っとにイカれてるって
「チョコレート、チョコレート、と……どっかに買っておいた分があったよなぁ」
エノチカ・フラベルはキッチンの戸棚をごそごそと漁っていた。
よく整理整頓されている空間が、今ばかりは物がごった返しになっていた。そのどれもがバフォメ印の既成食品――エノチカのお気に入りはカップ麺だった――だが、肝心の探し物はそのなかには含まれていなかった。
それも当たり前で、普段のエノチカはまったくといっていいほどに甘い物は食べないからだ。唯一の例外は、勝負の日に食べると決めているチョコレートだけだった。
そう――きょうみたいな勝負の日には、かならず食べたいものだったのだが。
「まあ、ないならしょうがねえかぁ」
食料箱を漁るのをあきらめると、エノチカはすっくと立ち上がった。
二十歳のエノチカの姿は凛々しい。細身の身体に、しなやかな筋肉が宿っている。
会う人会う人に「目つきが悪い」と言われるのを気にしていた時期もあったが、最近はすっかりどうでもよくなった。相手をにらむように瞼を細めてしまう癖を、とくに直そうとはしていない。
唇に開けたリングピアスを舐めると、エノチカは出かける支度をはじめた。きょうからは私服でいいと言われていたから、官林院の指定するダサいジャケットを着る必要はない。
かわりに羽織るのは、ユニフォームだった。
エノチカにとっては特別な衣装だ。これに加えてキャップと一体化したドレスマスクを被ると、否が応でも気合いが入る。
欠かしてはならないのはバットで、エノチカは肩から提げるケースのなかにきちんと二本収められているのを確認すると、ワンルームの部屋を出ようとした。
そのタイミングだった。
「おっはようございますわ! &、おじゃまいたしますわー!」
バダゴンッ、と勢いよく扉を開けてひとりの女が登場した。
彼女はかつかつとヒールを鳴らして部屋のなかに入ってくると、エノチカの姿を認めて満足そうにうなずいた。
「あら。きちんと起きていらっしゃいますのね、安心しましたわ。これで万が一にも遅刻しないで済みますわね」
ぐるんぐるんのドリルヘアーに、やけに自信に溢れた快活な表情。
服装は、このあと夜会にでも行くつもりなのだろうかという派手な装飾のドレスに、白く染めたカラスのマスクを持って、堂々の立ち姿を披露している――不法侵入してきた他人の家で。
おどろきのあまり固まったまま、エノチカは聞いた。
「おまえ……今どうやって入った? ちゃんと鍵はかかっていたよな?」
「うふふ、おもしろい冗談ですわね。そんなの、鍵を開けたに決まっているじゃないですの」
「アタシが聞いてンのは、どうやって開けたのかってことだよ……!」
「当然、スペアキーに決まっていますわ。一週間ほど前、エノチカさんが教室にバッグを置いて出ていたときにちょろっと拝借して複製しましたのよ。なにかお気になりまして?」
「気になるどころの騒ぎじゃねぇよ! 犯罪、ってか規則違反だろうが! 院に訴えんぞ、コラ!」
ギザっ歯を剥き出しにして怒鳴るエノチカに、この朝の侵入者は、まるで運悪く危険人物に出会ってしまったかのような被害者面を浮かべた。
「な、なにをそんなに怒っているのかしら……。あたくし、悪用する気なんてこれっぽっちもなくてよ? ただ、本日のような大切な日にまでいつもみたいにお寝坊なんてされたら、ものすごく、ものすごーく困るから、事前に対策を講じていただけですわ」
ほら、心配ならお渡ししますわ、もう必要ありませんし、と言って鍵を差し出してくる。
エノチカはパクパクと口を開け閉めしたが、結局はうまく怒りきることができずに受け取ってしまった。鍵を持っているにせよ、せめてチャイムを鳴らしてから開けろ、などという常識的なツッコミは、この相手にしても無駄だと思った。
「それにしても質素なお部屋ですわねー。このような飾り気のない場所で暮らしていて気が滅入りませんの?」
「よけーなお世話だっつーの。なんなんだ、っとに……」
この自分と同じ官林院の候補生、キャナリア・クィベルは、端的にいっておかしい。
エノチカの経験上、ある種の特別な砂塵能力者というのは変わっている人物が多いが、なかでもキャナリアは極端だ。院の同期のなかでも、こいつほど悪目立ちしている人間もいない。
そう考えてから――いや、と思い返す。
悪目立ちという意味では、自分もそこまで変わりないか。とはいえ、この女と違って最低限の常識は持ち合わせているつもりだが。
「んで?」とエノチカは不機嫌を隠さずに聞く。「アタシが遅刻しないかどうかたしかめに来たって? そんならあいにく、このとおり起きてるけどぉ?」
言外に謝れという意味を持たせて言ったが、この相手には伝わらなかった。
「ええ、よかったですわ。それならはやく参りましょう。さあはやく、今すぐに!」
「おい、待てよ。まだ時間あんだろ? アタシ、その前にちょっと買いたいもんがあんだけど。なぁ、購買にも菓子のたぐいって置いてあったよなぁ」
「あなたはなにを言っていますの? そんな道草、ダメに決まっているでしょう。一時間はやく行けるなら一時間はやく、三十分はやく行けるなら三十分はやく行ったほうがいいに決まっていますもの!」
「ハァ? んなの一分前でいいに決まってんだろ」
「ああ、まったく……。エノチカさん、あなたには常識というものがないのかしら」
エノチカは唖然とした。こいつにだけは言われたくなかった。
「きょうがなんの日だか、あなたもわかっていますでしょう?」なぜだか演技ったらしく息を吸いこむと、キャナリアは興奮を隠さずに続けた。「卒業考査の最終段階ですわよ!」
「んなデケぇ声で言われなくてもわぁってるよぉ」
「ほんとうかどうか疑わしいですわね。これまでの努力が結実するかどうかは、すべてきょうの疑似粛清案件で決まるのだから、教官のかたには精いっぱいの誠意をお見せする必要がありますのよ? あたくしの仮パートナーを務めるのでしたら、骨の髄までしっかりしてもらわないと困りますわ!」
だからといって約束の一時間前に行かれても向こうも困るだろうにとエノチカは思ったが、この話の通じないタイプの女と組まされてしまった時点で言い争っても無駄だとはわかっていたから、「はいはい、おおせのままにしますよぉ」と同意しておいた。
実際、きょうが特別な日であることは、だれに言われずともエノチカもよくわかっていた。
たとえるなら試合当日だ。だからこそ、縁起を担いでおきたかったのだが……
結局、エノチカはそのまま引っ張られるようにして候補生たちの寮を出る羽目となったのだった。
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