第35話 ウィリアム・ウィンタース――彼ってすごくいい人だわ!
――一年前、春。
下町の食堂で祖父と会い、具合が悪そうな様子に胸を痛めたクリスティは、店で彼と別れたあとも、長いこと家に戻れずにいた。
今もまだ食堂から少し離れたところにある雑貨店の中に留まっている。視線はチラチラと食堂のほうに向いていた。
祖父は『私はしばらくここで休んでから屋敷に戻るよ』とクリスティに告げ、彼女に先に帰るよう勧めた。
クリスティは祖父が心配であったので、『馬車まで送るわ』と言ってみたのだけれど、『大丈夫だよ』と固辞されてしまい、一旦別れるしかなかった。祖父には頑固なところがあるので、こうなったら絶対に譲らないだろう。それがクリスティにもよく分かっていたのだ。
クリスティはソワソワしながら、『じゃあ私、行くわね』と店を出たのだが、このまま放って帰れるはずもなかった。
どうしよう……お祖父様、なかなか席を立たないわ……雑貨店に飾られているスカーフをいじりながら、食堂のほうを眺める。
祖父は傷付くだろうけれど、戻って手を貸して、馬車のところまで連れて行ったほうがいい? だって、このままじゃ……
様子を窺っていると、祖父がやっと店から出て来た。ホッとしたのだけれど、歩くスピードがゆっくりで、やっぱり全然安心できない。『途中で倒れてしまうかも』と考えたクリスティは、雑貨店を出て、あとをつけることにした。
少し離れたところに、モズレー子爵家の馬車を待たせてあるはずだ。だからそこまで辿り着ければ、屋敷までちゃんと戻れる。祖父もあまりに具合が悪ければ、御者に頼んで、主治医のところに寄ってもらうなどするだろうし……。
目で追っていると、祖父がよろけ、壁に手をついてしまった。クリスティはもう限界で、彼の元に駆け寄ろうとした。祖父はクリスティに見張られていたと知れば、きっとひどく傷付くだろう。それは分かっていたけれど、どうしようもない。
体調の悪そうな老人に構う者は誰もいなかった。祖父は下町に溶け込むため、庶民の格好をしているものの、町の人間からすると顔も知らぬ『よそ者』に他ならない。見も知らぬ貧乏人に構おうなんて物好きは、どこにもいなかった。皆、自分の暮らしでいっぱいいっぱいなのだ。
――ただ、この辺りにいるのは、何も庶民ばかりではなかった。ここは下町ではあるのだが、最近開発の手が入りつつあるエリアであったので、チラホラと上流階級の人も行き来していたのだ。
けれどそんな金持ちは、尚更、貧乏人に声をかけたりしない。もしも祖父がよろけて、貴族のコートに手でも触れようものなら、鞭打たれてしまう可能性すらあった。
急ぎ祖父の元に駆け寄ろうとしていたクリスティの足がピタリと止まった。
壁に手を突き、背を丸めている祖父に、親切に声をかけた青年がいたのだ。
青年は明らかに育ちの良い身なりをしていた。金色の輝くようなサラサラの髪に、青灰の瞳。生真面目な表情を浮かべた彼は、びっくりするほど綺麗な顔をしている。
クリスティは彼のことを知っていた。社交界ではかなりの有名人だ。――ウィリアム・ウィンタース――見目麗しく、品行方正ということで、淑女の多くが彼に熱を上げていると聞いたことがある。クリスティは『へぇ』というくらいで、これまであまり気にしたことがなかった。近寄ったこともないし、たぶん一度も会話を交わしたことがない。
彼の側には赤毛の娘がいる。あの子は確か……妹のシディ……だったかしら? 夜会などで、よくセットで見かける。活動的なイメージが強いので、下町に行きたいとねだったのは、あの妹かもね、とクリスティは思った。
ウィリアムとシディは祖父に寄り添い、二、三、会話を交わしてから、一緒に移動を始めた。ウィリアムたちは祖父の体を支えてやり、馬車のところまで送ってあげるつもりのようだ。
クリスティはホッと胸をなでおろした。距離を開け、猫のような忍び足で、あとをつける。ウィリアムとシディの介助のおかげで、無事、祖父は馬車に乗り込むことができた。
「ウィリアム・ウィンタース――彼ってすごくいい人だわ!」
ウィリアムは祖父に近寄って会話を交わしたことで、『この老人はモズレー子爵だ』と途中で気付いたかもしれない。しかし最初の時点では、顔は見えなかったはずなので、ウィリアムは分け隔てのない親切心を発揮して、声をかけたことになる。――計算も何もなく、ただ具合の悪そうな老人を放っておけずに!
祖父の体調の件ですっかり落ち込んでいたクリスティであったが、ウィンタース家の兄妹が示した親切のおかげで、心が温かくなった。
それから少しして、友人のドロシーが、『縁談相手なら、おススメの相手をすぐにピックアップできるわ』と言い、九名の紳士諸君の名前を書いてくれた時、そのうちのひとマスに、ウィリアム・ウィンタースの名前を見つけたクリスティは、運命を感じた。
――そして、いざ!
クリスティは狙い通り、彼の名前を射抜いたのである。
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