そう――連盟の手がすでに入っており、されど無関係な部外者には詳しく知らされないままで、どう対応すればいいのかがわからない――まるで、そういうような態度だった。
「場所を移すべきだ」とベレンスキーは言った。「なにかしらのアクシデントが起きている。そう推定して行動したほうがいい」
「てめぇ、なにを涼しい態度でいやがる……!」
ニーガルタスは椅子を蹴り飛ばすと、怒涛の剣幕で詰め寄ってきた。
「お前らがホテルでやらかしたからこうなったんじゃねぇのか? おい、わかってんだろうな。ちょっとでも怪しまれたら、その時点で計画はおしまいなんだぞ。それともなにか、条件の合う移住者がみつかるまで、また俺に一年も二年も待てってのか⁉ あァ⁉」
「……いや、一年や二年では済まない可能性がある。ともすれば、一生だ」
「は?」
「最悪のケースを想定しよう」
依然として冷静なまま、ベレンスキーは考えを話した。もちろんこんな状況であろうとも、ベレンスキーの精神は凪のようだった。
「かりに中央連盟が勘づいていたとする。その場合、おそらく原因はホテルの騒動ではない。〝二枚刃〟の姉弟がどちらも連絡が取れない状況ということは、ただの連盟の捜査員ではなく粛清官が動いている可能性があり、粛清官が動いているのだとしたら、その発端がホテルの騒ぎごときであるはずがないからだ。もっと前のフェーズに端を発していると考えたほうが、あきらかに自然だ」
粛清官というワードに、ニーガルタスはあからさまに怯えた。
ベレンスキーは気にせず続けた。
「前のフェーズということは、すなわちヘクトル・メーンの関係ということになる。今回の計画はなによりも迅速性を重視したが、ヘクトル・メーンの遺体からここまで追跡できるような相手だとしたら、完全に裏目に出たかたちとなるだろう」
ニーガルタスがマスクをはずした。
その目は大きく見開き、顔面は蒼白に染まっていた。さきほどまで余裕が嘘だったかのようにうろたえて、髪をなんども掻いて頭を振った。
「バカな、ヘクトルからだと? だとしたらなんだ、俺の目的そのものが筒抜けってことか? うそだろ、おい……うそだと言ってくれ、クソ、クソが!」
ニーガルタスは周囲のものに当たり散らした。事務所の机を蹴り飛ばし、つまらない絵の飾ってある額を壊し、電話機を振り落として粉々にした。
半死半生のような姿となっていたアーノルドが、ふしぎそうに顔を上げた。
「ミスター・アルヘン。忠告だが、不必要に暴れるな。なぜなら、たった今はレースが開催していないからだ。歓声でここの音を掻き消すことができない」
「うるせぇ!」ニーガルタスは怒鳴ると、ベレンスキーの胸倉を掴んだ。「クソ、どうすりゃいいんだ! 絶対に、絶対に捕まらねえぞ、俺は!」
「あんたは顧客だ。要望には従おう。計画を中断して、今すぐに潜伏したいというなら、そこまでは仕事の範ちゅうとして対応する。だがその場合、あんたもわかっているだろうが、移住者の身分を奪うという計画は、今後にどと使えなくなる。かりにアーノルド・シュエインを始末しようとも、関係はない」
「だが、これ以外の道は……!」
「――もしくは」
と、ベレンスキーは続けた。
「もしくは、一縷の、細い望みに賭けるかだ」
「望みだと?」
「ことわっておくが、これは不確定事項だ。が、可能性はある。なぜなら、もしも中央連盟がはじめからヘクトル・メーンの裏稼業に気づいており、ここまで追跡する手立てがあったのなら、とっくに俺たちは連盟の罠に嵌っていたはずだからだ。そうではないということは、追跡者がその場で推理しながら追っている可能性がある。そして、もしも粛清官が逐一進捗を本部に報告していないのだとしたら」
「……俺の目的を知っているのは、追ってきている連中だけの可能性があるってことか?」
ベレンスキーは首肯した。
「アーノルド・シュエインの宿泊ホテルまで辿り着いたということは、最低でも管理局に、移住予定者の名簿の照会を依頼する連絡はいっているはずだ。それでも場合によっては、ありえなくはない。いまだ、アーノルド・シュエインになりかわれるという可能性は」
ニーガルタスが深く考えこんだ。みるみるうちに額に浮かんでいく玉のような汗が、その苦悩をわかりやすくあらわしていた。
かなりの望み薄であることは、当然わかっているのだろう。だが、ニーガルタスはすでに不可逆の一手を打っている。裏社会に顔の広いヘクトル・メーンを殺害してしまった以上、ニーガルタスがニーガルタスとして偉大都市に存在し続けることは、もはや不可能に近しい。
はじめからそうといえばそうだが、いよいよもって背水の陣だ。
不退転をやるしかないのであれば、どれだけ望みが薄くても、それに賭けるほかない。
「なにより、たしかめる術はある」ベレンスキーはインジェクターを取り外すと、内部の砂塵カプセルを取り換えた。「俺の拷問に耐えられる者はいない。口を割らせることは、可能だ」
「……やれんのか? 粛清官を」
「やってみなければわからない。だが、可能性はゼロではない」
本心だった。
覚悟を決めたのか、ニーガルタスはうなずいた。
「ならば、計画は続行する。塵工整形師の到着を、警戒しながら待ち続けることにしよう」
「待て。お前には、なんのメリットがあるんだ? 粛清官とやりあう意味は、お前にはないだろうが」
メリット。その言葉に、ベレンスキーはひっかかりを覚えた。
この金の亡者とは違って、自分はそういった概念を基準に動いたことはない――そもそもの破滅主義者なのだから。
そう考えてから、いや、とベレンスキーは思い直した。
すべての人間が、みずからの利益を求めている。その単位が、他人と異なるだけだ。
それでいうなら、この行為には明確なメリットがあった。
ベレンスキーは、かつて出会った粛清官を思い出した。皮膚がすべて焼かれ尽くし、内部にあった感覚がうしなわれた日。
無痛の死人として、望まない生まれ直しを強要させられた日を。
「――粛清官と対峙することは、俺の望みだ」
ベレンスキーはそう答えた。
当人は気づかなかったが、かれはこのとき、マスクの下で笑っていた。
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