足置きにしちゃやわらかすぎたな
本部に事件の報告と応援の要請をしたふたりは、そのままヘクトルの屋敷に留まっていた。
殺害現場で、エノチカはソファの傍のオットマンに座りこんでいた。本来は足を乗せるための家具だが、構いはしなかった。マスクをしたまま、顎に手を当てて考えごとをする。
ヘクトル・メーンの殺害方法は判然としていなかった。
かれの肉体に損傷はみられない。それでいて、舌をだらんと垂れ下げて、あわれな最期の顔を曝している。きちんと検視すれば、死因はすぐにあきらかになるだろう。
だが、問題は殺害方法ではなかった。
完璧に痕跡を絶つというのは、そう簡単なことではない。とくに、これは犯人がほとんど判明しているケースだ。
だからこそ、この状況そのものが大きな問題なのかもしれなかった。
「上の階もだめでしたわ――皆殺しですわね。ヘクトルの私兵はもちろん、使用人も含めて」
検分に向かっていたキャナリアが帰ってきた。用意がいいのか、現場検証用の手袋をはずすと、同時にマスクも取り払う。
けさエノチカの部屋に襲来してきたときのような不敵な笑みは、そこにはない。
キャナリアは部屋の隅で転がっている壮年の執事らしき男を一瞥すると、やはり同様に考えこんだ。
「ニーガルタス・アルヘンが、ヘクトル・メーンを殺害した……こうなってくると、どうしたって追跡には時間を取りますわね」
「……。」
「残念ではありますが、しかたがないと言わざるを得ませんわね。それに、悪い部分ばかりではありませんわ。ニーガルタスは、これでさらなる敵を作ったことになりますもの。ヘクトルの派閥から、自然とかれにあだなすための情報が期待できますわ」
「……。」
「どうされましたの? ずっと黙って。まさか殺害現場がショックだったのかしら?」
「バカ言うな――そうじゃねぇ。それよりも、お前の見立てが甘いって言ったらどうする?」
エノチカはバットケースから今回の捜査資料を取り出した。めあての項目を開くと、目を通しはじめる。
「どういうことですの? あたくしのなにが間違っていると?」
ムッとした様子でキャナリアがたずねてきた。
「お前の言ったことの中身は間違っちゃいねーよ。たしかにニーガルタスは、これでますます都市内で逃げづらくなった。これはたしかだ。だから間違っていることがあるとすれば、前提のほうだ」
「前提?」
「考えてもみろよ。ニーガルタスは自分が黒手帳に載ってからというもの、ずっとナリをひそめていやがったんだ。今回、どうしてわざわざこんな大ごとを起こした? このさきも連盟から逃げおおせたいんなら、ヘクトル・メーンのような人脈のある男とは仲良くしておいたほうがいい。せっかくの従兄弟なら、なおのことだ。あきらかに殺すメリットのほうが少ない」
「不可抗力だったのではなくて? 自分がすでに粛清対象として狙われていることに気がついて、口封じしていったのだとか」
「もしそう勘づいていやがったんなら、タイミングを考えたはずだ。よほど急ぎの用でもないんだったら、また隠れてからどこか目立たない場所で落ち合って目的を果たしたほうがいい。だが実際には現場はヘクトルの家で、やったことはこのザマだ。どうしてだ?」
「……それは、殺害動機のことを話していますの?」
「半分はな。だが、それだけじゃない」
エノチカはますます考えこんだ。自分のひっかかりが間違っていないことには、確信があった。ニーガルタスには、なにかしらの狙いがある。
それも、なにか大急ぎの目的が。
このヘクトル殺害という択がハイリスクだったのであれば、やつが得たいのはハイリターンのはずだ。
そしてもしそうだとすれば――はやく動かないと、まずいことになる。
「動機を考えるのはむずかしい話ですわ」とキャナリアが言った。「潜伏ちゅうのニーガルタスが、厳密にどのようにして稼業をおこなっていたのかは判明していませんもの。ひょっとすれば、ヘクトルは商売敵だったのかもしれませんわ。かれの砂塵能力を考慮するなら、ヘクトルになにかしらの書類にサインを書かせた可能性もあるし、あるいはヘクトルのほうがかれを迎撃しようとして、逆に殺されたということもありえなくはないですわね」
「ありえないと断じるつもりはねぇ、っつーかできねぇけど、その線は薄いと思うぜ。やつは拷問しているんだ。この部屋には若干の抗争跡があるが、それでも基本的な死体はミラー社のパラで、一発で頭を撃ち抜かれている。ニーガルタスのほうが襲撃するつもりでやってきたって考えたほうが自然だろ」
「……それは……」
言葉を詰まらせるキャナリアに対して、エノチカは先に続ける。
「第一、迎撃ってのは相手の戦力がわかったうえでやるもんだろ? 警備の数と質をみるに、ヘクトルは警戒こそしていたが、マジの衝突はないと踏んでいたくらいのバランス感だったんじゃねーかな」
キャナリアはそこまで納得がいった様子ではなかった。
「とにかく、今は鑑識を待つしかないですわね。捜査のための能力を持った補佐課の職員が、きっと複数人いらっしゃいますわ。そこから判明した情報で判断していきましょう」
考えれば考えるほど、エノチカにはこの状況がプレッシャーに感じられてきた。
奇妙な点が多すぎる。第一、なぜやつは死体を処理していかなかった? 死体を始末している暇がないほど迅速に動かなければならなかったからではないのだろうか。
「時間をかければ、ニーガルタスの野郎は確実にみつかる。そんなことは当然、ニーガルタスもわかっていたわけだ。だったら裏を返せば、この殺しをやったことで、やつは確実に逃げられる方法をみつけたってことになるんじゃねぇか?」
オール・オア・ナッシング。のるかそるか。
そうした打開策を、ニーガルタスがみつけたように思えてならなかった。
「あのね、エノチカさん。たしかに理屈で考えれば、そうなりますわよ? でも、現実は違いますわ。少しでも頭に血がのぼれば、それだけで損得を考えられなくなるかたなんてごまんといますもの」
「んなことはわかっている。だが、少なくともこいつはちげぇんだ。こいつは人に金を貸して、冗談みてぇな利子をつけたり、偽の借用書をでっちあげて金を巻き上げる。ずっと、そういうことだけをやって生き延びてきた男なんだ。骨の髄まで損得勘定が染みついている、掛け値なしのクソヤローなんだよ。だから、この殺しにはきっと益がある」
「……やっぱり、ターゲットとはなにか関係がありますのね」キャナリアが呆れたように息をついた。「あたくし、良くも悪くも人のペースに巻き込まれるようなことはあまりないと思っていましたけど、こうも蚊帳の外に置かれると、さすがに気分がよろしくないわね」
また口を滑らせてしまった――が、今のエノチカには、そんなことはどうでもよかった。
エノチカはオットマンから立ち上がると、自分の捜査資料を真っ二つに引き裂いた。キャナリアがおどろくやいなや、その片方を相手に差し出す。
「な、なんですの」
「キャナリア。たしかにアタシは、やつについて少しは知っている。それでも、多くは知らないんだ。だから、ブレインストーミングに付き合ってくれ。なんだか嫌な予感がするんだ。鑑識の到着を待って、検査を待って、報告を待って、それからやつらを追い始めるんじゃ遅い気がするんだよ」
キャナリアは資料とエノチカの顔を見比べると、おずおずとうなずいた。
「え、ええ。もちろん、やぶさかではありませんわよ。あたくしだって解決したいのだから。でも、ブレストとは言ってもどうすれば?」
「アタシがニーガルタスの項目を読むから、お前はヘクトルの項目を読んでくれ。院の訓練でもやったろ? 犯人の思考をトレースするんだ。あいつの目的さえわかれば、今すぐに跡を追えるかもしれない」
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